第五十三話 その胸へ帰る
「どこにいる、ファルイーア」
誰かが、自分を探している。
闇の中へ沈んでいたいという願いすら、叶えてはもらえないのだろうか。
(ああ、そうだ。僕の願いは、何一つ叶わない)
光のある場所は、自分にはない。
否定は無意味。
名は個を表す記号。
それでいい。
自分に、自分なんてない。
生まれてからずっと、切り刻まれていた。
生きたことなんて、一度もなかった。
いつも誰かの人形だった。
感情を隠して、痛みも隠して。
それでも、ただ『生きたい』と心の底で願っていた。
(願ったら、駄目だったんだ……)
自我なんていらなかった。
言葉なんて、知らなければよかった。
記憶の封印なんて、しなければよかった。
あのまま怯えて、『生きる』ことを諦めればよかった。
「ケセナ。どこだ?」
また、誰かが呼んだ。
呼ばないで。
その名まで嫌いになってしまいそうだ。
痛くて、辛くて、逃げ出したあの昼夜、自分につけた嘘の名前。
大好きだった絵本に出てきた、友達の名前。
「――ここにいたのか、ファルイーア」
あの刻と同じ台詞。
ファルイーアは恐る恐る、声のした方へ顔を向けた。
「オウセイ……」
闇の中なのに、なぜか蒼い髪が見えた。
冷え切っていた心が、急速に溶けていく。
どうしてこの人は――
違う。
知っている。
彼がなぜ、自分を助けたのか。
自分の中の応龍を守るためだ。
彼が愛したファミラスを護るために。
結界の一部が欠けないよう、自分という器を失わせないために、彼は魂と魔力を注いだ。
その果てに、彼自身が『不死の呪い』から解き放たれたことも、知っている。
(記憶は全部、僕の中にある)
なのに、オウセイはこうして自我を失わず、自分の前に立っている。
「俺の魂を、お前が繋いだ」
オウセイはそう言って、顔を顰めた。
何を言っているのだろう。
自分の魂に、貴方の魂を繋いだのは、他でもない貴方なのに。
「どうしてこんなことをした……?」
知らない、と言おうとして、ファルイーアは思い出す。
どこかで、自分もまたオウセイを助けたいと願っていたことを。
「その結果、俺はお前の中にいる。今、俺はお前のことがすべて手に取るように分かる。ファルイーア、諦めるな」
諦める?
最初から、諦めるしかない命だったのに。
正統なる皇位後継者などという仰々しい名を押しつけられて、自分が何なのかも分からないのに。
「俺の希望を、お前は知っているはずだ」
ファルイーアは、ああ、と小さく息を吐いた。
奥底で消えずに持ち続けた、たった一つの希望。
それだけが、ファルイーアのすべてだった。
感情を失ってもなお、握り潰さずにいたもの。
そしてオウセイは、それを肯定してくれた。
「知ってます。貴方は俺に、『自分のために生きろ』って、そう言ってくれた」
一瞬で闇が晴れ、真白な空間が広がった。
気づけば、オウセイの姿も消えていた。
同刻に、どこか遠くから、小さな水滴みたいな泣き声と、心を鎮める低い声が聞こえた。
なぜか懐かしいその二つの声に引かれるようにして、ケセナは重い足を前へ出す。
白い靄がケセナを呑み込むが、恐怖はなかった。
ケセナは瞼を下ろし、ゆっくりと押し上げる。
最初に視界へ入ったのは、豪奢な天蓋だった。
(ここは……)
鈍い頭で考えようとした、その刹那。
真横から注がれる二つの気配に気づき、視線を動かす。
そこで、ケセナの心臓が激しく跳ねた。
見知らぬ初老の男。
そして――容赦なく自分の四肢を拘束し、その胸へ死の刃を突き立てた白虎族長、レイア・ファンサルが、自分を見下ろすように手を翳していた。
「――っ!!」
ケセナの身体が、本能のままに跳ねた。
枯渇していたはずの魔力が、生存本能に押し上げられるように一瞬だけ弾ける。
それまで二人が行っていた治療の術式が、ぱん、と音を立てて弾かれた。
「くっ!?」
「レイア様!」
体勢を崩した二人を前に、ケセナは全身を走る激痛に喘ぎながらも、無理やり上体を起こした。
震える腕で後ずさる。
傷ついた身体は言うことを聞かない。それでも力任せに動かすたび、四肢の傷口が開き、流れ出た血が純白の敷布を赤く染めていった。
じりじりと後退し、寝台から滑り落ちる。
「っ、くるな……!」
喉から絞り出した怯えきった声が、部屋に響いた。
ケセナは壁際まで身を引きずり、縮こまるように身体を強張らせる。
焦点の合わない瞳は、狂乱の縁を彷徨っていた。
レイアが息を呑み、ガイアが駆け寄ろうとする。
だが、それよりも早く。
「ケセナ」
低く、深く響く声が、部屋の空気を震わせた。
びくりと肩を跳ねさせ、ケセナが声のした方へ目だけを向ける。
そこに立っていたのは、見慣れた漆黒の制服に身を包んだ、大きな男。
悲しげな顔で、それでもいつも自分を守ってくれた男。
(どうして……)
ケセナはゆっくりと顔を向けた。
そこにいた。
置いていかれたと思っていたはずの男が、確かにそこにいた。
自分はまた、化け物になって暴走してしまった。
だから当然、見捨てられて、置いていかれたのだと思っていた。
自分の前に、彼がいるわけがない。
いるはずがないのに。
口が動く。
けれど、音は生まれなかった。
もう一度、確かめるように目を見開く。
そこにあるのは幻ではなく、確かに自分を見つめ返す黒い瞳だった。
「グレン……?」
小さな吐息で縋るように問うケセナへ、グレンは無言で、力強く頷いた。
グレンが叩き込んだ、痛みを逃がすための呼吸を繰り返しながら、ケセナは壁際に寄りかかったまま、震える右手をグレンへ向かって伸ばした。
指先が痙攣しても構わずに。
助けて、と求めるように。
だが、グレンはその手を取ろうとはしなかった。
触れた瞬間、また壊してしまうかもしれない。
その恐怖が、グレンの腕を止めていた。
それでも、ケセナは手を伸ばし続けた。
ぽたぽたと腕から血が落ちる。
激痛が走る。
それでも、その指先はグレンだけを求めていた。
「グレン……!」
次の瞬間。
ケセナは痛む身体で地を蹴り、自らグレンの胸の中へ飛び込んだ。
「ケセナ……?」
グレンは何が起きたのか分からなかった。
あのケセナが、自分からこの腕の中へ飛び込んでくるなど、あるはずがない。
あれほど他者の接触を忌避し、魂を削り取られるように震えていたケセナが――
「グレン……! グレン!!」
その呼び方と息遣いに、胸の中で泣いているのが誰なのかを、グレンは悟った。
ファルイーア。
胸の中の小さな青年は、肩を震わせ、まるで呪文のように何度もその名を呼んで泣いている。
グレンはその細い身体を、恐る恐る、それでも壊れ物を扱うように優しく、そして強く抱き締めた。
「ファルイーア……」
身体が揺れ、さらに深く胸へ顔を埋める。
グレンは大きな手で、その背を一定の間隔でゆっくりと撫でた。
突き放されても、あの内乱で隣にあった『手』と、何度も抱き上げてきた『胸』。
それらはファルイーアを人として繋ぎ止め、小さな希望を失わずにいられた、大切な場所だった。
震えが、少しずつ治まっていく。
全身の強張りも抜けていく。
呼吸が整っていく。
そして、ファルイーアの虚無も消えていった。
「グレン……さん……」
顔を上げた彼の琥珀色の瞳には、どこか頼りなさは残っていたが、それでもはっきりとした意志の光が戻っていた。
「ああ。そうだ。ケセナ。怖い思いをさせて、すまなかった」
その温もりを確かめるように受け取りながら、ケセナはグレンの胸元へ額をこつんと預け、ようやく安堵の笑みを浮かべた。
見知らぬ豪奢な部屋。
自分を殺そうとした白虎族長。
状況は何一つ呑み込めていない。
けれど、グレンがいる。
それだけで、自分は安全なのだと理解できた。
「とりあえず、寝台へ戻るぞ。いいな?」
そう声をかけて、グレンがそっと抱き上げる。
その瞬間、ケセナの顔が僅かに歪んだ。
グレンはすぐに気づき、深く溜息をつく。
「痛いなら痛いと言え。何度言ったら分かるんだ」
「え……?」
ケセナはきょとんとした顔をした。
本人にとっては無意識だった。
痛みを他人へ訴えない、あの忌まわしい癖が、まだ身体に染みついたままだったのだ。
「うん……。そうだった」
「痛いか?」
「すごく痛い。この体勢だと、ちょっと死にそう」
「早く言え」
真っ青な顔で正直に答えるケセナを、グレンはさっさと寝台へ寝かせ直した。
傷の具合を確かめる。
四肢も胸も背中も、じくじくとまだ血を滲ませている。
グレンはラルへ顔を向けた。
「薬と包帯を持ってきてくれ」
「あ、薬はあたしの荷物! すぐ取ってくる!」
呆然としていたラルが、はっと我に返って部屋を飛び出していく。
その背を見送ってから、ガイアが寝台の傍らに膝をついた。
ケセナと目線を合わせるようにしゃがみ込み、じっと顔を覗き込む。
「えっと、その……ごめん、ガイア」
「心配させるな! 大馬鹿が!! 大人しく寝てりゃ、こんな……っ、こんな……」
「ガイア……?」
「無事ではねぇけど、無事でよかったよ。ファル……」
ガイアは立ち上がり、安堵の息を吐いた。
それから、迷った末に、昔の癖のようにケセナの頭をわしゃっと撫でる。
「あ……」
ケセナの肩が、びくりと跳ねる。
激しい混乱を起こす――そう思った。
けれど、呼吸は乱れなかった。
ガイアの荒っぽくて、それでも温かい手を、ケセナはただ静かに見つめた。
「ガイアの手も……大丈夫みたい」
そう言って、ふんわりと笑う。
「おう、これからはがしがし撫でてやる」
「遠慮する……」
すぐにラルが薬箱と包帯を抱えて戻ってきた。
グレンはそれを受け取り、手際よくケセナの傷の手当てを始める。
「ケセナ。あたしの治癒魔術だと、傷、治せなくて……」
ラルが申し訳なさそうに声をかけると、ケセナは首を横に振った。
「ううん、いいんだ。ラル。ありがとう」
ラルはそっと、ケセナの冷たい手を両手で包み込んだ。
レイアは複雑な面持ちでそのやり取りを見つめ、小さく息を吐く。
「レイア様。残念ですが、我々の術はこれ以上、彼には施せません」
乱れた燕尾服の襟を整えながら、マジョルドが静かに進み出た。
「我々の魔力を『外敵からの攻撃』と誤認して激しく反発しています。これ以上強引に流し込めば、肉体より先に精神が完全に壊れるでしょう」
「マジョルド。反発されようが構わん。私の魔力で強引にでも傷を塞ぐ。死なせさえしなければ――」
生かすためなら手段を選ばない、冷酷な判断に傾きかけた、その刻。
ケセナの手を握り締めていたラルが、振り返りもせずに言った。
「あたしが、やる。……あたしの魔力なら、ケセナは拒絶しない。あたしなら、きっと!」
「小娘、願望で物を言うな……。私たちが全力で治療に当たる。信じよ」
「信じてないんじゃない」
「なら何だ」
「おばさんに任せるのが嫌」
「誰がおばさんだ」
即座に返ってきたレイアの低い声に、室内の空気が一瞬だけひやりとする。
マジョルドが「まあまあ」と優雅に間へ入り、その場をどうにか収めた。
寝台の上で、ケセナはまだ浅い息を繰り返している。
助かった。
けれど、何も終わってはいない。
白虎の城の静かな一室で、ようやく戻ってきた命は、まだ細い糸一本で繋がれているだけだった。




