第三十八話:毒ですか?塊です
「……。…………ピキピキ、ピキ、……。…………」
グラトニーの尻尾が、不規則なリズムで北の深淵を指し示し続ける。
海流の色はすでに「紺」を通り越し、光が完全に死んだ「無」の領域へと差し掛かっていた。はじめは、手にした端末のバックライトだけを頼りに、その大穴の入り口を見上げた。
「……アルト君。この先の環境データ、読み取れるか?」
「……。……不可能です、はじめ様。ここから先は、既存の物理法則が……いえ、データの記述形式そのものが書き換えられています。……まるで、誰かの『プライベートな実験場』のようだ」
アルトが眼鏡をクイと押し上げ、無機質な報告を上げる。その横で、タイラが槍を握り直し、低い声で毒づいた。
「……あかん。わてのエラが、さっきから『来るな、戻れ』って警報出しっぱなしや。……はじめはん、ホンマにこの中、『お着替え中』の平和な場所なんやろな?」
「……。……え、ええ。……システムの深部にある、クリーンルームのようなものですよ(大嘘)」
はじめは、琥珀の純粋な瞳から視線を逸らし、震える足で闇へと踏み込んだ。
その時だった。
グラトニーが「ピキッ!?」と短い悲鳴を上げ、その巨体をさらに縮こまらせた。
闇の向こうから、無数の「光る目」が浮かび上がってくる。
それは、魚人族でも獣人族でもない。ボロボロの鎧を纏い、肉体の代わりに青白い燐光を宿した——アンデッド(幽霊軍)の兵士たち。かつて獣王領を焼き尽くそうとした「亡霊」たちが、この深海の底を埋め尽くすように、なだれ込んできたのだ。
「——っ!! アンデッド!? なんで、海の中にまで……ッ!!」
はじめが叫び、ベアトが聖剣を抜こうとした、その刹那。
兵士たちの波が左右に割れ、一人の男が静かに、滑るような所作で現れた。
黒い、夜の闇よりも深い色をしたタイトな戦闘衣。
音もなく、気泡すら立てず、その男はただそこに「存在」しているだけで、周囲の音をすべて吸い取っていくような錯覚を抱かせる。
「……あ。……あ、……サ、サイレント……の兄貴……」
グラトニーが、情けない声を漏らして後ずさる。
男——サイレントは、感情の読み取れない冷徹な瞳で、まずは足元で震えるワニを一瞥した。
「……。……グラトニー。……君をスカウトし、この海域の『整理』を任せたのは、他でもない私ですが……」
サイレントの声は、細く、低く、そして驚くほど澄んでいた。
まるで、鼓膜に直接冷たい針を刺されるような、絶対的な「静寂」の響き。
「……まさか、これほどまでの『バカ』だとは思いませんでした。……あの方(しゅう様)から与えられたプログラムを、あろうことか『ハタキ』に持ち替えて、敵のセキュリティ掃除を手伝うとは。……君の演算回路は、腐った海藻でできているのですか?」
「ひ、ひぃぃっ!! ごめんなさい、兄貴! でも、あのはじめアニキが、すごく頼もしくて……ッ!!」
「……。……黙りなさい。……耳障りです」
サイレントが指先をわずかに動かす。
その瞬間、周囲を囲んでいた幽霊軍が一斉に槍を構え、はじめたちへの「完全消去」の構えを取った。
「……はじめ様、と言いましたか。……あの方(しゅう様)が、君との再会を『楽しみにしている』と言っていたので、手出しは無用かと思っていましたが……」
サイレントが、はじめの目を真っ向から射抜く。
「……ズバリ。……君たちが琥珀という子供についた『やさしい嘘』。……それをこのまま、残酷な真実へと書き換えるのが、私の仕事です。……死者は着替えなどしない。……ただ、消えるだけだ」
はじめの心臓が、最悪の警告音を鳴らした。
ついに現れた、しゅうの右腕。
論理と殺意が同居する、静かなる絶望の化身。
「……。……ではあとは、この子たちと遊んでなさい。……。……永遠に……」
サイレントは、深淵のような低音を残すと、水流すら動かさず、闇の中に溶けるように消えた。
残されたのは、はじめたちを包囲する、数千、数万の幽霊軍。
青白い燐光を宿した槍の穂先が、一斉にはじめの胸元を狙う。
「……はじめさん……っ、もう……、……逃げ場が……」
りりが震える手で、はじめを庇うように蜘蛛の糸を広げるが、あまりの物量に、その防壁はあまりにも薄く見えた。はじめは、恐怖で硬直する琥珀を抱き寄せ、奥歯を噛み締めた。
「(……クソッ! ここでデッドエンドかよ……っ!! しゅう、……お前の部下は、……冗談が通じなさすぎる……!!)」
幽霊軍が、無機質な一歩を踏み出した、その刹那——。
「——お前たちッ!! そこで何を遊んでおるかァッ!!」
ブルーホールの静寂を、物理的な衝撃波を伴う烈火の如き咆哮が突き抜けた!!
ドガァァァァァァァンッ!!
はじめたちの背後から、漆黒の雷鳴が轟いたかのように、巨大な水流が幽霊軍の陣形を粉砕した。
そこに立っていたのは、真珠の光を纏った、怒れるシャチの女王・黒耀。
「……陛下!? ど、どうしてここに……っ!?」
はじめが驚愕して叫ぶ。
実はタイラがいち早く、「魚人族の至宝」の準備を進めている女王へ、状況の連絡を入れていたのであった。それを聞いた黒耀は、至宝の儀式を一時中断し、自らの判断でこの深淵へと駆けつけたのだ。
「毒を消せと言っただろうがッ!! こんな場所で亡霊どもに囲まれて、時間を浪費してどうするッ!!」
黒耀は、射抜くような眼光で周囲を射抜くと、そのしなやかな肢体で深海を舞った。
彼女の振るう槍が、まるでシャチの尾が海獣を叩き伏せるように、幽霊兵たちを文字通り「薙ぎ払い」、一瞬で霧散させていく。
「……す、すごい。……これが、魚人国のトップ……スペック……」
アルトが冷静に解析しながらも、その光景に眼鏡を曇らせる。
幽霊軍の波は、黒耀というたった一人の「王の武力」の前に、ただのノイズのように消えていった。
最後の一兵を粉砕した黒耀は、燐光を払うように槍を振ると、地面に尻餅をついたままのはじめを冷徹に見下ろした。
「……フン。……はじめ、貴様……。……こんな簡単なおつかいすら、自力でこなせんのか」
黒耀は、呆れたように鼻で笑い、言い放つ。
「……まったく。……あやつ(しんのすけ)の使いというから、少しは期待しておったのだが。……当てにならんな、地上の男は」
「……。……ぐ、ぐうの音も出ません……っ!!」
はじめは、女王のあまりの強さと、上様を「あやつ」呼ばわりするその度胸に、ただただ圧倒されるしかなかった。
だが、黒耀の視線は、はじめの背後で怯える琥珀へと向けられ、わずかに和らぐ。
「……タイラ。……至宝の準備を再開する。……今度こそ、一気に決めるぞ」
「……。……へい。……いつでも『バーッ!』といけますわ、陛下」
「……よろしい。……はじめ、立て。……真実だの嘘だのと、小賢しい理屈で悩む暇があるなら……王の実行に従え。……これより、この海の最深部を、我らが手で再起動させるぞ!!」
そこで一行を待ち構えていたのは、想像を絶する光景だった。
「……なんや、これ。……えげつない……」
タイラが震える声で呟く。そこには、巨大な心臓のように脈動する、漆黒の毒の塊が鎮座していた。周囲の海水は、その「中枢」から溢れ出す汚染データによってドロドロに濁り、視界を遮っている。
「ここや……。ここから、毒がどんどん流れとる。……はじめはん、これ、放っておいたら海宝市どころか、魚人国の海が全部死に体になってまうで」
「……この規模……。……想像以上だ……」
はじめが端末を向けるが、画面には赤文字の警告ログが滝のように流れ、測定不能を意味するノイズが走る。
「ならば、一気に片付けましょう! はじめ様!!」
聖剣を抜き放ち、眩いばかりの光を纏ったベアトが前に出た。
「この邪悪な塊、私の聖なる光で跡形もなく浄化して差し上げますわ! はじめ様、三秒だけ目を閉じていてくださいな、すぐに終わりますわッ!!」
「待って!! 待ってくださいベアト様!!」
はじめは慌ててベアトの肩を掴み、制止した。
「……規模が大きすぎる。……力任せに叩けば、毒が四散して逆に汚染が加速する可能性がある。……アルト君、計算してくれ。ベアト様の全出力で、このコアを完全に消去できるか?」
アルトは眼鏡をクイと指で押し上げると、手に持った計測器と眼前の毒の質量を高速で演算し、そして……無情な首振りと共に、冷徹な宣告を投げた。
「……無理です。……はじめ様。ベアト様の出力は確かに最大級ですが、この毒の根は、海溝のさらに奥……システムの基底レイヤーにまで侵食しています。……現状、ベアト様がどれだけ『愛』を注ぎ込んだとしても、浄化しきれるのは良くて半分。……残りの五十パーセントは、確実に残留ります」
「……五十、パーセント……」
ベアトの剣先が、わずかに揺れた。
絶望が、冷たい海水よりも重く、はじめたちの肩にのしかかる。
「……半分残ったら、またすぐに増殖するってことですよね。……。……そんな……。……お着替え中のみんなは、……。……どうなっちゃうの……?」
琥珀が、不安そうにはじめの顔を覗き込む。
はじめは、言葉に詰まった。50%の残留。それはエンジニアにとって、デバッグの失敗を意味する。
「(……クソ。……どうする。……何かないか……。……何か、この五十パーセントを埋める……『外部プラグイン』は……!!)」
絶望する一同の背後、闇の向こうで。
しゅうが、かつての友人の「詰み」を、楽しげに見つめていることにも気づかずに。




