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第三十六話 命懸けの茶番

 ケセナたちが路地の奥へ消え、その気配が完全に遠ざかるのを感じながら、グレンは深く息を吐いた。


 胸の深い切り傷から、どくどくと血が滴り落ち、石畳を赤く濡らしていく。

 ツェヴァンの水と雷を乗せた剣は、まさしく神速だった。


 それだけではない。

 先ほどケセナが放った、火、水、土、風――四大精霊を一息に巻き込んだ暴威。

 あの戦場で『泥人形』が振るった絶望そのものを、ツェヴァンは力任せに捩じ伏せたのではない。杖に纏わせた僅かな水流で、その『核』だけを正確に断ち切ったのだ。

 力ではない。

 魔力の差でもない。

 積み上げた技量による、静かな蹂躙だった。


「可愛い教え子を痛めつける趣味はないわい」


 ツェヴァンが、余裕の笑みを浮かべながら、杖に仕込まれた刃をくるりと遊ばせる。


「なら、引いてくれませんかね、師匠」


 荒い息を吐きながらグレンが返すと、老人は「そうしたいのは山々じゃが、の!」と笑い、再び神速の剣を振り下ろしてきた。

 だが、その一撃には、先ほどまでの必殺の雷も水も纏われていない。


 鋭い刃がグレンの右頬を紙一重で掠め、二人の顔が極限まで近づいた、その瞬間。


「儂は監視されておる。悪いが付き合え、グレン」


 風に紛れた小さな声が、耳元へ滑り込んだ。


「!」


 驚愕に目を見開くグレンへ、ツェヴァンはにやりと笑いかける。


「評議会の目じゃ。儂が本気で動いておるか、見張っておる。安心せい。監視は儂についておる。『人形』にはついて行ってはおらん」


 その意味を理解した瞬間、グレンは内心で大きく安堵し、すぐに表情を引き締めた。


「派手にやるぞ、坊や」


 ツェヴァンが杖を天へ掲げると、空が不気味な低音を響かせた。


 晴れていたはずのジェグヌの空が、一瞬で分厚い漆黒の雷雲に覆い尽くされる。陽光は遮られ、昼巡りの街が深い夜巡りのように沈み込んだ。無数の紫電が蛇のように空を這い回る。


「師匠! やりすぎでは!?」

「手加減はしてやる。死ぬ気で防げ!」


 再び剣が交差した。

 そこから始まったのは、命を懸けた『茶番』だった。


 本気ではない。

 それでも、要塞都市ひとつの空を塗り替えるには十分だった。

 昼巡りの始まりの静けさは吹き飛び、住人たちが窓から顔を出し、怯えた表情で空を見上げている。


「目立ち過ぎです、師匠!」


 グレンは堪らず叫んだが、その声はツェヴァンの雷鳴にあっけなく呑み込まれた。


 だが、これでいい。


 ケセナたちが十分に遠ざかり、監視の目に『青龍族長が本気で抹殺へ動いている』と錯覚させられるなら、それでいいのだ。


 胸の傷が焼けるように痛む。

 それでもグレンは歯を食いしばり、師の連撃に応じ続けた。

 意識が遠のきそうになるたび、ツェヴァンは絶妙な剣捌きでグレンの体勢を立て直させる。見えぬ水の冷気で密かに傷口の出血を抑えながら、果てしない剣戟を演じ続けた。


 半刻ほどが過ぎた頃。


「はぁっ……はぁっ……」


 肩で息をする二人の間へ、静寂が落ちた。

 空を覆っていた雷雲が嘘のように霧散し、陽光が再び路地へ差し込む。

 怯えていた住人たちが、恐る恐る空を見上げている。建物にも人にも被害が及んでいないことを確認し、グレンは心の底から安堵した。


 その途端、限界が来た。

 グレンはその場へ片膝をつく。

 ツェヴァンは剣を杖へ戻し、空を見上げて忌々しげに呟いた。


「やっと帰ったか。纏わりつく視線が消えおったわい」


 その一言で、グレンの全身から一気に力が抜けた。


「だからって、こんな街中で……」


 ぼやくグレンを見下ろし、ツェヴァンは肩を竦める。


「じゃが、被害はなかろう?」

「街の被害は、でしょう。俺の被害は甚大ですがね」


 血塗れの胸元を恨めしげに指差すと、老人は悪びれもせず目を細めた。


「すまぬな、玄武の坊や。手荒な真似をして」

「その呼び方、いい加減にしてください。俺はもう、小さな子供ではないんですよ」

「何を言う。儂にとっては、まだまだ子供じゃ」


 楽しそうに笑うツェヴァンへ、グレンは苦々しい顔で荒い息を整える。

 誤魔化していた胸の傷が、今さらになって激しく自己主張を始めていた。


 そこへ、ツェヴァンが懐から小さな壺を取り出す。


「見せてみい」


 その壺を見た瞬間、グレンの顔からさっと血の気が引いた。

 壺の口から覗くのは、どろりとした深緑色の軟膏だ。


「ツェヴァン様、それは……」

「青龍族秘伝の外傷薬じゃ。肉の治りを無理やり引き摺り上げる」

「その“激痛秘薬”を、そんな穏やかな顔で出さないでください!!」


 本気の悲鳴を上げて這うように後退ろうとするグレンを、ツェヴァンは「黙れ、坊や」と一蹴し、壺から掬い取った得体の知れぬ軟膏を、傷口へ容赦なく塗りたくった。


「ぐぅぁぁぁぁっ!!??」


 先ほどの死闘よりよほど切実な絶叫が、裏通りへ響き渡る。

 歴戦の騎士であるはずのグレンの黒い瞳から、大粒の涙が溢れた。


「よし」


 満足げに呟き、ツェヴァンが立ち上がる。


「それにしても」


 その視線が、先ほどまでケセナが立っていた場所へ向いた。


「あれは、随分と『人』になった。何もかもが弱く、脆い。……グレン、情けをかけたか? あれは、我が君であるリュウショウ陛下の仇じゃろうて」


 その問いに、痛みに呻いていたグレンの表情がすっと冷えた。


「違ったんですよ」

「何?」


 グレンはゆっくり立ち上がり、かつての師を真っ直ぐ見返す。


「ファルイーアは、リュウショウ様を殺していない。殺したのは、フィサルーアだったんです」

「なんじゃと……?」


 ツェヴァンの顔から、完全に余裕が消えた。

 老人の足元の石畳が、無意識に漏れ出した雷の覇気だけで深い亀裂を走らせていく。

 周囲の大気が、鉛のように重くなる。


「信じられないのは分かります。ですが、俺はこの目で見ました」


 グレンは、ケセナの精神世界で見たものを、そして記憶を取り戻したケセナが語った真実を告げた。

 リュウショウの最期。

 右目に魔人を宿した皇太子。

 そして、ファルイーアが背負わされてきた、あまりにも長い濡れ衣。

 静かに聞き終えたツェヴァンは、怒りに震える拳を杖の柄へ押しつけ、重く、冷たい息を吐いた。


「色々と調べることが増えたわい……」


 ツェヴァンは杖を突き直し、グレンへ背を向ける。

 その背中は、もはや老人のものではなかった。紛れもない化け物の覇気を纏っている。


「グレン。儂はこちらで、その腐った腹の中を探ってみる。何か掴めば伝えよう」

「ありがとうございます、師匠」

「死ぬなよ、坊や」


 ツェヴァンは振り返ることなく手を振り、静かに姿を消した。


 一人残された裏通りで、グレンは大きく息を吐き、よろめくように一歩を踏み出した。

 胸の傷は、あの恐ろしい薬のおかげで完全に塞がっている。


 だが、流した血の量が多すぎた。

 踏み出した瞬間、ぐらりと視界が大きく揺れ、足元から崩れ落ちそうな激しいふらつきに襲われる。


「さて……あいつら、どこまで逃げたか……」


 無事に逃げ切れたのか。

 合流できるのか。

 ケセナたちの顔を思い浮かべ、グレンはもう一度、今度は少し呆れたように息を吐いた。


 その刻だった。


 鐘楼の屋根の辺りから、微かな気配を感じた。

 見覚えのあるような――本来なら、こんな場所にいるはずのない特異な気配。


(気のせいか……)


 グレンは小さく首を振る。

 失血で感覚まで鈍っているらしい。


 重い足を引きずりながら、グレンは喧騒の戻り始めた大通りへ歩き出した。

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