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第四十話 呑気にご飯食べないで

 中継要塞都市ジェグヌの入り組んだ路地を、グレンはただ一人、あてもなく彷徨っていた。


 ツェヴァンが塗りたくっていった『激痛秘薬』のおかげで、胸の深い斬り傷から血は止まっている。だが、それまでに流した血の量が多すぎた。傷が開かぬよう、折々、壁に手をついて歩いていたが、肉体の限界はとうに超えている。


 足取りは重い。


 何度も視界がぐらりと揺れ、意識が飛びそうになる。そのたびに、グレンは歯を食いしばり、気力だけで辛うじて踏みとどまっていた。


「どこに行ったんだ……」


 焦燥に駆られ、グレンはふらつく足を無理やり止めた。

 陽はすでに高く、わずかに傾き始めている。あれからどれほどの刻を、血眼になって街中を探し回っているのか、自分でも分からなかった。


(捕まったのか……どこかに隔離されたか?)


 最悪の想像が、鉛のように思考を重くする。


(まさか……殺された?)


 血の気が引き、嫌な汗が背中を伝った。

 いや、そんなはずはない。

 あの三人にはラルがついている。プラークルウもいる。もし評議会の兵士と戦闘になっていれば、これほど街が静かなはずがなかった。


「大丈夫だ。あいつらは生きている」


 自分に言い聞かせるように呟き、グレンは重い足を引きずって再び走り出した。

 大通りへ出ると、街は何事もなかったかのように活気づいていた。

 行き交う商人。客引きの声。笑い合う人々。そんな平和な光景を視界の端へ追いやるようにして、グレンは金髪の青年と二人の少女の姿を探し続ける。


「団長?」


 人混みの中から、聞き慣れた声が鼓膜を打った。

 弾かれたように振り返る。

 そこに立っていたのは、見覚えのある顔だった。


 数星霜を経ても精悍さを失わない、傷跡の残る顔立ち。整えられた無精髭。黒に近い深緑の髪と、鋭く理知的な赤茶色の瞳。黒を基調とした、汚れひとつない渋い仕事着。


 ――ただし。


 その首元には、目が痛くなるような鮮やかな『橙色』の首巻きが、これでもかと主張しながら巻かれていた。


 かつて応龍騎士団でグレンの右腕を務めていた元副団長。今は騎士団を辞め、この街で武器屋を営んでいる男、エンジ・メルノート。


「エンジ……」

「どうしたんですか、そんなに慌てて……って、なんですかその傷!!」


 グレンの顔を見て駆け寄ってきたエンジは、血塗れのまま裂けた黒い衣服を見て、悲鳴のような声を上げた。


「血はもう止まっている」

「そういう問題じゃありません!! 顔色も最悪じゃないですか! うちに来てください、ちゃんと手当しますから!」

「ありがたいが、今はそれどころじゃ……あ!?」


 強引に断って立ち去ろうとしたグレンの腕を、エンジがむんずと掴み、そのまま有無を言わさぬ力で引っ張った。


(そうだった……。こいつ、極端なまでに心配性だった……)


 抵抗するだけの気力も体力も残っていないグレンは、ずるずると引きずられながら、元副団長の厄介な性質を胸中でぼやいた。


 ------


 大通りから少し外れた場所にあるエンジの武器屋へ連行されたグレンは、店舗の奥にある私室の寝台へ強制的に座らされていた。


「絶対に動かないでくださいよ! 今、薬箱と着替えを持ってきますからね!」


 怒涛の勢いで捲し立て、エンジが店の奥へ引っ込んでいく。

 残されたグレンは、破れた衣服の隙間から覗く痛々しい傷跡を見下ろし、小さく、しかし深い溜息をついた。

 そうして、店の奥から薬箱を抱えて戻ってきたエンジによる手当は、親切心とは裏腹に容赦というものがなかった。


「ぎゃああっ! い、痛ぇっ! おいエンジ、もうちょっと手加減を……!」

「我慢してください! 色々と自分の恨みも込めてるんですから!」

「恨みってなんだ!!」

「教えません!」


 傷口を乱暴に消毒され、あのツェヴァンが塗りたくった秘薬を凌駕しかねない激痛に、歴戦の猛者であるはずのグレンが情けない悲鳴を上げる。


「はい。終わりました」


 最後にきつく真新しい包帯を巻き上げ、エンジはふうと額の汗を拭った。


「すまないな」


 息も絶え絶えになりながらグレンが礼を言うと、エンジは薬箱を片付けながら鋭い視線を向けてきた。


「それで? 一体、どうしたんですか、この傷は」

「ちょっと、な……」

「またそうやって誤魔化す。悪い癖ですよ、団長っ!」


 エンジが容赦なく包帯の上から胸を叩き、グレンは痛みに身をよじる。


「いっ……!」

「ひどい怪我で戻ってきたってことは、見つからなかったんですか? リュウショウ陛下を殺した、あの人形は」


 グレンの肩が跳ねた。

 握り締めた拳に、知らず力がこもる。

 エンジに悪意はない。世間の認識がそうである以上、当然の言葉だった。

 だが、悪意がないからこそ逃げ場がなかった。

 真実を知った今のグレンにとって、その一言は自分の罪よりも深く胸を抉った。


「っ……。ああ、まぁ、な」


 反射的に湧き上がった怒りと後悔を無理やり呑み込み、グレンは視線を逸らしながら歯切れ悪く答えた。いそいそとエンジの持ってきた着替えに袖を通す。

 今までグレンが着ていた黒い騎士団服とは似ても似つかない、鮮やかな黄色の長衣だった。


(趣味悪いな……)


 内心で嫌悪しつつも、大人しく袖を通す。そんなグレンの複雑な胸中など知る由もないエンジは、はぁ、と呆れたような大きな溜息をついた。


「まったく……団長は陛下のことになると周りが見えなくなるんですから。少しは振り回される部下の身にもなってくださいよ。いきなり団長が消えたせいで騎士団は大騒ぎで、わざわざ自分のところにまで団員たちが詰めかけてきて……本当に商売の邪魔でしたよ」

「悪かったよ」


 今でも慕ってくれている部下たちの慌てふためく姿を想像し、グレンは申し訳なさと愛しさの混じった苦笑いを浮かべた。


 しばらくグレンの顔を見つめていたエンジだったが、やがて諦めたように立ち上がる。


「その様子じゃ、昼餉もまだなんでしょう? 食べていきます?」

「いや……」

「というか、食べてけ」

「おい……」


 断る選択肢を最初から用意していない元部下の強引さに、グレンは半眼で呻く。


「分かったよ……。いただく」


 完全に気圧されたグレンは渋々頷き、この昼巡りで初めての温かい食事にありつくことになった。

 エンジが炊事場へ向かい、さほど待つこともなく戻ってくる。


「お待たせしました」


 運ばれてきた盆を見て、グレンは思わず目を丸くした。

 湯気を立てる滋味深い香りの汁物。消化に良さそうな温かい粥。彩り鮮やかな副菜。どう考えても数十息で用意できる品数ではない。


「お前……昔から女っ気がなかったはずだが、見ない間に結婚でもしたのか?」


 揶揄うように尋ねると、エンジは呆れたように大きな溜息をついた。


「まさか。自分が女にモテないの、知ってるでしょう」


 自嘲気味に笑うエンジ。

 騎士団にいた頃から、彼はあまりにも心配性だった。部下の体調管理から応急処置、身だしなみの乱れまで徹底的に世話を焼く。寄ってきた女たちが「私より家事が完璧で息が詰まる」と逃げ出していくのも、ある意味当然だった。


「いただきます……」


 そんな変わらない優しさに感謝しつつ、グレンが木匙を手に取って温かい粥を一口運ぼうとした。


 その刻だった。


 二度の凄まじい轟音が、連続して響き渡った。

 店舗の入口の木扉が外から暴風に吹き飛ばされ、その風圧は一直線に店内を貫き、私室を隔てる分厚い木扉までも蝶番ごとへし折って床へ叩きつけたのだ。


「なっ!?」

「敵か!?」


 舞い上がる土煙の中、グレンとエンジが身構える。

 へし折られた扉の向こうに立っていたのは――全身に荒れ狂う風を纏い、凍りつくほど険しい目でグレンを睨みつける、赤みがかった金髪に紫の瞳の小柄な少女だった。


「ラル!?」


 あれだけ探し回っても見つからなかった弟子の姿に、グレンが驚愕に目を見開く。

 ラルはずかずかと部屋へ踏み込み、木匙を持ったまま呆然と固まる黄色い長衣姿のグレンに向かって、氷点下の声で言い放った。


「呑気に! ご飯! 食べないで!!」


 理不尽極まりない怒声が私室に響き渡る中、エンジは「俺の家の木扉がぁぁぁっ!?」と頭を抱えて悲鳴を上げていた。

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