第百十話:魔人国、旅立ちです
―― ゼロ撃破から、残り12日 ――
「あー、やっと、人形生活からの脱却だぁー」
はじめがベッドの上で手足を伸ばし、深く息を吐き出した。
その傍らで、ベアトが安堵の笑みを浮かべる。
「元気になられて、本当によかったですわ」
「本当に。……私の、妹が……申し訳ありませんでした」
アイが涙ぐみながら頭を下げると、はじめは慌てて首を振った。
「アイさん。大丈夫ですよ、気にしてませんから。人形生活も、悪くなかったですよ」
「はじめ様。ふらふらしませんか?」
「はじめ様。急に、いっぱいたべちゃだめだよ?」
心配そうに顔を覗き込むりりと、忠告する琥珀に、レイラが堪らずツッコミを入れた。
「琥珀ちゃんがそれを言うのか!」
「あはは!!」
和やかな笑い声が部屋に響く。はじめはふと、窓の外を眺めながら墨花に尋ねた。
「墨花さん。そういえば、急に一人増えて、宿の人は何も言わなかったのですか?」
「ええ、何も。……そういえば一言だけ。『私共は、お客様がリラックスできる場所を提供しているだけ。細かい理由は必要ありません』って♪」
「な、なんだか、学ぶところたくさんありそうですね……」
魔人国の懐の深さに感心するはじめ。すると、部屋の隅でボサボサの頭を掻いていた猫が、眼鏡をキラリと光らせて歩み寄ってきた。
「なあ、君たち。……このまま旅に出るの?」
「そのつもりですわ」
墨花が答えると、まおは二股の尻尾を期待に満ちてピンと立てた。
「じゃあ、僕も連れてって。君たちについていけば、未知なる毒と巡り合えそう」
(この子、毒マニアじゃない。毒が人生、そのものじゃないかぁ……)
はじめは、新たな「嵐」の予感に遠い目をしながら、心の中で静かにぼやくのだった。
「で、墨花さん。も、もう一泊だけ、しませんか?」
はじめが、名残惜しそうに高級宿のふかふかな絨毯を振り返った。
「別に大丈夫ですけれど。それで、よろしいのですか?」
「はじめぇ。人形になって、サボり癖ついたんかいな。しゃあない奴っちゃなぁ」
ケルちゃんに揶揄われ、はじめは慌てて手を振った。
「あ、いえ……じ、冗談です。せっかく良くしてくれた宿に、迷惑をかけるかもしれませんしね。……でも、あと一泊くらい……」
「はじめ。行くぞ」
レイラの号令で、はじめはついに観念した。
隣でアイが優しく微笑む。
「はじめ様。おぶりましょうか?」
「いえ、歩けますからぁ。一歩ずつ、噛みしめたいお年頃なんですぅ」
「どんなお年頃だよ。……ったく」
レイラの呆れ声が響く中、賑やかな雰囲気のまま宿を出る一行。
中居や番頭ら、従業員一同ははじめたちが見えなくなるまで、深く深く頭を下げ続けていた。
「ありがとうございました。またのご宿泊、心よりお待ちしております」
その丁寧すぎる送り出しに、はじめはまた恐縮しきりであった。
はじめは周囲に悟られないよう、隣を歩く墨花の耳元で密やかに囁いた。
「そういえば、墨花さん。……宿泊代、高かったんじゃありませんか? 毎日すごい料理でしたし……」
「大丈夫ですよ。問題ないですから♪」
墨花もはじめだけに聞こえる柔らかな声で答え、意味深に微笑んだ。
「なら、いいんですが……」
半信半疑のまま、魔人国の国境へと近づいてきた一行。
はじめの目の前に、赤鬼と青鬼が恐ろしい形相で立ちはだかった。
「これ、出れないやつでしょ……。パスとか何にも持ってないですし……」
絶望するはじめを余所に、他の面々は「ニヤリ」と不敵に笑う。
「あ、皆様」
「ひ、ひぃー!!」
はじめが悲鳴を上げる中、赤鬼が柔和な笑みを浮かべた。
「お寛ぎいただくことはできましたか? ……また、いつでも来てくださいね」
「では山越え、大変だと思いますが、お気をつけて」
青鬼までもが丁寧に会釈をしてくる。
「???」
はじめは人形として運ばれていたため、知らなかった。
この魔人国の人々が、どれほど温かく「おもてなしの精神」に溢れているかを。
一行は険しい山越えに向かって、力強く一歩を踏み出した。
「なんか……来た時より、すごく荷物が増えてる気がするの、気のせいですかねぇ」
はじめが、山道で自分たちの背負い袋を見比べながら、首を傾げた。
「気のせいですわ♪」
墨花が、事もなげに微笑んで流す。
「はじめぇ。いいこと教えたるわ。『知らぬが仏』ちゅう奴や」
「はぁ……」
ケルちゃんの意味深なアドバイスに、はじめは釈然としない顔で頷く。
彼は知らない。人形生活を送っていた間、女子たちが最高級の服や装備をこれでもかと新調していたことを。
ちなみに、はじめの服も一応は新調されているのだが、それは他の面々に比べれば「申し訳程度」の予算で組まれたものだった。
そんな「残酷な経済格差」に気づくこともなく、はじめは軽くなった足取りで山道を登っていくのであった。
山登りを開始して、まだ数時間。
魔人国の国境を越えるための険しい登り坂で、早くも「その音」は響き始めた。
「……あ、足が。……足が、自分のものじゃないみたいですぅ……」
はじめが、膝に手を突き、生まれたての小鹿のように震えながら立ち止まった。
「はじめ様。……まだ登り始めたばかりですよ?」
りりが心配そうに背中をさするが、はじめの愚痴の蛇口は一度開いたら止まらない。
「だ、だって、ついさっきまで人形だったんですよ? リハビリ期間もなしに、いきなりこの傾斜は。……ああっ、腰も!! 腰が悲鳴を上げてます! 労災ですよ、これは!」
「はじめ、……うるさい」
先頭を歩くレイラの背中から、冷たいプレッシャーが漂い始める。だが、一度火がついた「58歳の泣き言」は止まらない。
「大体、皆さんの荷物が重そうだからって、僕の背負い袋だけパンパンにするの、……おかしくないですか? 墨花さん、これ明らかに『新調した何か』が詰まってますよね? 重い! 重すぎる!!」
「気のせいですわ♪」
「気のせいなわけないでしょぉー! ああっ、……もう一歩も動け……」
「いい加減にしろ!!」
ドォォォン!! と、レイラの怒声が山肌に反響した。
彼女が振り返ると、その瞳には青白い炎が宿っている。
「……解毒されたばかりで甘やかしてやれば、付け上がりやがって。……置いていくぞ。……ああん!?」
「ひ、……ひぃっ!!」
はじめは一瞬で背筋を伸ばし、口を真一文字に結んだ。
怒れる女戦士の迫力に、魂が震え上がったのだ。
「す、……すみません……」
はじめは、……それから一言も発さず、とぼとぼと、情けない足取りで最後尾をついていく。
肩を落とし、地面を見つめながら歩くその背中には、哀愁漂いすぎていた。
一行の会話を冷ややかな目で見ながら、一言も発さないまおであった。




