第四十九話:本物ですか?偽物ですか?
スズメバチ城の迎賓館。
そこは、通常の賓客であれば一生に一度の栄誉と称えられるほどの豪華な一室だが、はじめにとっては「デバッグが終わらない不具合の温床」に閉じ込められたも同然だった。
「……あー。……おかしい。絶対におかしい。監視って、普通、扉の前に兵士が立つもんじゃないんですかねぇぇ……!!」
はじめは、ソファに深く沈み込みながら、テーブルに恭しく並べられた、魚人国が誇る最高級ブランド**『翠玉干し』**を絶望的な眼差しで見つめた。
すぐ隣には、ヴェスパ女王が、己の太ももとはじめの膝が触れ合うか触れ合わないかという距離で座り、指先で透き通るような翠玉の一片を摘み上げている。
「……はじめ。ほら、貴様が持ち込んだ『翠玉干し』だ。重要参考人である貴様が、低血糖で倒れては『監視』にならぬからな。食え。わらわが、特別に……あーん、してやってもよいぞ?」
「……女王様。……羽。さっきから『あーん』のリズムに合わせて、ハートマークみたいなピンク色に点滅してるんですよぉぉ!! 全然監視の目じゃないですよそれ! お気に入りのデバッガーを甘やかして囲い込もうとする、悪徳企業の社長の目ですよ!!」
「なっ……! 貴様、不敬だぞ!!」
ヴェスパの羽が幸せな赤ピンク色に輝いたその時、部屋の隅から氷点下の声が叩きつけられた。
「……ちょっと。何ベタベタくっついて『あーん』なんてやってるのかしら。この色ボケ年増女」
腕を組み、冷ややかな視線を女王に突き刺しているのはベアトだ。その瞳には、かつてないほどの「デバッグ対象(敵)」を見るような険しさが宿っている。
その足元では、琥珀が我関せずとばかりに、皿からこぼれ落ちた『翠玉干し』を「……シャク、シャク」と実に旨そうに咀嚼していた。
「……(おいしい。はじめ様の持ってきたこれ、最高)」
琥珀の無邪気な咀嚼音だけが響く中、りりは震える手でハンカチを握りしめ、うらめしそうにヴェスパとはじめを交互に凝視している。
「……あ、あの……はじめ様。女王陛下の『監視』というのは、その、物理的な接触を伴うのが……仕様、なのですか……? そんなの、そんなパッチ、聞いてません……」
今にも泣き出しそうなりりの背後で、墨花だけが「ふふふ」と穏やかな笑みを浮かべ、お茶を啜りながらこの地獄絵図をのんびりと眺めていた。彼女の瞳には、この騒動さえも心地よい日常のログとして記録されているようだった。
そんなカオスな平穏を、無慈悲なシステムアラートが切り裂いた。
扉がノックもなしに開き、アルトが影の中から音もなく現れた。その無機質な眼鏡の奥に、かつてないほどの『困惑』の色を湛えて。
「……陛下、申し上げます。ムカデ辺境伯領に向かわせた偵察隊の第一陣より、至急報が入りました」
「第一陣だと? まだ半日も経っておらぬぞ。奴ら、どこまで進んで引き返したのだ」
ヴェスパが不審げに眉をひそめる。アルトは、はじめへと一瞬だけ鋭い視線を向け、続けた。
「それが、城を出てすぐの街道で、辺境伯領から戻る途中の『伝令』を確保したとの報告です。その伝令は、はじめ様が城に到着するのとほぼ同時刻に届くよう、数日前に辺境伯殿の命令で放たれたものだそうで……」
アルトが差し出したのは、一通の親書だった。
ヴェスパがそれを奪うようにして開き、中身を読み進める。
「……なっ……!?」
ヴェスパの羽が、先ほどまでの幸せな赤ピンク色から、一瞬で「恐怖」の白銀色へと変わった。
「……はじめ。貴様……」
「……へ? 女王様、なんです。何が書いてあったんですか?」
ヴェスパの震える手が、書状を投げつけた。
そこには、辺境伯の――はじめもよく知る、あの几帳面すぎる筆跡で、こう記されていた。
『陛下。現在、はじめという名の男が陛下のもとへ向かっているはずです。彼は我が領地において「アンデッドの反乱」を捏造し、民を扇動して混乱を招きました。その正体は、国家を内部から崩壊させる「ウイルス」に他なりません。見つけ次第、直ちに捕縛を――』
「……はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!? ちょ、ちょっと待ってください!! 僕、辺境伯さんと一緒に、甘露村のアンデッドをデバッグした仲ですよね!? なんで『犯人扱い(ウイルス扱い)』の指名手配書が、僕の到着と同時に届くようにセットされてるんですかぁぁ!! 辺境伯さん、あなた、何かに乗っ取られてるんじゃないですかぁぁ!!」
はじめの叫びが、豪奢な迎賓館に虚しく響く。ヴェスパの羽は冷酷な白銀色に凍りついていた。
「黙れ、バグめ……! 辺境伯が自ら放った早馬が、嘘をつくというのか!?」
近衛兵たちが一斉に剣を抜き、はじめを取り囲む。その切っ先がはじめの喉元に突きつけられようとした瞬間、リリがその間に割って入った。
「やめてください!! はじめ様の言う通りです!!」
リリが両腕を広げ、震える体ではじめを庇う。彼女の瞳には涙が溜まっていたが、その奥にある意志は決して揺らいでいなかった。
「退け、リリ! この男はわらわを……虫国を欺いたのだぞ!」
「違います! 私、知っています……! 甘露村で、私のお父さんや村のみんなをあんなひどい姿に変えたのは、誰か別の『悪意』なんです! 辺境伯様は、たった一人でその『悪意』と戦って、はじめ様に助けを求めたんです!」
リリは、かつて自分の手で愛する父を眠りにつかせた「あの日の静寂」を思い出していた。
「今の辺境伯様の言葉は、本物じゃありません! はじめ様を『ウイルス』なんて呼ぶはずがないんです! 私たちの村を……お父さんをあんな目にした誰かが、今度は辺境伯様を……そして、このお城を壊そうとしているんです!」
彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
「はじめ様を信じてください! 私と一緒に、お父さんたちを救ってくれた……この世界で一番優しいデバッガーなんです! 彼を犯人にするなんて、絶対に許しません!」
リリの、震えながらも芯の通った叫びに、抜かれた剣の先がわずかに揺れた。
「……リリさん……」
はじめは、背中を守る少女の小さな、けれど誰よりも頼もしい温もりを感じていた。




