第百十二話:天使国入る老夫婦
「案というのは、天使国も一枚岩ではないということですの」
森の木陰。墨花が広げた古い羊皮紙の地図。その一点を、白く細い指先がトントンと、規則正しく叩いた。
「それって、どういう……?」
はじめが首を傾げると、墨花は瞳を僅かに細め、淡々と話を続ける。
「独自に調査した結果ですわ。絶対正義を掲げる教皇の中にも、現状の狂信的な体制に不満を持つ者がいる。……そう判断しましたの」
「まさか、その御方に会いに行く気!? さすがに大胆すぎませんこと?」
ベアトが身を乗り出し、声を荒らげた。その表情には、驚愕を通り越した不安が滲んでいる。
「そうだぜ。相手の本心が分からねぇ以上、失敗のリスクが高すぎる」
レイラも腕を組み、険しい表情で同意した。
一行の中に、かつてないほど重く、張り詰めた緊張が流れる。
「私は……はじめ様の決定に従います……」
「私には、どちらが良いのか判断できません……」
アイが静かに、りりが困惑気味に呟く。そんな中、琥珀だけは我関せずといった様子で、無言のまま食事を続けていた。
「私が口を挟むことではないかもですが。……『現状維持』。これこそが、今の私たちにとっての失敗なのではないでしょうか?」
不意に、澄んだ鈴の音のような声が響いた。水の上位精霊、ウィンディーネだ。
「お前、分かってるやないか。こういう諺あんねん。『虎穴に入らずんば虎子を得ず』ちゅう奴や。リスクを取らん奴に、勝利の女神は微笑まんのやで」
ケルちゃんが誇らしげに、丸い胸を張る。
「どうでもいいけど。……僕、眠い。早く決めてよ。……時間は待ってくれないんだろ?」
猫の、欠伸混じりの催促。
全員の視線が、突き刺さるような重圧となって、一斉に「彼」へと集まった。
(この話、僕がまとめるのぉ? 無理ですよぉ。……絶対に後で、責任という名のブーメランが回ってくるやつじゃないですかぁ……!)
はじめの心の悲鳴も虚しく、運命の舵は、震える58歳の手に委ねられた。
「……みんなの意見は、よく分かりました。では、墨花さん。あなた自身は、どう思いますか?」
はじめは、あたかも全員の意見を集約する「リーダー」らしい落ち着きを装い、流れるような動作で墨花に決定権を全振りした。
「では、決定権を任されたということで。……はじめ様と私で、その教皇に直接会いに行きましょうか。もちろん、完璧な変装はしていただきますわ」
(えええええーー。そう来るのぉーー。予想外というか、……なんで僕ぅ!? 一番見つかったらダメな奴じゃないのぉ!?)
はじめが心の中で、のたうち回っているのも露知らず、周囲は一気に納得のムードに包まれる。
「はじめ様がそう仰るなら、仕方ないですわね」
ベアトが、どこか楽しげな表情で、早々に身を引いた。
「はじめ様が決めたのなら、どこまでも従います」
「気をつけて行ってこいよ。死ぬんじゃねぇぞ、はじめ」
アイとレイラも、慈しみ(?)を込めた満面の笑顔で背中を向ける。
「頑張ってください! 応援しています!」
りりにまで。力強いガッツポーズで拳を握られ、はじめは、ぐうの音も出せなかった。
「はじめ。……『自業自得』つぅ奴や。大人しく諦めぇな」
ケルちゃんが、どこか遠い目をして、哀れみすら込めて肩を叩く。
「さすがです。レイラが惚れた殿方は、やはり一味違いますね」
「や、やめろ! みんなの前で言うな!」
ウィンディーネの不意打ちの称賛に、レイラが耳まで真っ赤にして狼狽える。その様子を眺めていたまおが、。最後の一欠伸をして現実的な提案を口にした。
「で?僕たちはどこで待つの? 連絡手段があるなら、わざわざ全員で危険な天使国に入る必要はないよね。ここでいいんじゃない?」
「確かに。ここで待機する方が賢明ですわね」
ベアトが頷くと、墨花が怪しく目を光らせ、鞄からプロ仕様のメイク道具を取り出した。
「では、皆様。まずは、はじめ様のメイクから始めましょうか」
その一言を合図に、まお以外の女性陣の瞳に「獲物を捕らえた猛獣」のような輝きが宿る。
彼女たちはノリノリで、絶叫を押し殺すはじめの顔面に手を伸ばし、怒涛の変装メイクを開始した。
「じゃあ、僕寝るね。明るいところ、……嫌いなんだよね。……僕」
まおは、喧騒を他所に毛布を被って丸まり、すやすやと心地よい寝息を立て始めた。
数刻後。
完成したはじめのメイクは、本人とは似ても似つかない、枯れた味わいと品格を併せ持つ、一人の老人の姿であった。
「私も一応、変装いたしましたわ。これでまずバレることはありませんわね」
墨花も、白髪混じりの、どこか高貴さを感じさせる老婦人に姿を変えていた。
傍目には、仲睦まじい老夫婦が、そこに立っているようにしか見えない。
「ではアイさん。門までご同行願って。……念のため、作戦通り門兵を人形にしていただき、私たちが通過した直後に、解除してください」
「分かりましたわ。……はじめ様、無理は禁物ですわよ?お気をつけて」
「お、おう……」
力強い返事とは裏腹に、はじめの心は、細胞レベルで徹底拒否を訴えていた。
(こんなの無理でしょぅ。……バレたら誰が、この僕の命の責任を取ってくれるんですかぁ! 責任者出せぇ。……ちくしょぉーー!!)
パチン。……指を鳴らす軽快な音。
次の瞬間、屈強な門兵たちが、一斉に精巧な人形へと変質した。
その横を、杖を突いた老夫婦が悠々と、そして何食わぬ顔で通過していく。
完全に通過した後、再び空気を震わせるパチンという音。
門の守備兵たちは、何事もなかったかのように瞬きをし、通常運転の警備へと戻っていった。
騒動があった現場から離れた、別の教皇庁の一角。
静寂に包まれた回廊に、老夫婦の足音が重なる。
カウントダウンが刻まれる中、命懸けの訪問が、今、静かに幕を切った。




