第四十一話:墨花ですか?旅立ちです
ふと、はじめは周囲の「重圧」が、いくぶん軽くなっていることに気づいた。
つい先刻まで、この蒼い海を支配していたあの圧倒的なプレッシャーが、霧が晴れるように消えているのだ。
(……。……。……あ。……あの神様、もういねーわ)
リヴァイアサン――真央様は、文字通り「シレッと」帰っていった。毒を平らげ、腹が膨れた瞬間に興味を失ったのか、礼を言う間も、ハッタリの続きを聞かせる間もなく、深海の闇へとその巨大な影を溶かしたのだ。
そして、その「神の気まぐれ」は息子にも遺伝していたらしい。
「――んじゃ、アニキ。あっしもこれにて失礼しやす!!」
「……は?」
はじめが振り向くと、巨漢のワニ――グラトニーが、満腹で幸せそうな顔をして片手をひらひらと振っていた。
「母上(リヴァ様)が帰るってんなら、あっしもついていかねーと! 魚人国のメシも旨そうっすけど、今は胃袋がパンパンで1bitも入り切らねぇっす!! アニキ、お疲れーした!!」
軽快すぎる挨拶を残し、元・終末の八柱は、はじめがツッコミを入れる暇もなく、巨大な尾ひれを力強く一振りして神のあとを追っていった。
「……。……。……。……あいつ、本当にただの食い逃げじゃねーかよ……!!」
はじめの魂の叫びが、透明な海中に虚しく響く。だが、その背後に般若が降り立った。
「……ひょろ男はん、いつまでも口開けてアホ面さらしとる場合やありまへんで」
タイラが、腕組みをしたまま海水をも沸騰させそうな視線ではじめを射抜く。
「神様一行は、自分勝手に来て自分勝手に帰るのが仕様や。そんなん気にしとる暇があったら、これからの海をどう管理していくんか、仕様書の書き換え(あとしまつ)の算段立てなはれ。……それに、陛下(女王様)もさすがにお疲れや。一度城に戻って、身なりも状況も、キリッと整理し直すべきやろ?」
「……整理って、まさか残業のことじゃないですよね?」
「当たり前や! 泥だらけの救世主なんて、魚人国の恥や。……さあ、陛下、まいりましょう。……アルトはん、アンタもはじめはんの首根っこ掴んで、シャキッとさせなはれ!!」
「……御意」
アルトが冷徹に頷き、はじめの腕を掴み上げた。
「ちょ、待っ……! 引っ張るなアルト! 俺の関節、今バグってるんだから……!!」
はじめの情けない悲鳴を先頭に、一行は宝石のような輝きを放つ魚人城へと、ゆっくりと泳ぎ出した。
宝石の輝きを取り戻した魚人城、その最奥にある玉座の間。
重厚な扉が開かれ、アルトに引きずられるようにして入ってきたはじめを待っていたのは、かつての死の白を脱ぎ捨て、神々しいまでの光を纏った女王の姿だった。
黒耀は、ゆっくりと玉座から立ち上がると、はじめの目の前まで歩み寄り――あろうことか、一国の王として深く、その頭を垂れたのだ。
「はじめ殿。……この度は、我が魚人国を滅亡の淵から救っていただき、心より感謝する。貴公という『奇跡』がいなければ、この蒼い海は二度と戻らなかったであろう」
「……え、あ、いや……ちょっ、陛下!? 頭上げてくださいよ! 困りますって、俺みたいなひょろ男にそんな……!!」
はじめが脂汗を流しながら狼狽えた、その時だった。
「――陛下!! そこまでしはる必要、どこにもありまへんで!!」
氷点下の鋭い声が、広間に響き渡った。
般若の形相で二人の間に割り込んだのは、タイラである。彼女は、王が下げた頭を無理やり掴んで戻さんばかりの勢いで捲し立てた。
「陛下、騙されたらあきまへん! こいつ、実質なんもしてへんのですわ!! ただ突っ立ってハァハァ言うてただけで、あとは全部『偶然』と『運』で片付いた話なんです!!」
「何を言うのだ、タイラ。現にこうして海は戻ったではないか。あの方(リヴァイアサン様)を、あのような形で呼び寄せ、毒を平らげさせた……。それこそが、はじめ殿の底知れぬ実力ではないのか?」
「そんなん、ただの食いしん坊の神様が勝手に通りがかっただけですわ!! はじめはんにそんな力、1bitもありまへん!! 全部、偶然。ミラクル超えたただの事故です!!」
女王と女官長が、はじめの目の前で「救世主の評価」を巡って激しく言い争う。
本来なら誇らしいはずの光景だが、タイラの正論があまりに自分の心根を射抜きすぎていて、はじめのメンタルは急速に削られていった。
「……あの。……お二人とも。……タイラさんの言う通り、俺、本当に何もしてないんで……。だから、その……感謝の代わりに、横になれる平らな畳とか、いただけませんか……?」
はじめの消え入りそうな懇願は、白熱する二人の議論(という名の公開処刑)にかき消され、広間の天井へと虚しく吸い込まれていった。
「……陛下、タイラ殿。お二人の熱意は理解しましたが、このままだと救世主が『餓死』か『睡眠不足』で本当にただの骸になりますよ」
アルトが、眼鏡をパシリと直しながら事務的な声で割り込んだ。
「……ふむ。そうであったな。はじめ殿の疲労は、私の想像を超えているようだ」
黒耀がようやく我に返り、心配そうにはじめを見つめる。
「……せや。こいつ、精神力の燃費が致命的に悪いんですわ。……陛下。とりあえず、こいつの『口』を塞いで、無理やりにでも休ませるための“特効薬”……用意してありますな?」
タイラがニヤリと不敵な笑みを浮かべ、広間の端に控えていた一人の女性に視線を送った。
白熱する「はじめ評価会議」を余所に、本人はすでにもう、立ったまま意識が数bitほど遠のいていた。そこへ、広間の静寂をゆったりと切り裂くような、どこか場違いにのんびりとした声が響く。
「あらあらあらぁ〜……。随分と、お騒がしいことですわねぇ」
はじめが重い瞼を上げると、そこには薄紫の衣をなびかせた墨花が、扇子で口元を隠しながら、どこまでも飄々と歩み寄ってくるところだった。鈴の音のように軽やかで、けれどどこか「核心を一切掴ませない」響きが、はじめの疲れた脳に染み込んでいく。
「墨花さん……。いつからそこに……」
「つい先ほどからですわ。……でも、はじめさん。あまりゆっくりもしていられませんことよ? 虫国の方では、ベアト様の代理を務めていらっしゃる方が、過剰な業務でそろそろ……死んでしまいますわよぉ? うふふ」
墨花は、他人の命の灯火が消えかけていることを、まるで明日の天気でも話すかのような軽さで告げた。その言葉に、はじめが「えっ、誰が死ぬの!? 俺のせい!?」と戦慄した瞬間、隣からさらに冷ややかな声が突き刺さる。
「別に、死んでも構いませんけど?」
ベアトが、退屈そうに爪先を眺めながら鼻で笑った。彼女にとって、自分の不在を埋める代わりの「リソース」がどうなろうと、興味の対象外なのだ。ベアトはそのまま、蕩けるような甘い笑みをはじめに向ける。
「ねぇ、はじめ様♡ 替え(代わり)なんていくらでもいますもの。それより、わたくしを早くお城へ送り届けてくださるかしら?」
「……。……。……。……。
……なぁ、ひょろ男はん。今さらやけど、このパーティ……。
『良心』ちゅう概念、1bitもインストールされてへんのとちゃいますか?」
タイラの心配をよそに、一同は城から離れ、リヴァイアサンの城に来ていた......




