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第百二十七話:氷像とルチアーノ

闇に紛れ、一行は階段を駆け上がっていた。

背後には、アイと琥珀により、大事に抱きかかえられた、第2教皇ジョヴァンニの『氷像』。


その移動中、最後尾を歩いていたまおが、どこかソワソワした様子で墨花の袖を引いた。


「……ねぇ。……墨ねぇ。……お願いがあるんだけど……」


「まお。……どうしたの?」


墨花が怪訝そうに振り返ると、まおは氷像の頭部をうっとりと見つめながら、人差し指を口元に当てて囁く。


「髪の毛の部分。……溶けきる前に、ほんのちょっと。……ほんのちょっとでいいんだ。……少し、頂戴♪」


その瞳には、先ほどの『静寂の間』で見せた、あの毒への狂おしいほどの渇望が宿っている。


「って、……まおさーーん!! もう、既に取ってませんかぁ!? ここ、少し欠けてますよねぇ!!」


はじめの鋭い指摘が飛ぶ。

氷像の側頭部、流麗に形作られていたはずの氷の髪束が、明らかに不自然な角度で数本分、綺麗に消失していた。


「(ペロッと舌を出しながら)……ばれたか♪」


「こういうことは、事前申請してくださいぃー!! 第2教皇様。……ただでさえ『頭皮』が薄くなってきてる気がするんですから、大事にしてあげてくださいよぉ……!」


はじめの必死の訴えに、ベアトやレイラも呆れ顔でため息を吐く。

一国の教皇の尊厳よりも、己の知的(毒的)好奇心を優先するまおのムーブ。

だが、そんな緊張感の欠片もないやり取りが、はじめの張り詰めていた精神を、微かにほぐしてくれていた。


氷像を運ぶ一行の歩みは、教皇庁の居住区付近まで差し掛かった。

そこで墨花が不意に足を止め、誰もいないはずの虚空へ向かって、静かに、だが通る声で語りかけた。


「マルコさん。……そこにいるのでしょう?」


静寂が数秒続き、やがて闇が凝固するように、一人の男が音もなく姿を現した。ルチアーノ教皇の忠臣、マルコだ。


「……ここに。何か、御用でしょうか?」


マルコは表情一つ変えず、余計なことは一切口にしない。

その徹底した職務遂行ぶりに、はじめは圧倒される。


「先にいって、ルチアーノ教皇様に面会を取り付けて。……それ以上言わなくても、わかっているのでしょう?」


墨花が扇を軽く口元に当て、含み笑いを浮かべる。

その言葉には、拒絶を許さない、かつての上位者と思わせるかの響きが含まれていた。


「……すぐに。……教皇様の部屋の前で、お待ちください……」


マルコは深く一礼すると、再び溶けるように闇の中へと消えていった。


「ということで。……このまま教皇様の部屋まで、直行しましょう♪」


墨花が、何事もなかったかのように歩き出す。

その後ろを、はじめは冷や汗を拭いながら追いかけた。


(……えーーーっと。……マルコさんって、なんで墨花さんの言うこと聞いてんの!? 二人は元々知り合いなの!? 墨花さん、闇が深すぎですよぉ……!!)


はじめの脳内には、墨花が隠し持っているであろう膨大な過去への疑念が、ぐるぐると渦巻いていた。


深夜の教皇庁。重厚な扉の前で、はじめは、震える指先を丸め、おそるおそるノックの音を響かせた。


トントントン。


「……空いている。…入ってきてくれ」


中から響いたのは、静かだがどこか、張り詰めたルチアーノ教皇の声だった。


扉が開かれ、アイと琥珀が大事に抱えた氷像を、部屋の中央へと運び込む。

その姿を目にした瞬間、ルチアーノ教皇は膝から崩れ落ちた。


「……おいたわしや。……兄さん……!!」


大粒の涙を流し、氷の彫刻と化したジョヴァンニに縋り付く教皇。

そのあまりに痛々しい光景に、誰もが言葉を失う中、はじめが一歩前へ踏み出した。


「ルチ教皇。……もしかして。……もしかしてですが、第2教皇様は、『死んでいない』かもしれません」


その場に衝撃が走る。

この世界における氷結は、肉体の活動停止、すなわち死を意味する。

だが、はじめの脳内には、元の世界で知っていた『コールドスリープ』という、高度な科学概念が、一つの仮説として浮かび上がっていた。


「……可能性の話です。……もし、ゼロが。……あいつが、……何か“意図”を残していたとしたら。……1%にも満たない可能性ですが……」


ルチアーノ教皇は、顔を上げ、涙に濡れた瞳ではじめを見つめた。

そしてふわりと、いつもの慈愛に満ちた微笑みを浮かべたのだ。


「……つまり、『0』ではない、ということだろう?」

「なら十分だ。……十分すぎる」


その言葉には、奇跡を疑わない聖者の確信が宿っていた。

はじめは、その微笑みの奥にある強固な意志に気圧されながらも、力強く頷いた。


ルチアーノ教皇の部屋に運び込まれたジョヴァンニの氷像。

その青白い輝きを前に、教皇は逸る心を抑えきれない様子で問いかけた。


「……では、部屋を暖かくする。とか、何か特別な処置をした方がいいのかな?」


「いいえ。……これは通常の氷結ではなく、ゼロの毒による現象です。……温度を上げても、それで溶けることはありません」


はじめが冷静に仕様を告げると、ルチアーノは一瞬、戸惑いの表情を浮かべた。


「……なら、……どうすればいいんだね?」


「そうですね。……どこか、横になれる場所に寝かせましょう。もし、万が一にも急に意識が戻ったとしても、まともに立てるはずがありませんから」


「そ、そうだね。……どうして、こんな簡単なことにさえ、気が回らないんだ。……笑っちゃうね」


自嘲気味に笑う教皇。その隣で、墨花が優雅に扇を畳み、静かに言葉を添える。


「……身内のことですから。……動揺されて当たり前ですわ、教皇様」


「……ありがとう。……では、この教皇庁で最高級のベッドを用意しよう。……兄さんを、最高の状態で迎えるのは、弟として当然の義務だ」


ルチアーノの中では、『必ず復活する』と確信してるかの行動をしていた。


「……でも。……ルチ教皇?……氷が溶け出せば、部屋中が水浸しになりますよ?」


はじめの、至極まっとうな懸念。だがルチアーノ教皇は、微塵も揺らがなかった。


「大事な兄さんの復活だよ? 汚れを気にして、愛を疎かにする理由にはならないだろう?」


「そ、……そうですね……」


はじめは、力なく頷いた。

だが、その背中には、ドロリとした冷たい汗が伝う。


(……これ、……実は…… 相当ヤバい状況なんじゃ? もし、生き返らなかったら。……僕、この人に。……消されるんじゃ……!)


希望という名の、薄氷の上を歩くはじめ。

教皇の、狂信的なまでの期待が、そのまま、はじめの首を絞めつける、死神の指先のように感じられていた。


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