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境界異常観測録《Re:Genesis》  作者: マチフクとーる
File3 失楽園の少女

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堕天使達の反逆

 シャンタク鳥の討伐に成功し、ついにジョン神父を追い詰めることに成功した名取達は勝利を確信していた。

 しかし追い込まれたジョン神父はクルーシュチャ方程式を解き明かしてしまい、宇宙の真理に辿り着く。

 人智を越えた知識量と狂気に身を焦がしたジョン神父は自らがナイアルラトホテップの化身「闇をさまようもの」となり、神格という圧倒的な存在が名取達を絶望の淵へと再び引きずり下ろすのであった。

 神格――それは人間という尺度では測ることすらできない存在。


 それが姿を現した瞬間、時が止まったように誰もが呼吸すら忘れ、目の前の圧倒的な存在に釘付けにされた。


 足は動かず、声は出ない。


 風は止み、光は色を失い、音は遠ざかる。

 あらゆるものが、その存在を中心に世界を書き換えられていく。


 次第に湧き上がる恐怖。

 本能が生命の危機と警鐘を鳴らす。


 殺気ではない。

 威圧でもない。

 生物として隔絶した格の差が、本能そのものを屈服させていた。



 ――神格が顕現した。



 その場にいる全員を絶望の深淵へと突き落とすには、その事実だけで十分だった。


 闇をさまようものは何も行動を起こさない。――もはや起こす必要もない。


 人は神格と接触すれば存在そのものに押し潰され、精神は自壊していく。


 ただそこに在るだけで、神のまばたき一つで滅ぶ程度の存在に手など加える必要はなかった。


 誰一人として言葉を発せない。本能的恐怖に支配された身体は思考すら放棄していた。


「……! クソっ!!」


 そんな中、新橋は恐怖に臆しながらも自身の掌に小太刀を突き刺し、痛みによって無理矢理正気を引き戻した。


「ルシェル! しっかりしろ! ここは俺が食い止める! 数秒すら持つかどうか分からん! お前は急いで名取を起こしてギルとデスを連れて逃げろ!」


 新橋に激しく肩をゆすられ、ルシェルはハッとしたように正気を取り戻す。一時的な精神ショックにより、言葉を失っており、声も出せず狼狽えている。ルシェルは頷くとすぐに床に倒れる名取の元へ向かった。


 ルシェルは名取を抱きかかえ、引きずって本堂の出入り口の扉まで運ぶ。続いて腰を抜かし動けなくなっているギルとデスを連れて逃げようと2人を起こす。


 その間、新橋はなんとか闇をさまようものの注意を引こうと本堂の端に向けて走り、苦無を投げつける。

 苦無は闇をさまようものに向けてまっすぐに飛んでいくが、その実態を捉えることなくすり抜けるようにして壁に突き刺さる。


 (近接での戦闘は危険だ。一発でも喰らえば間違いなく即死。なんとか距離を取りながらヤツの注意を引く! アイツらの元へ行かせたら終わりだ……1秒でも多くここで時間を稼ぐ! 俺の命に代えても!)


 今度は魔力を纏わせた苦無を投げつける。

 今度はその実態を捉えるが、そのウネウネと動く皮膚に苦無が刺さることはなく、苦無は鈍い金属音を立てて弾かれてしまう。


 しかし、闇をさまようものの注意を引くことに成功したのか、ゆっくりと体の向きを新橋の方へと向ける。


 (来るなら来い! 喰らっても一発くらいは耐えてやる!)


 その瞬間、闇をさまようものの姿がフッと消える。

 一切の音も気配を感じない。

 一瞬にして消えた体は薄暗い闇に溶け、その存在自体を消したかのように静寂が走る。


 新橋は周囲の警戒を極限にまで高める。

 いつ、どの角度からの攻撃にも対応できるように。枯渇寸前の少ない魔力を体内に循環させ、身体能力を今持てる限界にまで引き上げる。


 だが何かがおかしい。

 いつまでも攻撃が来ない。


 異変を感じ取った新橋はまさかと視線をルシェルの方へと移す。


 新橋の悪い予感は的中した。


「……! あ……あぁ……!」


 声にならない掠れた声が小さく響く。

 ギルとデスを連れたルシェルの目の前に黒い影は現れた。

 新橋には目もくれずルシェルに狙いを定めた闇をさまようものはそのうねる触腕を容赦なくルシェルに向けて振り下ろす。


 新橋が気づいた頃には遅かった。

 触腕がルシェル達に迫る。

 その腕が三人の体を胴から裂いてしまうその時――


 ルシェルとギルの体を誰かが突き飛ばした。

 勢いで倒れゆくルシェルとギルの目にはその先の全てがスローモーションのようにゆっくりと時間が動いていくように感じた。

 二人を突き飛ばしたのはデスだった。

 本能的に突き動かした身体、デス自身でも何故そうしたかは分からない。

 ただ、二人を突き飛ばしたデスの手は今もなお、二人に向けて伸びていた。


 ルシェルは手を伸ばす。

 だがそんな姉妹を引き裂くように倒れゆく身体が二人の距離を離す。


 そして――


 闇をさまようものの触腕がデスの身体を静かに横一線に通り過ぎる。

 一拍遅れて、妹の身体は胸元から上下へとずれ、鮮血が宙に散った。


「あ……」


 時間が止まったような静寂の中、妹の上半身と下半身はゆっくりと離れ、そのまま力なく地面へ崩れ落ちた。


 ルシェルはギルと共に床に倒れ、鮮血を流し上半身と下半身の分かたれたデスの姿を見た途端、ルシェルの視界は揺らいだ。


 全身の血が一瞬で引いていく。

 息を吸うことを忘れ、耳には何も聞こえない。

 ただ耳鳴りだけが耳の奥を突く。

 崩れ落ちた身体。地を濡らす鮮血。そこに横たわる現実に思考は止まり、身体は凍りつく。

 胃がひっくり返るような吐き気が込み上げる。

 喉が締めつけられ、酸っぱい液体が口元までせり上がる。


「あ……あぁ……う゛っ! う゛ぉ゛ぇ゛ぇ゛!!」


 ビチャビチャと胃液が床に飛び散る。

 隣ではギルも焦点の合わない目でただ声も上げられずデスの半身を呆然と眺めていた。


 だがその静止など、闇をさまようものには何の意味もない。

 無数の触腕が音もなく持ち上がり、まるで次の獲物を摘み取るかのように、その穂先を二人へ向けた。

 一瞬の躊躇も、慈悲もなく触腕が振り下ろされる。


「うおぉぉぉ!」


 触腕がルシェルとギルの身体を引き裂く直前、滑り込むように新橋が二人を抱え、背中に触腕を掠めながらもルシェルとギルを本堂の扉まで投げ飛ばした。


 間一髪、新橋に救われたルシェルとギルは扉に激しく身体を打ち付ける。

 ルシェルが身体を起こすとそこには気を失ったままの名取が横たわっていた。

 ルシェルは床を這いながら名取に縋るように寄り付く。


「お……おねが……助けて」


 ルシェルは名取を黒い翼で覆うと、無意識に唇を重ね、あろうことかその口内に自身の唾液を流し込んだ。

 名取の喉をルシェルの体液が流れていった瞬間、ルシェルの意識は突如として暗転する。


 まるで床が抜けたような浮遊感。

 ゆっくりと降下していくような感覚の中、やがてどこかにふんわりと着地する。


 耳元を涼しい風と細やかな葉音が掠める。

 ルシェルは恐る恐る目を開く。

 そこは、どこまでも深い山だった。


 幾重にも重なる木々は空を覆い隠し、葉の隙間を通る細い陽光が薄暗く緑の世界を静かに照らしている。

 足元には苔むした岩が点在し、細い獣道のような道が森の奥へと続いている。


「あなたが久代の中に入ってきた子?」


 背後からした声にルシェルは振り返る。

 そこには一人の人影が立っていた。

 飾り気のない布を幾枚も重ね、腰を紐で結んだだけの素朴な身なり。

 どこか古びた時代を思わせる装束で、破れた箇所が幾つも見受けられた。


 袖口から覗く細い指先。

 枝葉の隙間から差す木漏れ日が、その白い横顔を淡く照らす。


 肩ほどの長さの灰青色の髪を靡かせ、どこか悲しさや儚さを感じさせる印象の女性は、光を宿さない永遠の孤独を閉じ込めたような瞳でルシェルをじっと見つめていた。


「あなたは誰?」


 ルシェルが問いかけると女性は胸に手を当てて答える。


「私の名は……小夜さよ。でももう誰も私をその名前では呼ばない。今の私は、五体様ごたいさまと呼ばれているの。私があなたをこの世界に呼んだのよ」


 ルシェルはその言葉に驚愕した。

 五体様の名は、名取の過去を聞いた際に登場した名取の生まれの村に伝わる祟り神の名であった。

 ルシェルは少し警戒したように半歩後退った。

 しかし、ルシェルは違和感を覚える。

 五体様の姿は聞いていた話と違っていたのだ。


 目の前にいるのは儚さと憂いを帯びた大人の女性。幾つもの顔が塊となって1つの顔を形造ったような怪物ではなかった。


「あの……あなたは……人なの?」


 ルシェルは小夜に問いかける。

 小夜は表情一つ変えずに淡々と話し始める。


「私は、かつては人間だった。でも今は人間達の忌み嫌う"祟り神"。でも本当は神ではなくただの強い思念の残った死人の魂。

 そんなことは些細な問題。ねぇあなた、一つ聞かせてほしいことがあるの」


 小夜は一歩一歩ゆっくりとルシェルに近づき始める。ルシェルの身体はどういう訳か金縛りにあったように動かなかった。

 そうして小夜はルシェルの目の前まで迫る。


「あなたは、久代と共に神を《《殺してくれる》》?」


 小夜の問いかけにルシェルは理解が追いつかなかった。

 我が子? 神を殺す? 何を言っているのかわからなかった。


「それってどういう……」


「あなた達の見ている世界は私にも見えている。あなた達は今、神を目の前としている。違う?」


 小夜の言葉にルシェルは何も返答を返すことができなかった。

 緊張か恐怖か、否定も肯定もできずただ固まったまま動けなかった。


 小夜は察したのか静かに目を閉じ、背を向けた。


「私は……神が憎い。私を……人々を裏切り、狂わせ、何一つ救いを与えなかった神が憎いの。いつしかその憎悪は私をこの世界に縛り付け、人は私を祟り神と呼んだ。私は待ち続けているの。自らの憎しみを継ぎ、神を討ち滅ぼす"子"が現れる、その日を」


 ルシェルはその"子"が名取のことであることをすぐに理解した。

 だが少し引っ掛かる部分もあった。

 名取によれば"子"の継承は100年周期で五体様の顕現には少なくともあと四人は必要だということが気がかりだった。


 その心を読み取ったかのように小夜は頷いた。


「そう、私は封印によって100年周期に五体の一つずつでしか継承ができない。それに事実と異なる内容もあるわ。たとえ継承者が五人現れたとしても私が現実世界に顕現することはない。前にも言ったけど私は神じゃないもの」


 小夜はルシェルの方へ振り返り、ルシェルの目をまっすぐに見つめ、改めて問う。


「今、神を前にして私の悲願を達する好機が訪れている。逃げたところで行く末は短いの。あなた達はここで神を討つしかない。あなたにその覚悟はある?」


「……あ、ある! ルシェルはもう、誰にも死んでほしくないの!」


 ルシェルはようやく固まっていた口が動き出し、小夜の問いかけに答えた。


 小夜は無表情のまま「そう」と一言だけ返し、ルシェルに両手を差し出した。


「私の手を取って。そうすれば現実世界に返してあげる。大丈夫、ここで過ごした時間は全て刹那の出来事。現実世界に帰る頃には久代も目覚めているわ。あなた達の力で神を討って頂戴」


 ルシェルはゆっくりとその手に自身の両手を重ねる――その瞬間、重ねた掌が光始める。

 やがて視界を白く染め、意識も遠退いていく。


「久代を……支えてあげて」


 ルシェルは消えゆく意識の中で最後に小夜が呟いたような声を聞く。うっすらした視界で朧げに見えた小夜の口元は僅かに緩んでいるようにも見えた。


 そしてルシェルの意識は完全な白に包まれた。


「……出ておいで」


 ルシェルが去った後、小夜は静かにそう呟いた。すると、大木の裏から名取が姿を現す。

 更に少し離れた場所から殲滅眼の黄色い瞳を光らせたもう1人の名取が姿を現した。


「お前もいたんだな」


「当タリ前ダ。俺ハオマエダカラナ」


 二人の名取は顔を見合わせながら小夜の元へ歩く。


「それで久代、あなたは『神を討つ』選択を違えるつもりはないのね?」


「ああ、当然だ。もう、それ以外に選択肢はないからな」


「俺モ消エタクナイカラナ。セッカク手頃ナ宿主ヲ見ツケタノニスグ消エルナンテ冗談ジャナイ」


 小夜の問いかけに二人の名取は迷わず答える。小夜は小さく頷くと、二人に忠告をする。


「久代、あなたの持つ『眼』の力は私の継承したものともう1人久代のものを合わせれば神に太刀打ちすることは可能でしょう。しかし決して優位に立てるわけじゃないことは忘れないで。必ずあの娘の助けを借りなさい」


 小夜の忠告に対し、主人格の名取は素直に聞き入れ、一方の別人格の名取は適当な返事を返すだけだった。

 同じ人間ながら全く違う二人の反応を見て、少し不安気になりながらも、小夜は「そういえば」と何か思い出したように名取に問いかける。


「肉体の主導権はどちらが握るのかしら?」


「「ああ(アア)、俺だ(ダ)」」


 見事なまでの被りようと即座にいがみ合う二人にため息を漏らしながら、小夜は特に悩む素振りなく主人格の名取を指さした。


「主人格の久代、あなたが肉体を操りなさい」


「ナンダト!? フザケルナ! コイツノ肉体ニチカラヲ与エテヤッテルノハ俺ナンダ! 俺ガ肉体ヲ貰ウ!」


 小夜の判断に納得のいかない別人格の名取が強く反発する。

 そんな別人格の名取に呆れたような様子で小夜は突き刺すように言う。


「だってあなた、調子に乗るじゃない。仮にあなたに肉体を握らせたとして身の危険を感じたらあの娘を置いて逃げるつもりでいるでしょう?」


 小夜の冷たい声色と視線に別人格の名取は図星だったのか別人格の名取の表情が歪む。


「あなたは黙って久代に力を貸してあげなさい」


 小夜は不服そうな別人格の名取を余所に主人格の名取の手を取る。触れた部分から光に包まれ、やがて全身にまで行き渡っていき、名取の意識は現実世界へ送られようとしていた。


「大丈夫、別人格こっちの久代のことは任せて。あなたは神を討ち、あの娘を助けてあげて」


 主人格の名取は小さく頷くと、現実世界へ戻る前に小夜に一つ尋ねる。


「五体様……小夜だっけか? アンタは一体何なんだ? 村の伝承とは違う。目的も何故五体様となったのかも」


「今は言えない。でも必ず真実を話す時が来るわ。この世界でなくても……必ずね」


「ちょっと待てそれってどういう……」


 最後の一言の意味は分からず聞き返そうとするも言い切る前に意識は精神世界から現実世界に飛ばされ、視界は白に染まる。

 現実世界へと意識が移る途中、頭の中に直接語りかけるように別人格の名取の声が響いた。


「イイカ? 現実アッチニ戻ッタラ俺ノ名ヲ叫ベ、ソレガ合図ダ。最高級ノ力ヲ貸シテヤル」


「お前の名前って何なんだ?」


「俺ノ名ハ『サリエル』地ニ落チタ堕天使サ。楽シミニシテイロ。アマリノチカラニ飛ブゼ?」


「そうか、そいつは楽しみだ。頼むぜ、サリエル」


 名取は別人格として内に住み着いた殲滅眼「サリエル」に背中を押されるように現実世界へと飛び込んでいく。

 名取とサリエルの表情には心なしか互いに信頼の色が見え、軽い笑みが浮かんでいた。


 精神世界での時間は現実世界にほとんど反映されず、現実世界での状況は依然として変わらずルシェルが名取に口付けした時からほとんど変わらない。


 精神世界から戻ったルシェルが名取から口を離すと、その瞬間、同様に現実世界に戻った名取が目を覚まし、起き上がる。


 目を覚ました名取を見て安心したように涙を浮かべるルシェルと目を合わせた名取は、ルシェルの頭を撫でて微笑むと、闇をさまようものに視線を移す。


「ルシェル、これが最後の戦いだ」


「うん」


 二人は立ち上がり、名取は闇をさまようものに向けて歩き出し、ルシェルは後ろで黒い翼を広げあとについていく。

 神格が放つ絶望と恐怖は、一歩踏み出すたびに二人の心を押し潰そうとする。それでも二人は、その全てを押し殺すように力強く歩みを進めていく。


 世界を支配するような静寂の中、名取はそっと目を閉じ小さく呟く。


「さぁ、俺達の真の力を見せよう。サリエル」


「キヒヒ! 神ノ臓物、撒キ散ラシテヤロウゼ!」


 名取は目を見開き、黄色く光る瞳が輝きを放つ。



「「三極邪眼さんごくじゃがん(イビル・トリニティ)!!」」



 その時、名取の目に紫・黄・橙の3つの瞳が顕現した。

ミニコーナー企画!


次回予告をやってみよう!


File3 「失楽園の少女」から新橋だ。よろしく頼む。


自身の身に宿る三つ全ての邪眼を解放し、神に迫る勢いの強大な力を手にした名取。神格を相手に肉薄する名取とその援護にまわる新橋。再生の血を使用を決めるギル。熾烈を極める死闘の中、闇をさまようものに有効打を与える為に、ルシェルは転生術の儀式用の隠し部屋にある「トキの頭のような柄の短剣」を探すため、祭壇の更に奥を目指していく。


次回、復活と代償 次回も楽しみにしてくれよ。

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