第七話 南方地区へ
旅立ちから、三つの季が巡っていた。
いくつもの街を渡り、何度も夜巡りを野で明かし、それなりに旅らしい旅はしてきた。
だが、ケセナはいまだ旅慣れたとは言い難い。
その証拠に、彼は今も南方地区へ続く分かれ道の道標の前で腕を組み、うんうん唸っていた。茶色の瞳でじっと道標を睨みつけて、かれこれ半刻は経つだろうか。
白い短衣も黒い脚衣も、紺色の帽子付き外套も、すっかり土埃と煤にまみれている。旅立った頃の清潔な面影など、とうに土埃の下へ埋もれていた。
次に立ち寄る街で服を新調し、ふかふかの寝台で眠り、まともな食事にありつきたい。
そう切実に願っていたのだが、道標に刻まれた文字を見て、彼は盛大に頭を抱えることになった。
右が示すのは、朱雀族長のお膝元である城下町『フェルナリア』。
左が示すのは、デフス鉱山の麓にあり、良質な鉄鉱石が採れる鍛冶屋の街『アウテリス』。
ここから先は『南方地区』――朱雀族が統治する地である。
問題は、この二つの街というより、南方地区全域が、四星霜前の内乱によって壊滅的に荒廃したという噂だった。
(じゃあ何故、こんな地に来てしまったんだ……)
答えは明白である。
分かれ道にぶつかるたび、小枝を放り投げて進む道を適当に決めてきたからだ。
己の優柔不断と適当さを今さら猛烈に後悔し、ケセナは歩いてきた方角を振り返る。
引き返せば、丸二度の夜巡りを野で明かすことが確定する。それでも荒廃した街よりはましかもしれない。西方地区の末端とはいえ、白虎族の統制はしっかりしていて、住民たちも気さくでいい人ばかりだった。
未練たらたらで道標を見直す。
どちらを選んでも、昼巡りの終わり頃には到着するはずだ。そして悲しいかな、どちらを選んでも、荒れ果てた街並みが待っていることに変わりはない気がする。
せめて風雨を凌げる屋根と、温かい食事があればいい。
そう腹を括り、ケセナはようやく決断を下した。
かつての城下町『フェルナリア』へ行こう。
決め手は、「城下町なら、まだまともな建物が残っていそうだ」という根拠のない思い込みだった。
「よし」
気合を入れて周囲を見回し、ケセナはぽかんと口を開けた。
「あれ……? プラウ……?」
真横にいるはずの、騒がしい相棒の姿が見えない。
「プーーーラーーーウーーー!?」
大声で呼んでみるが、返事はない。
首を傾げ、道標の裏手にある沢を覗き込もうと歩き出した、その折だった。
「ケセナさまあああぁぁぁ!!」
甲高い悲鳴と共に、銀髪金目の幼女が沢から這い上がり、そのままの勢いでケセナの腰にどんっと抱きついてきた。
いや、抱きついているのは右腕だけで、彼女は号泣しながら左手をこれでもかとぶんぶん振り回している。何かを必死に振り払いたいらしい。
「プ……プラウ?」
怪訝に思い、顔を覗き込む。
金色の瞳からは滝のように涙が溢れていた。彼女は一瞬、何かを訴えかけるような表情をしたものの、すぐに「うぇぇん」と泣き顔へ戻り、やはり左手を振り回しながら悲鳴を上げた。
「取ってくださいぃぃぃいいいぃっ」
「取る?」
「左手にぃぃぃっ!」
泣きじゃくっていて聞き取りづらい。
ケセナはプラークルウが振り回し続ける左手を見やった。激しく振られる人差し指の先に、何かががっちりとくっ付いている。だが、速すぎて正体までは判別できない。
「ちょっと待って。何してたの?」
むんず、とケセナはプラークルウの左手首を掴み、その動きを強制的に止めた。
そして、人差し指にしがみついている『それ』を見て、半眼になる。
「だって、ケセナ様が決めるの遅いんですもん……っ」
「……ごめん」
優柔不断っぷりを遺憾なく発揮して待たせていたのは、確かにケセナ自身だ。暇を持て余したプラークルウが、ふらふらと沢辺へ遊びに行ってしまったのも無理はない。
だが、だからといって、こんな凶悪な生物とじゃれ合っていい理由にはならない。
生物――それは、蟹だった。
小ぶりではあるが、その凶悪な鋏でプラークルウの人差し指をがっちり挟み込み、微動だにしない。あれだけ激しく振り回されたにもかかわらず、決して離れようとしない根性は相当なものだ。
(そういえば……)
ケセナの脳裏に、あの分厚い歴史書で読んだ知識が蘇る。
この小さな蟹は南方地区の名産物で、『一度その鋏で獲物を挟んだら、何をされても絶対に離さない』という厄介極まりない習性を持っているらしい。
「俺が遅すぎて、蟹を突っついて遊んでたの?」
「……最初は見てるだけだったんですけど。ちょっと突っついたらどうなるのかなぁって……」
プラークルウは素直に白状した。
指を挟んでぶら下がる蟹は、ご立腹なのか、心なしか目が吊り上がっているようにすら見える。
「ケセナ様ぁ、痛いんですぅ。なんとかしてください」
涙目で助けを求めるプラークルウの声に、ケセナは深く悩んだ。
この状況を招いた一端は自分にある。
だが、この執念深い蟹を引き剥がすために思いつく手段は、たった一つしかない。
意を決し、ケセナは無言でプラークルウの左手を地面へ置かせ、自分もその前にしゃがみ込んだ。
手を引っ張られて座らされたプラークルウは、目を白黒させながら、じんじんと痛む人差し指と、その先でふんぞり返る憎き蟹を凝視する。
「えいっ」
気の抜けた掛け声と共に。
ケセナは無表情のまま腰の短剣を引き抜き、蟹の甲羅の隙間へ正確に切先を入れた。
ぱきん、と硬いものが割れる音がして、蟹はぽろりとプラークルウの指から剥がれ落ちる。
「きゃあああっ!? 指っ! 私の指があああぁ!!」
短剣の勢いで指ごと切断されたと勘違いしたプラークルウが、鼓膜を劈くような悲鳴を上げた。
しかし、慌てて持ち上げた左手を確認し、今度はぽかんと目を丸くする。
「……あ、ある」
ほっと胸を撫で下ろし、左手の甲と平をひっくり返して傷の具合を確かめるプラークルウ。
挟まれていた部分は赤く腫れているが、流血はしていない。精霊であるプラークルウなら、放っておいても大丈夫だろう。
「ごめん。待たせてしまって。やっと行く先が決まったよ」
ケセナが申し訳なさそうに立ち上がりながら謝罪した、その直後だった。
無事を確認したプラークルウが、砲弾のような勢いで突進し、ケセナの顎へ強烈な頭突きをお見舞いした。
ごつっ、という鈍く小気味よい音が、静かな街道に響き渡る。
「いっ……たぁっ!?」
何事もなかったかのように着地したプラークルウは、顎を押さえて蹲るケセナを見下ろし、地団駄を踏んで言い放った。
「すっっっごく、遅いです!!」
「……ごもっともです……っ」
言い訳も反論も許されない完璧な一撃だった。
ケセナは痛む顎を擦りながら、「この石頭め……」と胸中で毒づき、ゆっくりと立ち上がる。
見れば、プラークルウはまだ怒りが収まらないのか、ぷくぅっと両頬を限界まで膨らませていた。
ケセナは無言でその頬へ右手を伸ばし、膨らんだ頬を両側から容赦なく押し潰す。
ぶすぅっ、という間抜けな音と共に萎んだ頬は、一気に真っ赤に染まった。
「ケセナ様!! 何をなさるんですか!!」
猛抗議して突進してくるプラークルウを、ケセナは笑いながらひらりと躱した。
何度か子供のような追い駆けっこを繰り返した後、ケセナは足を止め、これから向かうべき道を指差す。
「フェルナリアに行こう」
その真っ直ぐな言葉に、プラークルウはぴたりと動きを止め、ケセナの指差す先を見つめた。
「……ケセナ様、そっちは戻る道です」
「……え? あ、うん、こっち、だね」
相変わらず正確な指摘に、ケセナは俯き、顔を赤くしながら歩き出した。
昼巡りの終わり頃には到着するであろう、かつての城下町フェルナリア。
荒廃しているとは聞いているが、果たしてどんな街並みが待っているのか。
不安よりも、未知の場所へ向かう期待に胸が高鳴る。
再び巡って来た『繁茂の季』。
ケセナは、朱雀族が統治する未知なる大地――南方地区へと、確かな一歩を踏み入れた。




