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第三十七話 方向知らず

「五千星霜って……長過ぎるだろっ」


 肩で激しく息を切らしながら、ケセナは思わず愚痴をこぼした。

 オウセイの記憶に残っていた道がない。代わりに、見覚えのない建物ばかりが立ち並んでいる。街の変貌は、あまりにも激しかった。

 いや、五千星霜も経てば、地形ごと変わっていてもおかしくはない。だが、頼りにしていた記憶の地図がまるで役に立たないのは致命的だった。


「ねぇ、これ迷ったの?」


 背後を走るラルの冷ややかな声に、先頭のケセナは反射的に言い返す。


「違……っ、街が変わり過ぎてて……!」

「それを、世間では道に迷ったと言うんじゃありませんか?」

「プラウまで言う!?」


 ラルの隣で走るプラークルウの呆れた声が飛び込んできて、ケセナは泣きそうになった。


 斯くして。

 彼らは命懸けの逃走劇の最中に、見事に道を見失っていた。


(でも、立ち止まれない……!)


 いつ追手に見つかるか分からない。自分たちを逃がすため、グレンは命を懸けてツェヴァンと対峙している。だからこそ、無駄死にだけはできなかった。

 焦燥に背を押され、さらに足を速めようとした、その刻だった。

 ケセナの足が縺れた。


「っ」


 石畳へ無様に転がり込む。

 立ち上がろうと手を突くが、視界が白く濁り、身体に力が入らない。


(反動だ……)


 戦場では、何度も味わった。

 魔力を吐き出したあとの虚脱。骨の奥を削るような痛み。呼吸をするだけで、身体の内側が軋む感覚。

 あの頃は表情を殺せた。

 誰にも悟られないよう、何も感じていない顔で立っていられた。


 けれど今は、無理だった。

 痛みも、恐怖も、情けなさも、全部が身体に出てしまう。

 人間に戻ったはずの心が、こんなにも足を引っ張る。


(自滅して転がるなんて……っ!)


 歪む視界を取り戻そうと頭を振る。だが、身体の芯を侵す震えは止まらなかった。


「ケセナ!」


 ラルが血相を変えて駆け寄る。

 抱き起こそうと手を伸ばし――その指先は、直前でぴたりと止まった。

 触れてはいけない。その残酷な制約の前に、ラルは唇を強く噛み、宙を切った手を握り締めるしかなかった。


「ごめん……。数十息も休めば……動けるように、なる……から……」


 ケセナは這うようにして裏路地のさらに奥へと身を引きずった。

 陽の当たらない陰へ辿り着くと、壁に寄りかかってぐったりと目を閉じる。


(グレンさんが命懸けで戦っているのに、俺は……)


 足手まといで、何もできず、挙げ句の果てに転がるだけ。

 情けなさが込み上げ、ケセナは拳に血が滲むほど握り締めた。

 プラークルウは周囲を鋭く見渡し、人の気配がないことを確かめると、ラルと共にケセナから少し離れた位置へ下がった。

 それが今の彼にできる、精一杯の気遣いだった。


「周辺に追手の反応はありません。……今のうちに休んでください、ケセナ様」


 プラークルウは腕を組み、痛ましげに主を見つめた。


「さっきの、何?」


 ラルが低く問う。


「契約なしで精霊を強制的に使役した反動です。ケセナ様は、精霊にお願いしているんじゃありません。魔人と同じように、無理やり『服従』させて力を引き出しているんです。だから、身体が耐えきれずに、ああして悲鳴を上げてしまうんです」

「……そう」


 ラルは唇を噛み、伏し目がちになった。

 今の自分にできることが、ただ見守ることだけなのだと思い知らされる。


「……って、私、何を軽々しく口にしているんですか!」


 突如、プラークルウが両手で頭を抱え、顔を真っ赤にして悶えだした。


「勝手に説明したくせに」

「んもぅ! つい、いつもの癖で! 私の馬鹿!」


 それから十息ほどが過ぎた。

 物陰で蹲っていたケセナは、ゆっくりと立ち上がる。

 まだ身体は鉛のように重い。だが動ける。これなら、平気な顔くらいは作れる。


(感情を殺せ。痛みを切り離せ。――あの頃みたいに)


 冷たい暗示を自分にかけて、表情を消し、ケセナはラルたちの待つ場所へ歩き出した。


「お待たせ……」

「遅いです」

「……う」


 作ったはずの冷たい仮面は、プラークルウの容赦ない一言にあっけなく崩れ、ケセナは苦笑いを浮かべる。


「大丈夫?」


 ラルが気遣わしげに覗き込む。


「うん、ありがとう。もう大丈夫。それより、ここの位置が――」

「ここにいたのかよ」


 頭上から低い声が降ってきた。

 三人の肩がびくりと跳ねる。ケセナは咄嗟に身構え、視線を上げた。


 高楼の屋根の縁に、赤い髪、朱色の瞳の、見覚えのある男が立っていた。


 その瞳に、強烈な既視感を覚える。

 けれど、すぐには安心できなかった。目の前にいるのは、かつて家族のように過ごした誰かであると同刻に、評議会に属する四獣の一角、『朱雀族長』でもある。


「ガイア!」


 名を呼んだ瞬間、赤髪の巨躯が躊躇なく路地へ身を躍らせた。


「ちょ、あぶ……っ!」


 二層分はあろう高さだった。

 だがガイアの身体は落下の直前、羽毛のようにふわりと減速し、ほとんど足音も立てず石畳へ降り立つ。


「んだよ。幽霊でも見たような顔しやがって」


 怪訝そうに首を傾げるガイアを見て、ケセナは思い出す。

 朱雀族は己の重力を操る。高所からの落下など、彼らにとっては取るに足らない動作なのだ。

 ケセナは改めて向き直るが、警戒心は解かなかった。


「信用できねぇよなぁ、そりゃ」


 ぽりぽりと赤い頭を掻きながら、ガイアが大きく溜息をつく。


「俺は、お前を『保護』しにきたんだよ」

「ほ、保護……?」

「……と、言いてぇところなんだがな」


 ガイアは言い難そうに顔を顰めた。


「隠れ場所を探してうろついてたら、ツェヴァンの爺さんが来るわ、先生とやり合い始めるわ、肝心のお前はいなくなるわで……」

「待って……事態が呑み込めない……」


 予想外すぎる言葉の連続に、ケセナは琥珀色の瞳を丸くした。


「フェルナリアでも言ったろ、ファル。朱雀は応龍を裏切らねぇ。少なくとも俺は、お前を売りに来たんじゃねぇよ」


 ガイアの朱色の瞳に、嘘はなかった。

 ケセナの肩から少しだけ力が抜ける。


「……で」


 ガイアが真顔になってケセナを見下ろした。


「相談なんだが、いい隠れ場所に心当たりはねぇか?」

「……え?」


 保護しにきた本人が、隠れ場所を聞いてくる。

 ケセナはぱちぱちと瞬きを繰り返し、しばらく逡巡した後、戸惑いながら口を開いた。


「ある……んだけど、その……」

「あん?」

「行こうとは思ってるんだけど……」

「おう」


 背後から、ラルとプラークルウの痛い視線が突き刺さる。

 冷たい汗が背中を伝った。


「その、ここが、どの辺りか……」

「……お前」

「道を見失ってなんていないっ! ……と、思いたい!」

「迷ってんじゃねぇか!!」


 ガイアの容赦ない怒号が、路地いっぱいに響き渡った。

 ケセナはびくっと肩を跳ねさせ、涙目で首を竦める。


「で」


 少し怒りを含んだ声が降ってくる。


「目的地はどこなんだよ」

「ぜ、絶壁にある洞窟……西側の、海に面した……」

「海側……?」


 ケセナがこくこくと勢いよく頷く。

 ガイアは天を仰ぎ、地の底から響くような声で告げた。


「正反対じゃねぇか!! この方向知らずが!!」


 ぴしり、と。

 ケセナが石像のように固まる音が、路地に虚しく響いた。

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