第三十六話:やさしいうそ。残酷な真実(第2弾)
砂煙がゆっくりと海底へ沈み、視界が開けていく。
はじめは、期待に胸を膨らませて「解凍」の瞬間を待っていた。だが、目に飛び込んできたのは、命の脈動を失い、ベアトの熱量によって無惨に崩れ落ちたサンゴの残骸……そして、灰のように白く濁った海水の澱みだった。
「(……えっ。動かない。ていうか、崩れた。……あ、そっか。止まった時点で死んでたんだ、みんな。俺、生命科学の基本中の基本を『わかったふり』でスルーしてた……ッ!!)」
はじめの背筋を、海水よりも冷たい戦慄が走り抜ける。
横では、ベアトが聖剣を鞘に収め、満足げな笑みを浮かべていた。
「見なさいな、はじめ様! あの不気味な『白』が消え、光り輝く塵となって舞っていますわ! これぞ愛のクレンジング、大成功ですわねッ!」
「……あ、あはは。……流石、ですね、ベアト様(やばい。これ、ジェノサイドだ。ただの大量虐殺だ……!!)」
はじめの顔面は、今やサンゴ礁よりも白くなっていた。
タイラが震える足取りでサンゴの残骸に近づき、その中の一つを手に取る。それは触れた瞬間に粉々に砕け、虚しく海中へ霧散した。
「……はじめはん。……これ、解凍……やなくて、『消滅』してますやん……。お魚さんも、一匹も泳いでへん。……これ、水晶宮にどう説明……」
「……っ!! ち、違いますよタイラさん!!」
はじめの脳内サーバーが、オーバーヒート寸前の速度で「ハッタリ」を生成し始める。
「アルト君、計測データを修正してくれ! ……ベアト様、お見事です。……これこそが、俺の狙っていた『第2段階』、すなわち**【物理的殻の聖なる初期化】**だッ!!」
「……ほう?」
アルトが、エラーを吐き続ける計測器を隠すように眼鏡をクイッと上げた。
「……左様で。はじめ様、つまりこれは、毒に侵された肉体という『壊れたハードウェア』を一度破棄し、魂のログを純粋なデータとして海へ還す……『アセンション(昇天)』という理解でよろしいですね?」
「そ、その通りだ!! よくわかっているじゃないかアルト君ッ!!」
はじめは、アルトの助け舟に全力で飛びついた。
「いいですか皆様! 毒という名のデッドロックを解除するには、OSごと一度消去するしかなかったんです! ベアト様の愛は、彼らを肉体の苦しみから解放し、魂のバックアップを海そのものへ同期させたんですよ! ……いわば、これは『除霊』に近い神聖なプロセスなんです!!」
「まあ……! 魂の救済……! 私は皆様を、自由にして差し上げましたのねッ!!」
ベアトが感極まった表情で胸に手を当てる。
「素晴らしいですわ……っ!! はじめ様、死という名の静寂を、次の命へ繋ぐための『沈黙の種』へと変えてしまわれるなんて……っ。これぞ真理、これぞ福音です……!!」
りりが膝をつき、祈りを捧げる。タイラだけが、引きつった顔で「……そんな無茶苦茶な……」と呟きながらも、はじめの必死な目力に圧されて口を閉ざした。
混沌とした「肯定」の熱気が場を支配しようとした、その時だった。
「ねえ、はじめさん」
無邪気な声が、凍りついたサンゴの森に響いた。
琥珀が、足元に転がる、真っ白に変色した小さな魚の亡骸を指先でツンツンと突ついている。
「……これ、いっぱい死んじゃいましたね。……お目々も、お口も、真っ白だよ? 誰も動かないし、みんな砂になっちゃった。……これ、もう戻らないの?」
「……」
その、あまりにも純粋で、容赦のない「真実」の一言。
はじめの積み上げたハッタリの城壁が、音を立てて崩れ始める。
ベアトの笑顔が凍りつき、りりの祈りの手が止まり、タイラの胃から「バキバキバキッ!!」という、かつてない破壊音が響き渡った。
一同の視線が、一斉にはじめに集まる。
そこにあるのは、救済された魂の輝きではなく、ただ冷たく、静かに横たわる「死」そのものだった。
「(……琥珀ちゃん、それだけは言わないで欲しかった……ッ!!)」
はじめの額から、海水に溶けることのない、大粒の脂汗が流れ落ちた。
「……あ、いや。琥珀、それはだな……」
はじめは、泳ぐ視線を無理やり琥珀の潤んだ瞳に固定した。
脳内では、現代社会で培った『論理思考』がフル回転している。だが、出てくる単語はどれもこれも、七歳の子に投げつけるにはあまりに無機質で、角ばったものばかりだった。
「……つまり、この子たちは今、肉体という……その、物理的なインターフェースをですね。一度、リセット……いや、最適化してだな。海という巨大なサーバーに……」
「……はじめはん。それ、自分でも何言うてるか分かってへんでしょ?」
タイラが、もはや憐れみすら込めた目で、はじめの背中を叩いた。
アルトも眼鏡のブリッジを押し上げ、無情なログを報告する。
「はじめ様。七歳児の語彙力に対するその説明は、エラー率九割を超えます。もう少し……こう、『情緒』という変数を取り入れるべきかと」
「(……わかってるよ! でも俺、子供にどう接すればいいかなんて、これまでの人生で一度も検索したことないんだよッ!!)」
はじめが脂汗を流しながら絶望の淵に立たされた、その時。
「……琥珀ちゃん」
鈴を転がすような、穏やかで優しい声がした。
りりが、琥珀の小さな背丈に合わせるように、その場にそっと膝をついた。はじめを見上げる時の熱狂的な光は影を潜め、今の彼女の瞳には、母性にも似た慈しみが宿っている。
「……あのね。はじめ様はね、この子たちに『魔法の種』をプレゼントしたの。琥珀ちゃん、見てごらん? このキラキラ舞ってる白い砂はね、この子たちの『新しいお洋服』になるんだよ」
「……あたらしい……おようふく?」
琥珀が、指先にまとわりつくサンゴの塵を不思議そうに見つめる。
「そう。はじめ様の愛でね、みんな今までの重たいお洋服を脱いで、もっと綺麗で、もっと元気に泳げる『光のドレス』に着替える準備をしてるの。今はね、みんなで『せーの!』ってお着替えしてる途中だから、ちょっとだけ静かにしてあげようね」
りりは、琥珀の小さな手を包み込むように握り、はじめを……もとい、背後の『虚無』を指差した。
「この砂の一粒一粒が、はじめ様が琥珀ちゃんやみんなのために蒔いた、明日の命の種なの。……ね、はじめ様?」
「え……。あ、ああ、……せや、せやな!(りりちゃん、それ、俺あとでどうやって実体化させればいいんだ……!?)」
はじめは、りりがついた『聖なる大嘘』という名の巨大な負債に戦慄しながらも、琥珀の表情がパッと明るくなるのを見て、ただ引きつった笑顔で頷くしかなかった。
「……なんだ、そうなんだ! じゃあみんな、今はお着替え中なんだね。……ねえ、はじめさん! みんなが新しいお洋服になったら、また一緒に遊べるかな?」
「……。……ああ、……いつか、な。……約束だ」
はじめは、自分の喉を通り抜ける嘘の苦さに耐えながら、琥珀の頭をそっと撫でた。
その背後で、タイラだけが「……あかん、この詐欺師グループ、ついに子供の夢まで担保に入れおった……」と、真っ白になった胃を抱えて海底に沈み込んでいた。




