第百二十五話:静寂の間、突入前夜
差し出された手紙を、はじめは震える手で受け取った。
朝の光が差し込む大部屋に、微かな紙の擦れる音だけが響く。
『ルチアーノへ。
君がこの手紙を読んでいるなら、私はもうこの世にはいないだろう。
まず、私の周りで起きている「異常」について伝えておきたい。
最近、教皇庁内部で「強硬派」が急激に力を持ち始めている。私は必死に止めていたつもりだが、彼らにとって、調停を重んじる私は邪魔な存在なのだろう。
そして、それとは別の……何か、もっと底知れない「闇の勢力」の影を感じる。
奴らが大教皇様と、第1教皇を焚きつけ、近隣諸国への侵略戦争を仕掛けようとしているようだ。
ルチアーノ。君は妹や、君の大事な人たちを連れて、今すぐこの国を脱出しなさい。
あんな連中と関わってはいけない。私の二の舞になるな。
賢く、生き延びるんだ。
―― この手紙が、君が不幸になる前に届くことを願っている。
愛を込めて。ジョヴァンニより』
手紙を読み終えたはじめは、ルチアーノ教皇の横顔を、息を詰めて見つめていた。
「こ、これは……」
「ああ。兄さんは、自分が襲われることを悟っていたんだね。……だけど、この国が壊れるまでの時間を稼ぐために、あえて逃げなかったんだ」
ルチアーノ教皇は、ポロポロと大粒の涙を流した。
その唇には、悲しみさえ超越した、慈愛の笑みが浮かんでいる。
「……相談してくれればよかったのに。……本当に、馬鹿な兄さんだ」
その「馬鹿」という言葉には、自分を置いて逝ってしまった兄への深い情愛と、託された意志の重さが、これ以上ないほどに詰め込まれていた。
「兄さんのことだ…… 他にも何か隠してるかもしれない。この教皇庁、私の部下も総動員で、隅々までチェックする。はじめ君たちも、付き合ってくれるかい?」
「よろこんで!」
ゼロが残した『氷像』——その手がかりを求め、はじめたちは教皇庁の捜索を開始した。
ルチアーノ教皇の命を受けた直属の精鋭たちが、各階の執務室や居住区を文字通りしらみつぶしに調べ上げていく。
そこには当然、通常業務をこなしている聖職者や職員たちも大勢いた。
「な、何事ですか!? 突然押し入ってきて!」
「ここは第2教皇様の神聖な執務エリアですよ! 無作法な!」
怒号と困惑が入り混じる中、はじめは板挟みになっていた。
「す、すみません! ですから、これはその、調査の一環でして……」
必死に説明するはじめだったが、職員たちは「どこの馬の骨かもわからない男」の言葉など聞き入れるはずもない。
むしろ、はじめが口を開けば開くほど「指名手配犯が何を言うか!」と火に油を注ぐ始末。
だが、そこへルチアーノの懐刀、マルコが静かに歩み寄る。
「……黙れ。第4教皇様の御命令だ。逆らうなら——その場で申し立てろ」
マルコの氷のような一言に、先ほどまで息巻いていた職員たちは、一瞬にして色を失い口を噤んだ。
「第4教皇……あのルチアーノ様が……?」
「そ、それなら仕方ない……」
絶対的な権力の前に、正論も感情も瞬時に上書きされていく。
はじめは、そのあまりの温度差に乾いた笑いを漏らすしかなかった。
(僕が100回説明するより、教皇の名前一回出す方が早いなんて……権力、怖すぎるよ……)
そうして手分けして捜索を続けるものの、上の階からは目ぼしい痕跡は見つからない。
執務室の裏、秘密の金庫、隠し階段……。
どれも、ゼロが残した「サプライズ」の座標とは一致しなかった。
無情にも、窓から差し込む光が白から橙へと変質し、街に長い影を落とし始める。
夕闇が教皇庁の回廊を侵食し、タイムリミットという名のカウントダウンが、はじめの耳元で残酷に鳴り響いていた。
「……はじめ様。上の階には、もう何もありませんわね」
墨花が静かに告げる。
その視線の先にあるのは、教皇庁のさらに下。
光の届かない、絶対的な静謐に守られた『最下層』へと続く階段だった。
茜色の空が深い藍色に溶け、教皇庁が夜の静寂に沈もうとしていた。
「残るは、最下層にある『静寂の間』か。……あそこへの侵入は、流石の僕でも許可なしでは立ち入れない場所なんだ」
ルチアーノ教皇は、窓の外を見つめたまま、冷徹な響きを帯びた声で続けた。
「……だが、今は緊急事態だ。深夜、警備が薄くなった隙を突いて、強引に侵入しよう」
(やっぱりこの人。……考え方が物騒だ。……怖いよぉ……!)
はじめが、教皇のさらなる暴走に冷や汗を流していると、隣にいた墨花が、優雅な動作で前へと進み出た。
「では、ルチアーノ教皇様。……その任務、私たち『チームはじめ』に任せてもらえませんか?」
「なぜだい? 墨花君」
教皇の射抜くような視線にも動じず、墨花はふふ、と意味深な笑みを浮かべる。
「私たちであれば、『教皇様とは関係なく、勝手にやった暴挙』と言い訳が立つでしょう? あなたの手を、これ以上汚させるわけには参りませんわ」
「……本当にそれでいいんだね? もし何も見つからなければ、全ての不法侵入の責任が君たちにかかってしまうよ」
案じるような、だが、どこか試すような教皇の言葉に、はじめが大きな溜息を吐きながら言葉を添えた。
「どうせ、『既に指名手配されている身』だからって、ことでしょ? 墨花さん」
「うふふ。流石は、はじめ様。……お察しが良いですわね」
はじめは、腹を括った。
(どうせやらなきゃいけない運命なら…… 自分で手を動かした方がマシだ……!)
「ということで。任せてください、ルチ教皇。私たちが、『静寂の間』の真実を、暴いてきます」
「……わかった。信じているよ、はじめ君」
ルチアーノ教皇の、静かな肯定を受け、「チームはじめ」は、夜の深淵にて。
『静寂の間』への、決死の隠密潜入を、決行することとなった。
深夜の潜入を前に、大部屋に微かな緊張が漂う中、ルチアーノ教皇が優雅に手を叩いた。
「突入までは、まだ時間がある。君たちへのお礼も兼ねて、私が用意できる最高級の夕食を振る舞わせよう。……体力を蓄えておいて損はないからね」
「わーい! ごちそうだー!」
琥珀がその場でぴょんぴょんと飛び跳ねて喜ぶと、りりが慌ててその肩を抑えた。
「こ、琥珀ちゃん。……不謹慎ですよ。……すみません、ルチアーノ様」
「いいんだよ。素直な子供は大好きさ。……聞こえていたよね、ジュリア」
ルチアーノが虚空へ向けて声をかけると、影から一人の女性の部下が音もなく姿を現した。
「調理時間もございますが、一時間程頂ければ。……すぐに、最高級のフルコースをご用意いたします。皆様、お部屋でお待ちください」
ジュリアと呼ばれた女性は深々と頭を下げ、再び静寂の中へと消えていった。
一時間後、大部屋のテーブルには、天使国の山海の珍味を尽くした、目も眩むような料理が並べられた。
まおは、あたりまえの様に、毒見を行う。毒がない事を確認した一行は、食事を開始した。
はじめたちは、窓から見える銀世界の月を眺めながら、極上のスープと肉料理を口に運んだ。
「……美味しい。……こんなの、旅に出てから初めて食べましたわ」
ベアトが感嘆の息を漏らせば、アイ、レイラ共に無言でステーキを平らげていく。
はじめもまた、その芳醇な香りと味に、一瞬だけ『第4ステージ』というゲームの最中ということを忘れていた。
だが、夕食を終え、食器が下げられた後の大部屋は、再び重い静寂に包まれた。
部屋の隅にある大時計が、刻一刻と深夜の零時を刻んでいく。
はじめたちは、暗く落とされた照明の中で、静かにその時を待っていた。
次に扉を開ける時は、教皇庁の最深部、ゼロが仕掛けた真実への、後戻りできないダイブの始まり。
暗闇の中、はじめは、自分の手の平をじっと見つめ、静かに精神を、研ぎ澄ませていた。
―― ゼロ撃破から、残り0日 ――




