第五十一話 無慈悲の慈愛
冷徹なレイアの仮面は、もう保てなかった。
彼女の全身を覆っていた凍てつくような白い気配は、陽に溶ける雪のようにほどけ、弱々しい後悔となって霧散していく。
レイアは震える瞳で、凄惨な血だまりの中に横たわる金糸の髪の青年を見つめていた。
「すぐには信じられん。だが、すべての辻褄が合ってしまう……」
しばらくの沈黙のあと、レイアはぽつりと零した。
「私は、主君の遺児に対して、取り返しのつかないことをした……」
レイアがケセナへ歩み寄る。
ラルはケセナに覆い被さり、彼を守るように抱き締め、叫んだ。
「来ないで!」
しかしレイアは血だまりの中に膝をつき、ふわりと、ケセナの血に染まった金の髪へ指先で触れた。
ラルが息を呑んで、レイアの指先を凝視する。
『無慈悲の慈愛』。
その二つ名の通り、その手つきは壊れ物を扱うように優しく、慈愛に満ちていた。
「知らなかったとはいえ、許されることではない。許してくれ……」
静かな、心からの謝罪。
幻影で容赦なく命を刈り取る『無慈悲』な姿しか知らなかったガイアは、初めて見る彼女の『慈愛』の顔に完全に面食らいながらも、たまらず声を荒げた。
「あんた……こいつに、一体何したんだよ!」
レイアはゆっくりと顔を上げ、ガイアを一瞥する。
「ふむ。やはり気になるか……」
「あったりめーだろーが! 俺の弟分がこんな大怪我してんだ! 言わねぇと、ぜってぇ許さねぇぞ!」
激昂するガイア。
だが、レイアは柳に風と受け流し、冷ややかな声でぴしゃりと言い放った。
「その言葉は、私に勝てる確信を持ってから言え、朱雀」
「うっ……」
絶対的な実力差を突きつけられ、ガイアは悔しげに呻いて口を噤む。
レイアは再びケセナへ視線を落とし、淡々と事の顛末を語り始めた。
「四肢を拘束したまでだ。大罪人として、陛下の御前へ運ぶためにな。……だが、その『精霊捕縛』を施した拘束具を、この遺児は自ら破壊した。外からではなく、己の内側からな」
「内側、から……?」
ラルが涙に濡れた顔を上げ、かすかに首を傾げる。
魔術の理を知る者なら、それがどれほど異常か分かる。『精霊捕縛』を施されれば、一切の精霊を呼ぶことはできず、魔術は完全に封じられるはずなのだ。
「信じがたいのも無理はない。術をかけた私自身、未だに信じ難い」
レイアは自嘲気味に目を伏せた。
「だが、遺児はやってのけた。己の四肢の肉が削げ落ち、焼け焦げることもいとわず、内側から魔力を無理やり膨張させてな。……そして拘束を破り、暴走した」
一呼吸置き、レイアはグレンたちを真っ直ぐに見据える。
「自我を失った彼を止めるためには、もはや斬るしかなかった。だが、私一人ではどうにもできぬ。あれは最強の『兵器』だ。どれほど幻影で惑わそうとも、純粋な破壊の前では私も到底敵わぬ」
レイアは続ける。
「故に、幻影でツェヴァン・ロンを創り出し、最強の剣士と共闘する形を取ったまでだ。……そこに、貴様らが勝手に踏み込んできただけに過ぎぬ」
「勝手にって……」
あまりにも身も蓋もない言い方に、ガイアが情けなく呻く。
だが、それでも食い下がった。
「だったら、俺たちが来た時点でさっさと幻影を解けよ! 戦ってんの見てただろ!?」
「本来、私が構築した幻影空間に入り込めるのは、私が認識し、許可した者だけだ。……それを土足で踏み越えられたのだ。興味が湧いて観察させてもらった」
「趣味悪ぃな、あんた……」
ガイアの抗議を意にも介さず、レイアは未だケセナの傍らに座り込むラルへ、探るような視線を向けた。
「騎士団長。この娘は、一体何者だ?」
その鋭い眼光を受け、グレンはさりげなく一歩前へ出る。
ラルを庇うように立ち塞がり、低く答えた。
「自分の弟子ですよ。それ以上でも以下でもなく、可愛い弟子の一人です……」
決して真実を明かそうとしない、その不器用な庇い方に、レイアは完全には納得しなかったものの、ふん、と短く鼻を鳴らした。
「ならば、もう少し策士になれ」
「……っ!」
グレンの背に冷たいものが走る。
(気づかれていたのか……)
先ほどの『陛下からの極秘命令』という、滝のような冷や汗をかきながら口にした茶番は、この聡明な白虎族長には最初から見透かされていたのだ。
「まぁいい。すべては聞いた。それをどう判断し、どう動くかは、私次第でよいな?」
「はい……」
「私には、一族の命がかかっている。それを踏まえての判断になるが……それでも構わんな?」
凄みのある最終確認。
だが、グレンはもう誤魔化さず、真っ直ぐに言い切った。
「もちろんです」
その揺るぎない眼差しを受け止め、レイアは最後にガイアへ視線を移した。
「朱雀。お前も、腹は決めておるのだな」
「当然だろーが」
ガイアは鼻で笑い、自嘲気味に、だが確かな覚悟を込めて言った。
「朱雀の純血はもう俺しか残ってねぇ。つまり俺の首一つ差し出せば、命令不服従の『皆殺し』はそこで終わる。民は、生き残った朱雀の精鋭どもが守るって誓ってくれた。だから俺はここに来た」
「そうか。すまない。許せ……」
短く頭を下げると、レイアは深く息を吐いて続けた。
「この遺児の治療を、私にさせてはくれないか。せめてもの償いがしたい」
そう言うと、レイアは血だまりの中に眠るケセナの身体を、そっと抱き上げた。
光精霊が治癒を施したとはいえ、怪我は完治しておらず、切り刻まれた衣服の下からはなおも少量の赤い血が滲んでいる。
その新しい傷の下に、見え隠れする消えぬ古傷の群れがあった。
こんな身体で、四星霜前の内乱に『兵器』として立ち、魔力の限界近くまで放出して戦い続けていたのか。
そう思うと、レイアは戦慄した。
あの内乱には、レイアも当然いた。
グレンの脇で、何も映さぬ紅い瞳のまま立っていた、小さな影。
敵からも味方からも恐れられた殺戮兵器。
あの頃は、近づくことすら躊躇った。
そんな子供を、改めてこうして抱き上げてようやく気づく。
軽い。
あまりにも、軽すぎた。
(この子は、どれだけの苦痛の中で生きてきたのだ……)
腕の中に収まる主君の遺児の、薄い胸板と頼りない重みに、レイアは胸の奥で痛ましく呟いた。
視界の隅で、ラルが「おばさん! ケセナを離して! 私が運ぶ!」と地団駄を踏み、グレンが慌てて宥めているのが見えた。
レイアは涼しい顔で、それを無視する。
……その不敬な発言については後で叱るつもりだったが。
「この場では、まともな治療などできぬ。来い。我が白虎の里へ」
無慈悲の慈愛。
世界最強と謳われる誇り高き白虎族長は、主君の遺児をその胸に抱いたまま、振り返ることなく悠然と歩き出した。




