第六十九話:旅立ちです。スライム国です
遠くで精霊たちの歓声が響く中、村はずれの丘から戻ってきたはじめとレイラの空気は、誰が見ても「不自然」の一言に尽きた。
はじめはどこか遠くを見つめて死んだ魚のような目をより一層濁らせ、レイラは不自然に鼻を鳴らして短剣の手入れを始めている。
「……あー、皆さん。お待たせしました。……戻りましたよ」
「ああ。……戻ったぞ」
その様子をじっと見つめていたのは、りりだ。彼女は、はじめがレイラの唇に落とした「契約」の残香を感じ取ったかのように、目を細めて二人の間を割って入った。
「はじめ様ぁ……? レイラさん。なんだかお二人とも、……よそよそしすぎませんか? さっきまで二人きりで、……何か、ありました……?」
りりの瞳の奥で、底冷えするような光が信号機のように点滅している。
「「な、何もない!!」」
見事なまでの即答。同期率は100%だ。
「りりさん。……それより、今後の予定を。……これ以上ここに居ても、巫女様の顔色がさらに悪くなるだけですからね。……一度、虫国へ戻って、ヴェスパ女王様に事の顛末を報告しましょう」
はじめは強引に話題を切り替えた。逃げるように荷物をまとめ始めるはじめを見て、りりは「……怪しい。……絶対に何かを隠しましたね……」と呟きながらも、渋々引き下がった。
「あらあらあらぁ♪ 皆さん、お帰りなさい」
そこへ、竹籠を背負った墨花が、ゆったりとした足取りで現れた。
「墨花さん。……ちょうど良かったです。僕たちはこれから女王様のところへ報告に戻りますが……」
はじめがそう告げると、墨花は扇で口元を隠し、困ったように首を傾げた。
「あらぁ、残念。私、これからお隣の『スライム国』へ、新しい食材の仕入れに行こうと思っていましたのにぃ。……あそこには珍味揃いの食材がそろってますの。うちの看板料理にしようと考えていたんですけれど……残念ですわねぇ」
「あー、……新メニュー、……ですか」
宿屋の女将としての「仕事」という言葉に、はじめの生真面目な部分がピクリと反応する。
「ええ。でもぉ、はじめ様には女王様へのご報告という大事な『お仕事』がありますものねぇ。……ふふ、それなら、私の『ぴーちゃん』にお手紙を託してみてはいかがかしら?」
「……ぴーちゃん?……それ、誰ですか?」
はじめが首を傾げた瞬間、墨花が空に向かって鋭く指笛を鳴らした。
――ピュゥゥィィィィィッ!!
上空から突風が吹き荒れ、巨大な鷹が音もなく舞い降りる。
「……っ!?……あー。……え、これ。……墨花さんのペット、……ですか?」
「ええ、とってもお利口さんな『ぴーちゃん』よぉ♪ 女王様のところくらい、ひとっ飛びで届けてくれるわ。……はじめ様、大事なご報告、お手紙に書いて預けてしまえば……私と一緒に、スライム国へ行けますわよぉ?」
はじめは、目の前の巨大な猛禽類と、微笑むミステリアスな女将(墨花)を交互に見た。
「……あー。初対面のぴーちゃんさんに、……国家レベルの報告書を託すのは、……正直、……不安しか……ありませんが……」
「はじめ様っ! スライムさん、美味しいんですか!? 私、食べたいですっ!」
琥珀がはじめの裾を引っ張り、期待に満ちた目で食い入る。
「……あー。……分かりました。……ぴーちゃんさん。……くれぐれも紛失だけはないように……頼みますよ」
はじめは渋々、懐から紙を取り出し、ペンを走らせ始めた。
こうして一行は、墨花の「ごり押し」という名の強引なナビゲートにより、予定外の「スライム国グルメツアー」へと舵を切ることになった。
ぴーちゃんを見送った後、一行が村の出口へと向かう。見送りに来たのは、少し顔色の良くなった娘のルナと、相変わらず不自然に視線を泳がせている母、レイラだった。
「……あー、ルナ。無理をさせてしまってすまなかった。……ゆっくり休んで、体調を整えて」
はじめが屈んでルナの目線に合わせて語りかけると、ルナは慈愛に満ちた、どこか大人びた微笑みを浮かべた。
「ふふ、はじめさん。私はもう大丈夫です。……お母様を、よろしくお願いしますね?」
ルナがそう言って、隣に立つ母・レイラの手をそっと握る。
レイラは、娘に促されるように一歩前に出たが、はじめと目が合った瞬間にビクッと肩を揺らし、慌てて視線を逸らして空を仰いだ。
「……あー。……レイラさん」
「……な、なんだ。別に、お前がいなくなっても寂しくなどないぞ。……な、ルナ? 母様は一人でもこの村を守れるし、スライムに足元を掬われるような鈍臭い真似もしないからな」
娘の前で虚勢を張るが、その耳たぶは隠しようもなく赤い。ルナはそんな母の様子を、すべてお見通しといった様子でクスクスと笑っている。
「……あー。……そう、ですね。……スライムは、滑りますからね。……気をつけて行ってきます」
はじめがそれだけ言って背を向けると、レイラは娘の手をぎゅっと握り返しながら、彼の背中に向かって叫んだ。
「……死ぬなよ! ……約束したんだからな! 娘の前で、恥をかかせるなよ!」
その言葉に、はじめは足を止めずに、ただ片手を少しだけ高く上げて応えた。
「はじめ様ぁ……? さっきの約束って、何ですかぁ? 娘さんの前で言えないようなことでも、したんですかぁ……?」
「えっと……ノーコメントで……」
隣でりりの声が零度(絶対零度)まで下がるのを感じながら、はじめは、必死に歩く速度を上げたのだった。




