第四十二話:ベアトです。タイラです
はじめが重い瞼を必死にこじ開け、ドライアイに耐えながら瞬きを一つした、その瞬間のことだった。
視界の端で揺れていたはずの「龍神殿」の重厚なカーテンが、一瞬で「宝石よりも眩しく輝く白亜の廊下」へと書き換わった。
そして、その中心で鼻歌混じりに床を雑巾で磨き上げている、見覚えのある巨漢の尻が目に飛び込んできた。
「……あ。アニキ! お疲れっしたぁ!!」
雑巾を片手に、元気に振り返ったのは、先に帰ったはずのグラトニーだ。
「いやぁ、母上の神殿は広すぎて掃除が大変っすわ! アニキも早速手伝います?」
「……。……。……は? ……お前、今、なんでまた……掃除を……」
はじめは、自分の脳の処理速度(クロック数)が完全にフリーズしたのを感じた。
寝てはいない。気絶もしていない。意識はずっと地続きのはずだ。それなのに、なぜ目の前で、元・八柱のワニが楽しそうに掃除をしているのか。
「あらぁ、ひょろ男くん。思ったより随分と早く、私の懐に飛び込んできてくれたのねぇ」
耳元で囁かれた、圧倒的な慈愛に満ちた声。
はじめが凍りついたように横を向くと、そこには海龍神リヴァイアサンが、優雅に扇子を揺らしながら、まるで新しい玩具を見つけた幼子のような瞳で、彼を覗き込んでいた。
「そんなに私の『飼育箱』が恋しくなっちゃったのかしらぁ? ……いいわよ。今度はもっと、逃げられないようにこの世界の理ごと書き換えてあげましょうか?」
本物の「神」から放たれた、逃げ場ゼロの強制収容宣言。
はじめの魂が「ちょっと待って、俺まだ何も承諾してない!」とエラーメッセージを吐き出した瞬間、それを上回る怒号が、神域の静寂をぶち破った。
「――離れなさいッ!! この欲張りな年増トカゲ女ぁぁぁぁぁッ!!」
「トカゲ女……。と、トカゲ……龍神様に向かって、トカゲ……っ!!」
はじめの隣で、黒耀が顔を真っ白に染め、口元から力なく泡を吹いて膝をついた。無理もない。国を救ってくれた神へのお礼に来て、連れが放った第一声がこれだ。魚人王としての心労は、すでにオーバーフローを起こしていた。
「あぁもう、陛下!! シャキッとしなはれ!!」
たまらずタイラが割って入り、黒耀を支えながら、燃え盛るような視線をベアトへと向けた。
「……おい、そこらの不細工な羽虫!! 自分、さっきから聞いとれば、口の利き方のデバッグも出来てへんのか!? 神殿の主に向かってトカゲて……、無礼にも程があるわ!!
だいたい自分、はじめはんの『資産』やなんて言うとるけどな、横で見とるこっちは、ゴミがゴミを抱え込んどるようにしか見えへんのや!! その腐りきった性根、いっぺん海龍神様の荒波で塩漬けにされて、出直してこいボケ!!」
タイラの口から、淀みなく溢れ出す辛辣な関西弁の濁流。だが、ベアトは鼻で笑うと、扇子で優雅に自分を仰いでみせた。
「あら、……騒がしいわね。何だと思えば、この**『海に浮かんでるパンダ』**の金魚のふんが吠えてるだけじゃない?」
「なっ……!! 自分、今、……なんて……!?」
「パンダよ。海面をぷかぷか浮いてるだけの、不細工な白黒。そのパンダにくっついて歩くしか能がないなら、一生その平たい尻尾を振って、龍神様の餌にでもなっていればよろしいじゃない。ねぇ、はじめ様♡」
(……。……。……。……。……あー。……言っちゃった。海の王者を『浮いてるだけのパンダ』って……。タイラさんの般若が、今、完全に『真・般若』に進化しちゃったよ……)
はじめは、タイラの額に浮かび上がった血管が、今にも神殿の壁を突き破りそうなほど膨れ上がるのを見て、無言でグラトニーの背中の影に完全に隠れた。
「……なんですって? 海に浮かんでる、パンダ……?」
泡を吹いていた黒耀が、虚ろな目で呟く。その隣で、タイラの堪忍袋の緒が、重低音を響かせてブチ切れた。
「……おい。自分、今、なんつった? 誰がパンダや。誰が浮かんでるだけの白黒や。……あぁん!?
この『シャチ』がどれだけ海の秩序を守っとるか、その足りひん脳みそに直接書き込んでやろうかボケ!! 陛下をパンダ呼ばわりするとは、自分、今日が命日やと思えよコラ!!」
タイラが拳を握りしめ、一歩踏み出す。だが、ベアトは怯むどころか、さらに深く椅子(神殿の段差)にふんぞり返り、片膝を立てるような勢いで言い放った。
「あー……うるさい。何、その耳障りな方言。金魚のくせに威勢だけはいいのね?
いい? 浮かんでるパンダも、それにくっついてるだけのフンも、わたくしから見ればどっちも『視界のノイズ』なのよ。……そんなに吠えたいなら、ドブ川にでも帰って、一生エサの心配でもしてなさいよ。……この、下等魚類がッ!!」
ベアトの瞳に、ヤンキー特有の「冷たい殺意」が宿る。王女の気品はどこへやら、そこにあるのは、気に入らないものをすべて踏みにじる絶対的な支配者の顔だった。
「……。……。……。……。……。
……あー。……グラトニー。……今のうちに言っとくけど、あいつら(タイラとベアト)が掴み合い始めたら、俺、迷わず墨花さんの後ろに隠れるから。……お前も、母ちゃん(龍神様)に守ってもらえよ……?」
はじめは、一触即発のレディースバトルの熱気から逃れるように、一歩、また一歩と後退していった。
「――ああぁぁぁぁぁもう、やかましいわッ!!」
神殿の床が振動するほどの絶叫。
タイラとベアトの間に、頭を抱えたはじめが乱入した。その顔は脂汗と疲労で、もはや救世主というよりは「納期直前の限界エンジニア」のそれである。
「自分ら、いい加減にしろよ! 俺を何だと思ってるんだよ!? 資産? 救世主? 笑わせるなよ!!
俺なんてな、ただ運悪くこの世界にログインさせられただけの、バグ塗れのジャンク品なんだよ!! 龍神様に食われる価値もなければ、パンダに飼われる価値も、金魚に守られる価値も1bitもねぇんだよぉ!!」
はじめはそのまま、グラトニーの手から雑巾をひったくると、神殿の床に膝をついて猛烈な勢いで磨き始めた。
「俺、掃除するから!! ここ一生磨き続けて、背景オブジェクトの一部になるから!! だからお願いだから、俺の目の前でヤンキーの集会始めるのやめてくれよぉぉ!! 龍神様も『どっちが先に泣くか』とか、そんな最悪のデスマッチ開催しないでくださいよ!! 泣くのは俺なんだよ! 今すぐ泣ける自信があるんだよぉ!!」
神殿に響き渡る、あまりに情けない救世主の慟哭。
一瞬、レディースたちの殺気が、困惑へと書き換えられた。……その静寂を、琥珀が素朴な声で切り裂く。
「ねぇ、おねえちゃん。はじめ様、なんで床とお話ししながら泣いてるの? ……もしかして、はじめ様も『パンダ』になりたいの?」
「わ、わわっ、違うのよ琥珀ちゃん!!」
りりが、顔を真っ赤にしながら慌てて琥珀の口を塞ぎ、はじめの背中を庇うように叫んだ。
「はじめ様はね!? 今、自分を『最低のシステムログ』まで格下げして、お二人を仲直りさせようとしてるだけなの!! 決してパンダになりたいわけじゃなくて……ええい、はじめ様! とりあえず雑巾を離してください、龍神様の床が、はじめ様の涙で逆に汚れちゃってますからぁぁ!!」
「いいんだよりりちゃん!! 俺の涙は聖水なんだよ!! これで神殿の汚れも、女の争いも、全部洗い流してログアウトさせてくれよぉぉ!!」




