130 森に住まう者たち
もうじき夜明けを迎える室内は薄暗い。
蝋燭はとうに燃え尽きていた。
そんな風に迎える夜明けを、もう五日も繰り返している。
私はたた静かに息をつめて、こうやって見守ることしか出来ない。
横たわるレオナルの眉間に、シワが寄ってしまっている。
苦しいのだろうか?
そっと指先を這わせた。
ふっと目蓋を持ち上げて、レオナルが私を見た。
その瞳は焦点があまり定まっていない。
叫び出したいほどの狂おしい感情を抑え、精一杯微笑んで見せた。
「レユーナ」
「はい。よくおやすみでございましたね、あなた」
「ああ。長い夢を見ていた」
「まあ、どんな夢ですの?」
「……忘れた」
「まあ」
「だが、とても良い夢だった」
「それはようございました」
弱々しく、私へと伸ばされた彼の手を取る。
少しだけ乾いていて無骨で、大きな手だ。でもとても、私の手になじみがいい。
かつて頼りにしていた杖にも似た感触が思い出される。
しっくりと私の手のひらにおさまる。
あれで無くては駄目だった、あの頃。
既に杖を必要としなくなって、三十年以上の時が経っている。
奇しくも杖を必要としなくなったから、杖は手放した。
それから。それから……人生の半分以上をこの手に頼ってきた。
時に引いてもらい、時に私がこの手を引き、一緒に歩んで来れた。
彼だけではない。
小さくあたたかな子供たちの手のひらも加わって、温もりは増していった。
昨年、生まれたばかりの孫の手を思い出す。
赤ん坊特有の小ささと、思いがけない力強さに、幾度も感動して二人顔を見合わせた。
その顔に刻まれた彼のシワが、とてもとても優しく見えて嬉しかった。
両手で慈しむように温めた。
だがゆっくりと失われて行く熱に、追いすがる。
いつも強く、力強く握り返してくれたはずの力は籠らない。
それを恨んだりなんてしない。
後悔もだ。
ただ、溢れるのは感謝の気持ちだけだ。
彼は私を伴侶に選んで、ずっと側に居てくれた。
急速に失われて行く熱に、私の熱を分け与える事はどうにか出来ないものか、と願った。
彼の手に頬をすり寄せ、唇を押し当てる。
――私の手はあの頃のまま……シワひとつない。
時が刻まれる事のない我が身。
それがひどく悔しい。
『朝 露』
『はい』
まっすぐに見つめられた。
私も見つめ返す。
『レユーナ、ありがとう。愛している』
『はい。私もずっとずっと、愛しています』
目蓋がゆっくりと閉じられていく。
最期の最期までレオナルは私を見ていてくれた。
『っ、レオナル……。あなた』
その閉じられた目蓋に触れる。
叫び出しそうになるのを、唇を噛み締めてこらえた。
薄暗かった室内に朝日が差し込む。
夜明けだ。
私は立ち上がった。
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あたたかい。
静かだ。
とても。
静かだ。
「 起 き て 」
「 ね え 、 起 き て 下 さ い 、 レ オ ナ ル 」
再びまどろみかけたその時、優しく名を呼ばれた気がした。
心までをくすぐるような愛しい響きに、頬が緩む。
そっと目をあけると、眩しい程に白いベール姿のレユーナの姿が飛び込んできた。
彼女の手に引かれるまま、身を起こす。
美しい少女が、俺だけに見せる笑顔で、にっこりと笑ってくれるものだから見蕩れた。
「これを受け取ってくださいますか? 私の気持ちです」
そうして差し出されたそれは、赤い石の腕輪。
石屋の娘と楽しそうにこしらえていた。
ああ。
誰にやるのかと本当は気が気では無かった。
そうか。
今日は祭りの日か。
だから、美しく着飾っているのか。
花嫁さながらの装いに見蕩れた。
「もちろんだ。ありがとう」
腕にはめるとしっくりと馴染む。
溢れる喜びのまま、腕輪に口付けてから、レユーナの額にも口付けた。
少女がくすっぐたそうに笑う。
「行きましょう、レオナル。みんな待っています。お祭りが始まってしまいますわ」
楽しそうな声に頷いて、立ち上がった。
そのまま彼女と手をつないで、館を出る。
いつも必要としていた杖が無くとも、すんなりと立ち上がれたと気がつく。
それだけではない。
息苦しさも、節々のこわばるような軋みも感じない。
まるであの頃に戻ったようだ。
レユーナの手を強く握り締めてみる。
彼女はただ微笑むだけだ。
俺もそれに応える。
静まり返った館を出ると、既に馬が用意されていた。
……ただし頭に一角がある。
『久しいな』
『水底の……。』
『みなまで言うな! いいから早くしろ。名で縛らずとも乗せてやる!』
『早く行きましょう? お願いします、一角の君』
『おお、エイメ。相変わらず美しい』
あの懐かしい祭りの記憶が蘇る。
色々あった。
幾度も振り返っては後悔もした。
甘い疼きと共に沸き上がる想いを寂寥と呼ぶのか。
そんな言葉では追いつきはしない。
言い表せない遠い日のはずなのに、今日という日はそれがとても近くに感じられる。
祭りの準備でクルミを掻き出した。
そのクルミをこの傍らの少女と食べさせあった。
祭りの日、村の子供たちがはしゃぎ回った。
魔女っこは綺麗だと。
花嫁みたいだと。
自分もそう思ったのに、口に出さなかった。
何故、そう出来なかったのだろう。
その場で感動した事を伝えておけばよかったのに。
想いは出どころを求めて澱んだりはしなかっただろうに。
その場で思った事をすぐに素直に言葉にしていたならば。
いつだって俺は娘の心を傷つけるような事ばかりを吐いた。
そのたびに彼女を絶望にまでおいやったのだ。
いつも、いつでも傍らで笑ってくれるようになった彼女を見るたびに、訪れる後悔。
――果たして俺は、それを償えただろうか?
一角は迷いなく朝もやの中、森の奥深くへと進んで行く。
そうしてたどり着いたのは、オークの巨木がそびえ立つあの場所だった。
『着いたぞ』
『ありがとうございます、一角の君』
『早く降りぬか。エイメは別だが』
『ああ……。』
からかうような口調に、曖昧に頷いて降りた。
もちろん、レユーナも一緒に。
風が吹く。
吹き抜けてゆく。
たどり着く場所。
かつての活力に満ちた身体に、ああそうか、と唐突に納得した。
ああ、そうか。
終わったのか。
ザカリア・レオナル・ロウニアの人生は、つい先ほど終りを迎えたのだ。
手を引かれるままに巨樹へと進む。
その後ろから、人影が姿を現した。
手にはシュディマライ・ヤ・エルマの仮面を手にしている。
『やあ、来たね』
『スレン』
『今日で地主業はひとまず終業だね。お疲れさま』
『そのようだな』
『そうだよ。今日からは森のカミサマ業につくといい。まあ、のんびりやるがいいさ。何せ時間はたっぷりある』
そう言って笑いながら仮面を手渡してきた。
手にした獣を象った面を付けて見せると、レユーナもスレンも満足そうに頷いた。
『よく来たね。歓迎するよ。向こうに森の大主と、大魔女も待っているよ。改めて紹介するからおいでよ』
俺の感じる喜びのままに、オークの実が降ってくる。
大魔女の娘が嬉しそうに笑い声を上げる。
はしゃいで、オークの恵みに打たれるのだと、くるくる回っている。
シュリトゥーゼル達も舞い降りて、一緒になってさえずり出す。
木漏れ日の下、白い花嫁衣装がひるがえる。
一緒に向かい合い、手と手を取り合って笑った。
『行きましょう、みんな待ってくれています』
愛しい少女に促されるまま、光の方へと進む。
つないだ手のひらに、オークの実を感じた。
風が吹き抜けて行く。
あまりの眩しさに目を細める。
風が優しく背を押してくれた。
――光に向かって一歩を踏み出す。
『おしまい。』
めでたし、めでたし……。
今までお付き合いくださり、ありがとうございました!
※ 拍手小話でスピンオフ、ちょっとだけ続きます。