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第十七話 正統なる皇位後継者

「ファルイーア……」


 呼びかけても、暗闇に立つ金髪の少年はグレンを見なかった。

 その真紅の瞳は、もうずっと何も映していない。


 内乱を終結へと導いたあの昼夜も。

 応龍族を裏切った皇妃――彼にとっての母を、自らの手で討った瞬間でさえ。

 ファルイーアは涙ひとつ流さず、ただ虚ろな瞳で立ち尽くしているだけだった。


 感情を見せず、言葉も発しない。

 グレンが教え込んだ、最小限の呼吸だけをしている。

 これが兵器としての『ファルイーア』だ。


 けれど、グレンは知っている。


 この少年が、本当は誰よりも感情豊かで、よく笑う子供で、自分にだけは、その柔らかな感情を見せてくれていたことを。


 ファルイーアにとって、唯一心から信頼できる大人は、グレン・ラティアただ一人だった。


 しかし、そんな彼を決定的に裏切り、突き放したのは、ほかでもないグレン自身だ。

 皇帝の勅命により彼を拘束し、騎士団の士気を乱さないため、グレンはファルイーアに冷たく接するしかなかった。


 縋りつこうとした小さな指先を、無慈悲に振り払った。

 彼の小さな爪が裾を擦った微かな音を、グレンは今も忘れられない。

 部下たちの嘲笑に紛れるようにして放った、「命令するまで、俺に近づくな」という決定的な拒絶。

 あの瞬間、絶望の淵に立たされた少年の瞳から光が消え、ただの抜け殻へと成り果てたのだ。


「ファル」


 胸を締めつけるような後悔を噛み殺し、グレンはもう一度彼の名を呼んだ。

 幼かった彼を呼んでいた頃のように、優しく、柔らかに。


 ファルイーアの首が、わずかに動いた。


「……」


 何かを呟いたようだったが、声にはならなかった。

 拘束後に叩き込んだ呼吸法を、彼は今も続けている。極端に少ない呼吸は、彼から声すら奪っていた。


 グレンはそんな彼に、思わず手を伸ばした。

 昔のように、抱きしめようとして。


 だが、ファルイーアはびくりと身体を震わせて目を閉じ、自分自身を抱きしめる両腕に力を込めた。


「ファル?」


 人に触れられることを極端に怖がる――そのことを思い出し、グレンはゆっくりと伸ばしかけた手を下ろした。

 痛ましく彼の様子を見つめる。

 しばらくして、震える唇が、小さな音を生んだ。


「……僕は……自分自身を、捨てた」


 それが、久々に聞くファルイーアの『声』だった。


 掠れて、小刻みに震えるか細い声。けれどそこには、生々しい感情の揺れが確かに残っていた。

 精神世界だからこそ聞けたその声に、グレンは嬉しさよりも畏怖を覚えた。――それが、自分が彼からすべてを奪うために刷り込んだ、呪いの言葉だったからだ。

 立ち尽くすグレンに、ファルイーアが静かな死を宣告するように告げる。


「僕の、否定は無意味」


 グレンの肩がびくりと揺れる。

 その言葉も、グレンがファルイーアに言い聞かせていたものだった。

 諦めろ、と何度も、何度も。


「……僕を、知りたいのなら」


 何もない空間に浮かぶ、記憶の森へと通じる光の窓を指差し、はっきりと意志を示す彼に、グレンは息を呑んだ。

 心の中とはいえ、自我も感情も失ったはずのファルイーアが、自らの意思を口にするなど思ってもいなかったからだ。


「僕の記憶を知れば、あなたも……」


 ファルイーアは言葉を切り、ごくりと唾を飲み込んで、しっかりと顔を上げた。

 虚ろだった真紅の瞳が、鋭い光を帯びる。


「『嘘偽』と『真実』で、世界を敵に回す」

「どういうことだ?」


 だが、ファルイーアはそれ以上答えなかった。

 グレンの横をすり抜け、自ら光の窓へと向かっていく。グレンは慌ててそのあとを追った。


 光の中へ足を踏み入れると、暗闇は消え去り、凄惨な記憶の断片が次々と浮かんでは消えた。


 仄暗い地下室。

 冷たい巨大な石台。

 そして、蠢く黒い影。


 それらが一瞬にして通り過ぎるたび、隣を歩く現在のファルイーアが苦痛に満ちた表情で目を逸らす。

 精神世界だからこそ、傷の深さが隠しきれずに漏れ出している。

 だがグレンには、それが何を意味する記憶なのか分からなかった。


 やがて、目まぐるしく変わっていた景色がぴたりと止まり、荘厳で鬱蒼とした森の中へ辿り着く。


 見覚えのある小さな家が見えてくると、傍らのファルイーアが足を止めた。


「……オウセイ」


 庭に寝転び、空を仰いでいる蒼髪の男――オウセイの姿を見つけ、彼がぽつりと呟く。


 その直後。

 グレンとファルイーアの背後から、一人の人物が血相を変えて走り抜けた。


「うわっ!」


 ぶつかるはずがないと分かっていても、グレンは思わず身を捩った。今見ているのは過去の記憶であり、彼らにこちらの姿は見えていないし、触れることもできない。


「オウセイ様っ!」


 グレンたちをすり抜けたのはキリエだった。長い黒髪を揺らしながら、必死の形相でオウセイのもとへ駆け寄る。


「無事か?」


 オウセイが跳ね起きる。


「意識は朦朧としておりますが、なんとか命は」


 キリエが腕の中の者を抱え直した瞬間、金色の髪が風に流れた。

 グレンは息を呑む。


 キリエに抱かれているのは、十七星霜齢のファルイーアだった。左肩を無惨に貫かれ、夥しい血を流して虫の息となっている。


(何があった……? 誰が、これほどまでの傷を――)


 絶句するグレンを置き去りに、過去の記憶は容赦なく進んでいく。


「そうか。おい、聞こえるか?」


 オウセイが優しく呼びかける。グレンたちの位置からは、抱えられたファルイーアの表情までは見えない。だが、微かな反応があったのか、オウセイは顔を上げ、切迫した声で指示を出した。


「すぐに部屋へ運べ。また俺の魂を繋ぐ。急げ、このままでは本当に命が尽きるぞ」

「はい!」


 キリエはファルイーアを抱いたまま、家の中へ駆け込んでいった。

 オウセイもまた、何かの覚悟を決めたような重い足取りで、そのあとに続く。


 そこで、ぷつりと記憶が途切れた。


 周囲が再び漆黒の闇へ戻る。

 グレンは思わず辺りを見回したが、隣に立つファルイーアは沈黙していた。


「どういうことだ」

「内乱後、死にかけた僕を、オウセイとキリエが……助けてくれた」

「死にかけた……?」

「……」


 グレンの問いには答えず、ファルイーアは再び暗闇の中を一直線に歩き出す。

 その足取りには、一切の迷いがなかった。


 グレンは確信した。

 これから目にする記憶こそが、ファルイーアの心に最も深く刻み込まれた出来事なのだと。


 人の記憶には濃淡がある。強烈な出来事ほど、この精神世界では巨大な存在感を持つ。

 だが――ファルイーアの横顔は、苦痛に歪んでいた。

 誰よりも自分自身が、その過去を見たくないのだ。

 世界を敵に回すような、知られてはならない『嘘偽』が、そこにあるから。


 突然、目の前の視界が開け、そこは見覚えのある部屋だった。

 皇宮の最奥、『祈りの間』の隣にある控え室。

 そして、ある人物の姿が飛び込んできた。グレンは思わずその名を叫ぶ。


「リュウショウ……っ!」


 整った金髪に、真紅の瞳。

 応龍族の頂点であり、皇帝その人。

 リュウショウ・ク・フェスカ。

 グレンが生涯を懸けて守ると誓った無二の親友が、生きた姿でそこに立っていた。


 思わず駆け寄ろうとするグレンに対し、リュウショウが口を開く。


「呼び出してすまなかったな、二人とも」


 見えているはずがないのに、まるで自分に話しかけられたような気がして、グレンの顔が綻ぶ。

 だが、背後から聞こえた別の声に、現実へ引き戻された。


「本当ですよ、父上。一体何事ですか。しかも、こんな泥人形まで呼んでいるなんて」


 振り返れば、そこにはリュウショウの息子である皇太子と、記憶の中のファルイーアが並んで立っていた。


「フィサルーア様……」


 斜に構えた態度の皇太子――フィサルーア・ク・フェスカ。

 金髪紅瞳の正統な直系応龍族。だが彼は、右目を眼帯で隠していた。その下に灰色の、何も映さない瞳があることを、グレンは知っている。


 フィサルーアは、足元を這う毒虫でも見るように鼻先を歪め、一歩下がった。

 金の前髪に隠れた眼帯の下から、どろりとした殺意が漏れ出している。彼にとってファルイーアの存在は、自らの高潔な血を汚す、生理的な不浄でしかなかった。

 だからこそ、こうして二人が並んで立っていること自体が異様だった。


「大事な話があるからだよ。二人にね」

「私はともかく、この人形にもですか?」

「フィア」


 冷たく吐き捨てるフィサルーアを、リュウショウが低く咎めた。

 フィサルーアは不満げに眉を顰め、顔を背ける。

 一方、記憶の中のファルイーアは微動だにせず、ただ俯いたまま立っていた。


「フィア。ファルイーア。これから先、世界は大きく動く。我ら応龍は世界との関わりを失い、皇族、皇帝という座も失うだろう。私が評議会の設立を提案し、自ら皇帝の地位を退く決断をしたのは、そういった理由からだ」

「私は納得できません!」


 顔を背けていたフィサルーアが、目を吊り上げて激昂した。


「フィア。無理にでも納得するしかない。この戦いによって、我らが代々守護してきた結界は永遠に失われた」

「そんなの関係ないじゃないですか! 父上は皇帝であり、我ら応龍は、この地の支配者たる一族ですよ!」

「いいや。私をはじめ、応龍族はただ、世界を守る力に縛られていただけに過ぎない。フィア、お前も。そして……お前もだ、ファルイーア」

「……」


 その言葉に、記憶の中のファルイーアがゆっくりと顔を上げた。

 だが、すぐにまた視線を落とす。無表情のままではあったが、リュウショウはその微かな反応を見逃さず、了承の合図だと受け取った。


 しかし、フィサルーアの怒りは収まらない。


「待ってください! 私やほかの純血の応龍族が、その運命を受け入れるのは理解しましょう。しかし、この人形は応龍ではありません! どうしてこいつまで、我らと同じ運命を語られるのですか!」


 強い憎悪と侮蔑を込めて反発するフィサルーア。

 リュウショウは静かに目を閉じ、そして、信じがたい言葉を口にした。


「フィサルーア。よく聞きなさい。お前の『影』であるその人形は……ファルイーアは……正統なる皇位後継者なんだよ」


 室内の空気さえ動きを止め、静寂が鼓膜を破らんばかりに重くのしかかる。

 リュウショウの放った一言は、世界の秩序そのものを覆す一撃として、その場に突き刺さった。


 フィサルーアのみならず、それを聞かされた記憶の中のファルイーアでさえ、虚ろだった瞳をわずかに見開き、彫像のように硬直している。


「正統な、皇位後継者……?」


 グレンの呆然とした呟きが、沈黙の世界に空しく響く。


 その横で。

 傍らに立つファルイーアは、顔を歪め、喉から声にならない嗚咽を漏らした。

 自分の存在そのものを拒絶するように、爪が食い込むほど強く両耳を塞ぐ。


 その震える指先は、記憶という濁流に呑まれ、今にも壊れてしまいそうなほど細く、儚かった。

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