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第百二十八話:最終ステージ開幕

教皇庁の最上階。ルチアーノの私室は、重苦しい湿気と、静かな熱気に包まれていた。

最高級のベッドは、溶け出した『毒の氷』によって無惨にも水浸しになっていたが、それを見つめるルチアーノの瞳には、狂おしいほどの祈りだけが宿っている。


「……兄さん。……お願いだ。……戻ってきておくれ……」


一方、大部屋で待機を命じられていたはじめは、深い微睡みの底にいた。

二日以上、まともに瞼を閉じることすら許されなかった過酷な工程。

意識が溶け、夢と現実の境界が曖昧になりかけたその時、闇を切り裂くようなマルコの声が響いた。


「はじめ様。……ルチアーノ教皇様がお呼びです。至急部屋に来て下さい」


「……ッ!? ま、マルコさん!? いよいよ、……なんですね!?」


跳ね起きるはじめ。隣で同じく、浅い眠りに就いていた墨花やアイたちも、瞬時に覚醒状態へと切り替えた。


一行がルチアーノの部屋に駆け込むと、そこには信じがたい光景が広がっていた。

台座の上に安置されていたはずの氷像は、もはやその形を失い、中から生身の、蒼白な肌をした一人の男が、濡れたシーツの上に、横たわっていたのだ。


「……はじめ君! 見てくれ!……指が、兄さんの指が動いたんだ!!」


歓喜に顔を歪めるルチアーノ。はじめが息を呑んで見つめる先で、ジョヴァンニの細い指先が、ピクリ、と痙攣するように、生命の鼓動を刻んだ。


「兄さん! 僕だ!……ルチアーノだよ! わかるかい!?」


ルチアーノがその冷たい手を握りしめ、必死に呼びかける。

数拍の……あまりにも、長い沈黙の後。

ジョヴァンニの、重い瞼がゆっくりと、本当にゆっくりと、その深淵を開いた。


「……ぅ、……ぁ……」


微かな、掠れた吐息。

その瞳に、数瞬の混乱と、そして確かな『意識』が宿った瞬間だった。


「……兄さん。……兄さん……!!」


ジョヴァンニが重い瞼を開いたその瞬間、ルチアーノは子供のように声を上げ、濡れたシーツも構わず兄の体に縋り付いて泣き崩れた。

約7か月。地獄のような沈黙に耐え続けた聖者の、剥き出しの感情が部屋を満たしていく。


「ルチ教皇。……落ち着いて下さい。……このままでは、ジョヴァンニ教皇様が風邪を引いてしまいます。新しいベッドに移動させてあげてください」


はじめの冷静、かつ切実な進言に、ルチアーノはハッとして顔を上げた。

「……そ、そうだね。すまない。……ジュリア! 新しいベッドと、清潔な着替えを!!」


教皇の鋭い指示が飛び、テキパキと部下たちが動く。

水浸しになった最高級ベッドから、柔らかな乾いた寝床へと移されたジョヴァンニは、虚空を見つめ、掠れた声で呟いた。


「ルチアーノ。……心配を、かけたようだね。……私は、生きているんだね。……私は、何をしていたんだ……?」


言葉は断片的で、その瞳には激しい混乱の色が混ざっている。

約7か月という空白を埋められず、精神が必死に再起動を繰り返しているようだった。


「今、温かいスープを用意させたよ。……急に食べると体に障る。まずは、……これをゆっくり飲んで。……兄さん」


ルチアーノが震える手で、温かな湯気を立てるスープを兄の口元へと運ぶ。

ジョヴァンニは、少しだけ安心したように目を細め、それを一口、ゆっくりと飲み下した。


「……ありがとう。……ルチアーノ……」


はじめたちは、その様子を少し離れた場所から黙って見守っていた。

奇跡が起きたのだ。

目の前で、確かに。……一人の男が、死の淵から生へと、帰還を果たした。


はじめは、自分の手のひらを見つめ、静かに息を吐いた。


(ゼロ。……お前、本当に、やってくれたんだな……)


温かなスープを一口飲み、ジョヴァンニの瞳に確かな生気が戻り始めたその時だった。

窓もないはずの密室に、ノイズ混じりの不快な高笑いが、響き渡る。


『第4ステージクリア。おめでとう。……コングラッチレーション!』


「……ッ!? その声は、ミラー!! どこから話しているんだ!!」


はじめが弾かれたように立ち上がり、辺りを鋭く見渡すが、そこには影一つない。

声は、空間そのものから直接脳内へ、投影されているかのようだった。


『まさか、……こういう形でクリアするなんて思わなかったよ。……はじめ君』


続けて、低く。……冷徹なしゅうの声が重なる。


『はじめ君。……君という男は、相変わらず運も強いね。……僕が学生時代、君にどうしても勝てなかったわけだ。……まさか、あのゼロが、妙な真似をしたみたいだね」


「……修一……いや、しゅう。……お前たちの、悪趣味なゲームに付き合わされるのも、もう、こりごりだ!」


はじめの叫びを、ミラーは、軽薄な笑いで受け流した。


『あははは!。では、いよいよ最終ステージだね。……僕との直接対決だよ。場所も教えてあげよう。……僕は、大教皇庁の最奥の部屋にいる。……だが!』


不意に、ミラーの声から、温度が消えた。


『アイアンの「人形化」。……これは禁止だ。使った瞬間――終わりだよ。その時は……天使国を、跡形もなく消す。そこにいる二人の教皇も。例外なくね』


その場に、凍りつくような緊張が走る。

アイの「人形化」は、チームはじめにとって、潜入時の切り札。それを封じられた状態での、敵陣の本丸への突入。


「……受けてやろうじゃないか!……首を洗って待ってろ、ミラー!!」


ついに、全ての因縁を断ち切る、天使国最終決戦の幕が、上がろうとしていた。


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