第七十五話 炎すら凍る
第二城門には、守兵の姿はなかった。
先の屍人と同じく朽ち果てたのか、あるいは最初から配置されていなかったのか。守る者のいない重い城門を、ガイアが力任せに開け放つ。
「で? こっからはどうすんだ?」
「ここからは迷路だよ。俺が案内するから、その通りに進んで」
グレンの背に負われたケセナが、自信ありげに告げた。
「ああ、頼んだぞ」
「うん。じゃ、まずは突き当たりを左」
グレンが風のように走り出す。
それに続き、ラル、ガイアとキョウ、そして四十名の朱雀の精鋭たちが一斉に門をくぐった。
城門の先は、宿屋や食堂、その奥には民家が立ち並ぶ市街地だった。だが、住民たちはとうに避難を済ませているのか、生活の気配は微塵もない。
静まり返った迷宮のような路地を、ケセナはグレンの背から的確に案内していく。
「左に曲がって、右、右、それで左! しばらく真っ直ぐ!」
背中からの指示に少しも違わず従い、グレンが神速で石畳を駆け抜けていく。
だが、唐突に背からの指示が途切れた。
「……ん?」
「おい、真っ直ぐって……真っ直ぐの先は壁だぞ!?」
グレンが石畳を激しく削りながら急停止し、鋭く問いただす。
だが、背中のケセナから返ってきたのは、「ええっと——……」という、ひどく頼りない唸り声だけだった。
「……迷ったでしょ、ケセナ」
隣で足を止めたラルが、半眼のまま事実を口にする。
先頭の三人が急停止したことで、少し遅れてついてきていた精鋭たちも、ざざっと甲冑を鳴らして追いついてきた。
「どうしたの、ファル!?」
キョウが声を飛ばす。だがケセナは冷や汗を流しながら、空を仰いで視線を泳がせるばかりだ。
その反応を見た瞬間、ガイアの肩がわなわなと震え出した。
「記憶があって迷うってどういう仕組みだよ!?」
「記憶と方向感覚は別なんだよ!!」
激怒する朱雀の長へ、ケセナが涙目で言い返す。
五千星霜前に設計した『己の最高傑作』の構造は、ケセナの頭では到底処理しきれなかった。
「てめぇが作ったんだろーが!!」
「俺じゃないもん! オウセイだもん!」
みっともない責任転嫁を聞き流しながら、グレンは深々と、骨の髄から疲れたような息を吐き出した。
「……戻るぞ。お前の案内が止まった場所までな」
怒る気力すら失せた顔で、グレンが来た道を引き返し始める。
迷子からの仕切り直し。すごすごと戻っていく彼らの背中を見て、後ろについていた精鋭たちから、「隊長、ファル様を虐めんなよ!」「しゃーねぇな!」と、どっと温かい笑いが湧いた。
ケセナは羞恥のあまり、グレンの黒い外套へすっぽりと顔を埋め、二度と顔を上げられなくなった。
そうして、気を取り直しての再出発。
「左! 右、右のあの奥をどん突き左!」
「……」
もはやグレンは何も言わない。
ただ背中のケセナから呪文のように飛んでくる指示に従い、超人的な脚力で石畳を蹴り続ける。
「どん突きって……」
妙な単語に、ラルが並走しながら呆れ半分にくすりと笑う。
少し離れた後方では、ガイア率いる朱雀の精鋭四十名が、今度こそ迷いなくぴたりと追従していた。その気配を確かめながら、ケセナはさらに脳裏の地図をたぐり寄せ、今度は間違えまいと声を張る。
「あと少しだから! ……グ、グレンさん?」
「……」
黙々と駆けるグレンの広い背中が、小刻みに震えていることにケセナは気づいた。
限界なのか、それとも別の理由か。ケセナが不安げに眉を寄せると、
「お前は……」
グレンが、地の底から響くような声で息を漏らし――
「なんでこんな迷路にしたあぁあぁあぁッ!!」
五千星霜前の設計者に対する魂からの抗議が、迷宮じみた皇都の空へ高々と響き渡った。
「ごめんって! まさか俺がこんなことになるなんて思わないでしょ!」
「うるさい! 少しは反省しろ!!」
「してるってば! あああ、グレンさん、そこ右の急な曲がり角!」
「ああああーーーーッ!!」
石畳を削り抉るような急制動。
グレンが悲鳴じみた雄叫びを上げながら、ほとんど折り返すような角を強引な脚力で曲がり切る。振り落とされそうになり、ケセナは必死に太い首へすがりついた。
「あとは真っ直ぐ行ったら広場だから、許してよー!」
背で涙声の弁明を続けるケセナと、怒り狂いながらも完璧に指示へ従って疾走する元騎士団長。
ラルは呆れたように長めの息を吐きながら、その騒がしい横を涼しい顔で並走し続けた。
――やがて。
狂気の迷路をようやく抜けた彼らは、開けた空間へ飛び出した。
皇都のさらに奥へ至る最大の関門、第三城門前の大広場である。
だが、騒がしかった三人の声と足音は、眼前の光景を前にしてぴたりと止まる。
後方から追いついたガイアたち精鋭部隊も、広場へ出た途端に息を呑み、即座に臨戦態勢を取った。
本来なら、軍勢をまとめて潰すための仕掛けが待ち受けているはずの巨大な空間。
だがそこには、大軍勢も、凶悪な罠の気配もなかった。
ただ、広場の中央に、純白の長衣を纏った一人の男が静かに立っていた。
色素の薄い銀髪。
感情の欠片すら読み取れぬ、氷めいた眼差し。
そして何より異様だったのは、男の周囲の石畳だけが分厚い霜に覆われ、大気中の水分までもが細かな氷片となって舞い散っていることだった。
後方から追いついたガイアが、肌を刺す異常な冷気にぴくりと眉をひそめる。
第二城門のリーギストと同じ屍人使いかとも思った。だが、放たれる魔力の質が違う。決定的に、違っていた。
「……ケセナにこれ以上の無理はさせられない。隠れてろ」
グレンが背負っていたケセナを静かに下ろす。
だが、地へ足をつけたケセナは、ふらつく身体をどうにか支えながら、弾かれたように前へ出ようとした。
「俺も戦う……っ!」
「無理だ。立っているのがやっとだろうが」
冷静な指摘に、ケセナは悔しげに唇を噛む。
「でも……!」
なおも食い下がろうとしたケセナの両肩を、横からラルがどんと強く押し込んだ。
「今のケセナは足手まとい!」
「うわっ!?」
強引に地へ座らされたケセナは、容赦のない正論に言葉を詰まらせる。
抗議しようにも、悲しいほど身体へ力が入らない。ケセナは露骨な不満顔のまま、ずりずりと壁際の物陰へ身を寄せていく。
そんな彼をラルに託し、ガイアとキョウが前へ出た。
「休んでな、ファル。今度こそ俺が活躍するから、見てろ」
ガイアがケセナへ向けてにやりと笑い、親指を立てる。
頼もしい朱雀の長の背を見送ろうとしたケセナの耳元へ、あとを追うキョウがふわりと顔を寄せ、小声で囁きを落とした。
「……さっきの戦いと、この迷路で、ちょっと鬱憤が溜まってるから。あいつ、本気で暴れるわよ」
「え?」
「見てて」
キョウは静かに微笑むと、先に進んだガイアの背を追った。
グレンの横まで歩み出たガイアが、短剣をかちりと引き抜く。
その抜刀の音に応じるように、純白の男が、ゆっくりと伏せていた視線を上げた。
「……前線軍。よくぞ迷宮を抜けました。私はシュゲルト・ワウツ」
シュゲルトと名乗った男の声には、抑揚がまるでなかった。
怒りも焦りも殺意すらない。ただ命じられた役目を果たす道具のような冷たさだけがあった。
「フィサルーア様の命により、貴方たち異常因子をここで排除します。……私の絶対零度にて、永遠に静止しなさい」
その宣告を合図に、グレンとガイアが動いた。
「行くぞ、ガイア!」
「おうっ!」
二人は弾かれたように左右へ走り出し、シュゲルトを挟み撃ちにする形を取る。
「おや。騎士たるものが、戦いの前に名乗らぬとは。無作法ですね」
「あぁ? 俺は今すげぇ機嫌が悪ぃんだよ」
半眼でガイアが低く呻く。
「……名乗ってほしいなら、遠慮なく名乗るぜ。俺はガイア・ゾルディクス。朱雀族長だ!」
「おい……」
シュゲルトの口車に乗って悠々と名乗る弟子へ、グレンが呆れたように釘を刺す。
だが、ガイアは気にせず言葉を続けた。
「騎士の、しかも団長だった男が横にいるんだ。騎士たるもの、だろーが」
騎士たるもの。
そう言われてしまえば、元騎士団長としては無視できない。
グレンは短く息を吐き、漆黒の剣を構え直した。
「……グレン・ラティア。ただの、流れ者だ」
騎士団長は、もう過去の肩書きだ。いまだ未練がましく黒い制服を纏ってはいるが、今の自分はただの流れ者に過ぎない。
けれど、それでよかった。
今はただ、ケセナを守るただ一振りの剣であれば。
二人の名乗りを聞き届け、シュゲルトが白魚のような手を翳した。
「それでは、お相手願いましょう」
直後、耳を塞ぎたくなるような甲高い異音が広場を満たし、巨大な氷結が空間を覆い尽くした。
尋常ではない速度の凍結。呼吸するだけで肺の奥まで凍りつくような、極限の冷気。
「ちぃッ!」
ガイアが即座に短剣へ炎を纏わせ、迫り来る氷の棘を斬り払う。
だが、斬り裂いた端から、赫々たる朱雀の炎がじゅっと嫌な音を立てて凍りついていく。
「なっ……炎が、凍ってる!?」
後方で見ていたケセナが驚愕の声を漏らした。
炎を消しているのではない。炎が持つ『熱』そのものを、強制的に奪い去っているのだ。
ガイアの纏う炎は見る間に勢いを失い、弱々しく揺らぎ始める。
「無駄です。私の氷霜は、魔人の理。下等な炎は、熱を奪われた瞬間に死に絶える」
シュゲルトが無機質な声で見下ろす。
圧倒的な相性の不利だった。
「ちっ! ……なら、物理で叩き割るまでだ!」
グレンが神速の踏み込みでシュゲルトの死角へ回り込み、漆黒の剣を剛力で振り下ろす。
だが、シュゲルトの周囲の空間そのものが分厚い氷盾へと変貌し、グレンの剛剣を易々と弾き返した。
しかも、打ち合わせた刃先から恐ろしい速さで霜が這い上がり、グレンの腕を白く封じようとする。
「くっ……!」
グレンは舌打ちと共に剣を強引に引き抜き、後方へ跳んで距離を取る。
着地した彼の吐く息は、すでに真冬のように白く染まっていた。
「無謀ですね。私に近づくということは、自ら死の静寂へ踏み入るのと同じこと」
シュゲルトが淡々と告げ、視線だけで巨大な氷柱を無数に生み出す。
「上からならどうだ!!」
ガイアが重力を軽くし、城門脇の壁を蹴って壁上へ跳び上がる。
全身の魔力を込めた極大の火球を、シュゲルトの頭上へ向けて叩き込んだ。
「燃え尽きろぉっ!」
だが、巨大な炎塊が届く寸前。
シュゲルトが指先をぱちんと鳴らすと、轟々と燃え盛っていた火球は空中でぴたりと静止し、瞬く間に青白い巨大な氷塊へ変わり、ぱりん、と無残に砕け散った。
「なっ……マジかよ……」
着地したガイアが絶句する。
後方からキョウが放った牽制の矢すら、絶対零度の領域へ入った途端に凍りつき、からんと石畳へ落ちた。
「理解できませんか? 私の力は、あらゆる動きを奪い去る『静止』。あなたたちの持つ熱も、力も、命の鼓動すらも……この領域では、やがてすべてが凍りつき、止まる運命にあるのです」
無機質で、感情の欠片もない声。
広場の温度はなおも下がり続け、動くだけで体力と体温を根こそぎ奪っていく。
完全な膠着。
いや、このままでは削り殺されるだけだ。
猛吹雪の中で、ガイアは必死に考える。
(あらゆる動きを止める? 熱を奪う?)
寒さに歯を鳴らしながら、朱雀の長は眼前の絶望的な現象を睨み据えた。
(炎が凍るのは、俺の炎が持つ『熱』を奪い尽くされるからだ。……なら、奪いきれねぇほどの熱量を、一息で爆ぜさせたら?)
己の炎の力と、相手の圧倒的な冷気。
ふと、ガイアの脳裏に一条の勝機が閃く。
(これだ……!)
ガイアは氷の猛攻を躱しながら、反対側から牽制を続ける師へ向けて叫んだ。
「先生、あとは俺がやる!」
「この戦力差で何を言っている!」
グレンが剣で氷柱を砕きながら鋭く問い返す。
ガイアの火が通じぬ相手へ、一対一で挑むなど自殺行為に等しい。
「任せやがれ! 俺はあんたの弟子だ!」
猛吹雪を貫く、不敵な叫び。
その声を聞き、グレンはガイアがすでに勝機を掴んでいることを悟った。
グレンの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
彼は剣を引き、弟子の動きを妨げぬよう、一歩だけ後方へ退いた。




