第五十話 主君の遺児
静まり返った屋敷に、ゆっくりとした、しかし確かな足音が響く。
白銀の髪を揺らし、純白に青い流水の刺繍が走る長衣を翻す。広い袖が揺れるたび、布地の奥で青い線が幻影のように滲み、相対する者の距離感を狂わせていく。
凍りつくような、白く底知れぬ気配。
土煙の向こうから悠然と歩み寄ってきたのは、『無慈悲の慈愛』――白虎族長レイア・ファンサルだった。
「私の幻影を消すとは。その娘、何者だ? 逃亡の騎士団長」
一切の感情を排した、冷徹そのものの声が戦場に落ちる。
「逃げたつもりは、ありませんがね……」
「知っている。お前はリュウショウ様のためだけに生きているからな」
その淡々とした応酬を聞きながら、ガイアは息を呑んだ。
(幻影とは、次元が違う……っ!)
全身の血が凍りつくような、底知れぬ寒気。
これこそが、本物のレイア・ファンサルの気配だった。
背筋を冷や汗が伝い落ちる。
ガイアは本能で悟らざるを得なかった。絶対に、勝てない、と。
「だが」
レイアの氷のような視線が、グレンの背後で倒れ伏すケセナへと向けられる。
「その『泥人形』に対しては違ったと、私は記憶している。お前は一体、何がしたい?」
「……」
「リュウショウ様を殺害し、ノヴェリアの残留思念のような……そんな人形を、お前はなぜ庇う?」
ああ、と。
グレンは胸の奥で、ひっそりと短く息を吐いた。
それが、この世界に広まっている捩じ曲がった事実なのだ。
殺気を纏う今のレイアに、正面から何を言っても届かないだろう。
それでも、言わねばならない。捩じ曲げられた事実ではなく、この世界の『本当』を。
どうすれば、この怒れる無慈悲の慈愛に言葉が届くのか。
グレンは記憶の底から、親友の手腕を思い出した。そして、一つの強烈な賭けに出る。
「レイア様」
グレンは構えていた剣の切っ先をわずかに下げ、真っ直ぐにレイアを見据えて告げた。
「陛下より、ご命令がございます……」
リュウショウは、もうこの世にはいない。
この世界で今『陛下』と呼ばれるのは、玉座に座るフィサルーアだけだ。
皇太子として生きてきた――真の皇子と入れ替えられた、偽りの皇帝。
「ご命令だと?」
レイアの冷徹な顔色が変わる。
「自分が長きにわたり隠密行動を取っていたのも、すべては陛下からのご命令があったからこそ。『ファルイーアを探し出し、保護せよ』。それが、自分に下された極秘命令です」
「……なぜそれを私に言う?」
極めて真っ当な疑問だった。
グレンの背中を冷たい汗が流れる。
「これを前提として、陛下のご命令をお伝えしたかっただけでございます」
「……私が追っている大罪人は、実は陛下の庇護下にある。つまり、お前たちは私の敵ではない。そう言いたいのか」
「はい」
「……」
レイアは値踏みするようにグレンの目をじっと見据え、しばらく沈黙した。
剣呑な空気が場を支配する。
やがて彼女は、纏っていた刺すような殺気をわずかに緩め、静かに言った。
「聞こう」
グレンは安堵を悟られぬよう、慎重に言葉を選んだ。
「ファルイーアは、決して大罪人などではありません……」
「解せぬな」
即座に、レイアから氷の刃のような反論が飛ぶ。
「ではなぜ、四獣の族長たる我らに『潜伏している最大凶悪戦犯を、抹殺しろ』と命じた? それも、背けば一族を皆殺しにするという条件つきで」
「……っ」
その鋭すぎる指摘に、グレンは完全に言葉を詰まらせた。
『極秘に保護を命じている』という自分の嘘と、
『一族の命を人質にしてまで抹殺を命じている』という現実。
どう考えても辻褄が合わない。
「そ、それは……」
絶体絶命。
見事な言い訳など一つも思い浮かばず、グレンから冷や汗が噴き出した、その刻だった。
「こいつがいつまで経っても見つけらんねぇから、陛下もおかんむりだったんじゃねぇの?」
極限まで張り詰めた空気をぶち壊すように、背後からガイアの軽口が割って入った。
「ガ……っ!」
反射的に叱り飛ばしかけたグレンは、即座にその言葉を呑み込み、息を呑む。
ガイアの手が、グレンの背に置かれたのだ。
振り返るまでもなかった。震えるガイアの手から伝わる気配が、彼が滝のような冷や汗をかきながらも、不敵な笑みを貼り付けてこの方便に乗ってきたことを物語っていたからだ。
「……朱雀。お前、知っていたのか?」
レイアの視線がガイアへ向く。
ガイアは肩をすくめ、堂々と言い放った。
「俺は朱雀族長である前に、騎士団長の弟子だからな。それなりに情報は回ってくる。それに、俺のところにもその『一族の命と引き換えの命令書』は届いてる。だからこそ、俺はここにいるんだよ」
軽口ばかり叩いていても、ガイアもまた四獣の一角を担う朱雀族長だ。
彼が族長としての立場で裏付けたことで、グレンの苦し紛れの嘘に一気に説得力が生まれる。
「ふむ。……道理で」
レイアが顎に手を当て、何事かを納得したように頷いた。
正直、グレンには彼女が何をどう納得したのか分からなかったが、これ以上追及される前に、勝機とばかりに一気に畳み掛ける。
「という訳です。これは現段階において、陛下と、ツェヴァン様、そして自分とガイア族長しか知らぬ極秘事項でございます……」
「……何? 青龍も知っておるのか」
「はい」
そう言い切り、グレンは身体から強張った力が抜けていくのを感じた。
レイアが「知らぬのは私だけか……」と何やら呟いているが、もう待てない。
偽りの刻は、これで終わりだ。
ここから先は、正真正銘の真実だけを語ればいい。
グレンは深く息を吸い込み、レイアへ向けて、この世界の本当の姿を語り始めた。
静寂に包まれた屋敷の中で、グレンの低く重い声だけが響く。
「玉座に座り、四獣を顎で使っている現皇帝フィサルーア。あれこそが、皇妃ノヴェリアの禁呪によって真の皇子と入れ替えられた、偽りの皇太子です」
「馬鹿な……」
レイアの口から、氷のように冷たい声が漏れた。
「ならば、リュウショウ様を暗殺したというあの大罪人は。私が先ほどまで刃を交えていた、あの底知れぬ化け物は一体何だと言うのだ」
『無慈悲の慈愛』。
その二つ名の通り、彼女は主君を害した化け物に対して一切の容赦を持たない。
その確信こそが、彼女の強さそのものだった。
だが、グレンは悲痛な面持ちで首を横に振る。
「目をお覚ましください、レイア様。貴女ほどの慧眼が、なぜ気づかないのですか」
「何を……」
「今、貴女の目の前で血の海に沈んでいるその子供こそが。貴女が心から忠誠を誓った主君、リュウショウ様の正真正銘の『遺児』です」
「――っ!」
その瞬間、レイア・ファンサルの纏っていた絶対的な殺気が、音を立てて罅割れた。
息を呑み、目を見開く。
あり得ない。そんなはずはない。
あれは先の内乱で、そのリュウショウに使い捨ての駒のように扱われていたはずだ。
感情も痛覚も失い、戦いの真ん中に放り込まれた殺戮兵器だった姿をよく覚えている。
(それが『遺児』だと……?)
だが、彼女の明晰すぎる頭脳は、グレンの言葉を裏付ける事実を次々と弾き出してしまう。
なぜ現皇帝は、四獣の一族の命を人質にしてまで、この青年を異常なほど排除しようとしたのか。
なぜこの青年は、『精霊捕縛』という絶対の拘束を、己の四肢の肉を削ぎ落としてまで、内側から強引に破壊できたのか。
(もし、本当に。この人形が、リュウショウ様の血を引く、真の……?)
そうだとしたら、自分は一体何ということをしてしまったのか。
敬愛してやまなかった主君の、たった一人の遺児。理不尽にすべてを奪われ、絶望の中で生き延びようと足掻いていた幼き命を。
あろうことか、自分は四肢を拘束し、無慈悲に刃を突き立ててしまったのだ。
「あ……」
レイアの喉から、今まで誰一人として聞いたことのないような、かつてなく掠れた、か細い声が漏れた。




