第四十三話:牛丼ですか?つゆだくで
「あらあらあらぁ〜……うふふ。皆様、随分と仲がよろしいようで。これなら挨拶も滞りなく終わりましたしぃ〜……はじめさん、そろそろお暇しましょうかぁ〜?」
神殿の重苦しいカオスを、扇子一本でパタパタと仰ぎ飛ばすように、墨花が場違いなほど穏やかな声を上げた。
はじめは雑巾を握りしめたまま、信じられないものを見る目で姐さんを仰ぎ見た。
(……挨拶? 今のが? 罵り合って、泡吹いて、俺が床を涙で汚した今の地獄が、この人の辞書では『挨拶』って定義されてんの!? この人の脳内、どんな特殊なOS積んでんだよ……!!)
「いつ挨拶が終わったんやッ!! リヴァイアサン様も呆れ果てとるわボケェ!!」
案の定、タイラの鋭いツッコミが神殿に響き渡った。黒耀を支えながら、切れ気味の視線を墨花へと向ける。
「いい加減にしなはれ! こっちは陛下がお礼に来て、無礼な羽虫が暴れとる真っ最中やぞ! どこに帰る要素があるんや!」
だが、その怒号を制したのは、他ならぬ神の、凛とした鈴の鳴るような笑い声だった。
「いいのよ。……うふふ、面白いものが見れたから。退屈な神殿の時間が、少しだけ癒された気分だわ」
リヴァイアサンは優雅に扇子を閉じると、一段高い場所から、地を這うように床を磨くはじめを、真っ直ぐに見据えた。
その瞳には、冗談を好む無邪気さと、すべてを見透かす神の威厳が同居している。
「ねぇ、ひょろ男くん。……そんなに必死になって、みんなの機嫌を取って。……一つ聞いてもいいかしら?」
リヴァイアサンがゆっくりと歩み寄り、はじめの顎を扇子の先でクイッと持ち上げた。
視界が強制的に固定される。逃げ場のない、圧倒的な美しさと圧。
「あなた、本当は誰が好きなの? ……そこに、愛はあるんか?」
(……。……。……。……。……。
……きたぁぁぁぁ!! 本物(神様)の、あのセリフきたぁぁぁ!!)
はじめは、神殿の宝石よりも眩しい龍神様の眼力に、心臓がオーバーヒートを起こしそうになった。
愛。神が問う、システムの根源的なエラー。
背後ではベアトが「わたくしに決まってるじゃない!」と殺気を放ち、タイラが「ここで変なこと言うたら刺すぞ」という般若の圧をかけ、りりが「は、はじめ様……!?」と祈るように手を握っている。
(……あの、神様。……そこ、今一番聞いちゃダメなやつ。一番、愛がない場所で聞いちゃダメなやつです……!!)
「……愛? 愛ですか。……ははっ、神様、それ、今ここで聞きます?
いいですか、愛っていうのはね、本来もっとこう……適切な手続きを踏んで、然るべきタイミングで、例えば夕暮れの波止場とか、あるいは残業帰りの牛丼屋のカウンターとか、そういう『情緒のバッファ』が確保された場所でやり取りされるべき重要データなわけですよ!!
それをなんですか、この宝石で目がチカチカするような神殿の、しかも隣に『トカゲ女』って叫んで今にも誰かを刺しそうな羽虫がいて、後ろには般若がいて、床には俺の涙の跡があるっていう、この劣悪なシステム環境で! 『誰が好きなのか』なんて聞くのはね、もうこれは『強要罪』、あるいは『感情のハラスメント』、略してカンハラですよ!!
だいたい俺が誰かを好きになる権利があるなら、まず先に俺をこのバグだらけの世界に放り込んだ奴に『返品保証』の確認をしたいんですよ!! 誰かを愛する前に、俺は俺の『平穏』を愛したい!! 全員に好かれていたいっていうのは、これはもう生存本能、一種の『システム保護』なんです!!
誰か一人を選んで他の全員を敵に回すような、そんな負荷の高い処理、俺の旧型プロセッサじゃ焼き切れちゃうんです!! 愛はあるかって? 愛どころか、今の俺にあるのはね、この神殿の廊下が、無駄に長くて角ばってることへの、激しい怒りだけなんだよぉぉ!! なんでこんなにカクカクしてんだよ! 角に足の小指ぶつけたらどうすんだよバカ野郎ぉぉ!!」
神殿の静寂を、はじめの「牛丼へのこだわり」と「廊下の角への怒り」が塗りつぶしていく。
「……あ、あの……。残業明けの、……吉牛……?」
呆気にとられたように、ベアトが毒舌を忘れて呟く。
「自分……今、海龍神様の前で、食べ物の好みの話……したんか……?」
タイラの般若も、困惑という名のバグで少し歪んでいた。
だが、はじめは止まらない。一度走り出した「言い訳エンジン」は、オーバーヒートするまで冷却を拒むのだ。
「そうですよ!! 紅生姜をどれだけ載せるか、その一瞬の決断に込める情熱こそが、俺たち下等市民にとっての『愛』なんです!! 神殿の角ばった廊下の角に小指をぶつけるリスクに怯える俺に、壮大な愛を説くなんて、CPUの無駄遣いもいいところですよ!! 分かったら神様、今すぐ俺を吉牛のカウンターまで強制転送してください!! つゆだくで!!」
(……。……。……。……。……。
……あー。……言っちゃったよ、この人。神様に向かって『つゆだく』とか注文し始めたよ……)
はじめは、自分の吐き出した言葉のあまりの支離滅裂さに、逆に清々しい表情(白目)で神殿の天井を見上げた。
神殿に響き渡る、はじめの魂の叫び。そのあまりに場違いな熱量に、神殿の空気は凍りつくのを通り越して、もはや「処理落ち」に近い沈黙に包まれた。
「……ねぇ、おねえちゃん。ヨシギュウって、なあに?」
その静寂を、琥珀が真っ直ぐな瞳で切り裂いた。異世界に住む彼女にとって、はじめが叫んだその単語は、神殿の魔導書にも載っていない未知の呪文に聞こえたのだろう。
「えっ? あ、ええと……」
りりが、顔を真っ赤にしながら慌てて思考回路をフル回転させる。はじめの失言をフォローしなければ。神様の御前で『安い・早い・旨い』の三拍子を説くわけにはいかない。
「ヨシギュウっていうのはね、琥珀ちゃん!! ほら、神社にお参りした時におみくじを引くでしょう? あの『吉』よ!! つまり……その……牛さんがいっぱいの、最高に縁起がいい『吉』のことなのよ!!」
「うしさんが……いっぱいの、きち?」
琥珀の目が、キラキラと輝き出した。
「そう!! 牛さんが、こう……溢れんばかりに(丼の上に)盛り付けられた、神聖な神事の一種なの!! だからはじめ様は、今ここで神様に『最高の吉兆』を授けてくださいって、命懸けで祈っているのよ!!」
(……。……。……。……。……。
……りりちゃん。……君、天才か? ……俺の「吉牛食わせろ」っていう最低の欲望が、今、君の手によって『神への神聖な祈祷』に書き換えられたよ……!!)
「あらぁ……牛がいっぱいの、吉……? うふふ、随分と欲張りな祈りなのねぇ」
リヴァイアサンが、扇子で口元を隠しながら、さらに楽しげに目を細める。
「いいわ。その『ヨシギュウ』とやらが、私の神殿の角を削り取ってまで望むものだというのなら……。はじめくん、私の『お気に入り』として、一生その牛さんの吉を、私のために生成し続けてくれるかしらぁ?」
(……。……。……。……。……。
……あー。……終わった。……俺、これから一生、神殿の厨房で牛丼作らされるハメになるフラグ、これ確実に立ったわ……)
「あらあらあらぁ〜……。では、挨拶も滞りなく終わりましたしぃ〜。そろそろ、本当にお暇しましょうかぁ〜?」
はじめが牛丼職人としての永住フラグを立てられそうになった瞬間、墨花がパチン、と扇子を鳴らした。
神殿の重々しい空気が霧散し、帰還のプログラムが起動し始める。
タイラは、泡を吹いて白目を剥いたままの黒耀を、手慣れた様子でアルトと二人がかりで抱え上げると、神殿の入り口で振り返った。
そこには、まだ「牛がいっぱいの大吉」の話に目を輝かせている琥珀や、呆れ果てたベアト、そして優雅に微笑むリヴァイアサンがいる。
「リヴァイアサン様、今日は色々とおおきに。……ほな!」
神に対して、近所のオバちゃんのような軽さで別れを告げたあの瞬間。
リヴァイアサンが、人生で初めて「……ほ、な……?」と、戸惑ったような表情を見せた。その神のバグった顔を背景に、墨花が再び扇子を振る。
瞬きをする間もなかった。
白亜の神殿は一瞬で、潮風の香りと、活気ある市場の喧騒――海王市の港へと書き換えられた。
「……。……。……あ。……帰ってこれた。……生きてる。俺、ログインしてる」
はじめは港の石畳に膝をつき、その感触を確かめるように撫で回した。もうそこには、角に小指をぶつけそうな廊下も、愛を問う神もいない。
「……あー、びっくりした。リヴァイアサン様、最後の方は完全に『つゆだく』の虜になってはりましたな」
タイラは満足げにそう言うと、意識のない黒耀を軽々と肩に担ぎ直した。
「んじゃ、うちら(魚人国勢)は陛下を医務室に連れていききますわ。ひょろ男はんも元気でな」
タイラと黒耀が人混みの中へと消えていく。
「……さあ、はじめさん。牛さんの『吉』はまた今度にしてぇ、まずは獣国へ戻ってぇ、しんさんにあいにいきましょうかぁ~〜? うふふ」
「……。……。……。……。……。
……あー。……やっぱり、牛丼屋のカウンターの方が、よっぽど愛に溢れてたわ……」




