【幕間】玉座の外の罪人・前編
目を開けた瞬間、フィサルーアは自分が死んでいないことを理解した。
白い天蓋。
鼻を掠める薬草の匂い。
窓の外では、昼巡りの終わりを告げる淡い光が、オーレルディアの白い石壁を静かに染めている。
見知らぬ寝台だった。
いや、正確には見知らぬ場所ではない。
ここは皇都に設けられた白虎族の別邸だ。玉座の間から連れ出されたあと、己の身柄がこの場所へ運ばれたことだけは、ぼんやりと残る記憶の底にあった。
けれど、なぜ。
(……なぜ、私は生きている)
右目の眼帯に、震える指先で触れる。
そこにあったはずの魔人の気配は、綺麗に消え失せていた。
胸の奥にまとわりつき、囁き、怒り、憎しみを焚きつけていた不快な熱もない。
静かだった。
あまりにも静かすぎて、怖い。
胸の奥が、空っぽだった。
何かが足りない。
怒りを煽る熱がない。
耳元で憎しみを囁く声がない。
誰かを傷つけろと、血を求める衝動がない。
それなのに、身体の内側だけが、それを寄越せと喚いていた。
怒れ。
憎め。
さもなければ、お前は何もできない。
胸を掻きむしりたくなるほどの焦りが込み上げる。
けれど、何度右目の奥へ意識を向けても、返るものはなかった。
あれほど憎んでいたはずの沈黙が。
今は、自分を見捨てたように思えた。
あの力を失えば、自分は動かぬ泥人形へ戻るはずだった。
玉座に座る資格などない。
生きる理由もない。
それなのに、痛い。
胸も、背も、腕も、脚も。
身体の隅々まで、鈍く重い痛みが残っている。
死者に痛みはない。
「お目覚めですか、フィサルーア様」
扉が音もなく開き、初老の男が湯気の立つ器を盆へ載せて入ってきた。
隙のない燕尾服。
丁寧に整えられた髪。
どこまでも穏やかな微笑み。
白虎族長レイアの伴侶、マジョルド。
その顔を見た途端、フィサルーアは反射的に身体を起こそうとした。
「っ……!」
だが、腹筋に力を入れた瞬間、全身を裂くような痛みが走る。
息が詰まり、視界が大きく揺れた。
「おやおや。まだ早うございます」
倒れ込む身体を、マジョルドが慌てる様子もなく支えた。
その手つきはひどく丁寧だった。
だからこそ、フィサルーアは苛立ったように眉を寄せる。
「……触るな」
「承知いたしました」
マジョルドは即座に手を離した。
それでも、倒れぬよう寝台のすぐ傍へ控えたままだ。
「では、触れずに申し上げます。今は無理をなさらぬ方がよろしいかと」
「なぜ治療した」
「治療せよと命じられましたので」
「誰に」
「レイア様と、グレン様。そして」
そこでマジョルドは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「ファルイーア様に」
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
ファルイーア。
自分が殺そうとした相手。
自分が偽物と罵り、奪われた人生の象徴として憎み抜いた存在。
それでも最後に、自分へ「生きられる」と告げた男。
「……あの男は」
「魔力が枯渇しております。命に別状はありませんが、未だ寝台から起き上がれぬ状態です」
マジョルドの静かな声が、容赦なく胸へ落ちた。
あの男は、どれほどの魔力を使い果たしたのか。
世界を救い、自分を救い、それでいて本人は寝台から出られない。
「そうですか」
それだけを言うのが、精一杯だった。
マジョルドは薬湯の器を卓へ置き、穏やかに頭を下げる。
「飲まれますか」
「いらない」
「では、後ほど温め直して参ります」
「聞いていないのですか。いらないと言った」
「ええ。ですので、後ほど改めてお尋ねいたします」
にこやかに言い切られ、フィサルーアは一瞬だけ言葉を失った。
そこへ、廊下から硬い足音が近づいてくる。
「起きたか、泥人形」
扉を開けるなり、レイアは腕を組んで寝台の上のフィサルーアを見下ろした。
その瞳に、慰めも憐れみもない。
「どうせ死に損なうなら、さっさと立て」
「……随分と乱暴な見舞いですね」
「見舞いではない。治療だ」
レイアは寝台の傍まで歩み寄ると、薄く目を細めた。
「お前は三夜眠った。魔人に依存していた身体が、ようやく己の力だけで動こうとしている。痛みはある。だが、立てぬほどではない」
「私が立ったところで、何になる」
「知らん」
きっぱりと言われた。
「何になるかは、これからお前が決めろ。死にたいなら勝手に死ねと言いたいところだが、グレンが許さん。ファルイーアも許さん。ならば、せめて生きるくらいは自分で選べ」
静かな部屋に、言葉だけが残った。
生きるくらいは、自分で選べ。
そんなことを言われたのは、初めてだった。
「……立てと言うのなら、立ちます」
フィサルーアは寝台の縁へ手をついた。
腕に力を入れる。
震える。
情けないほど、指先が震える。
それでも、足を床へ下ろした。
白い石床に足裏が触れた瞬間。
視界が反転した。
別邸の床が、血に濡れた祈りの間の控え室の白へ変わる。
鼻を刺す鉄の臭い。
伸ばされた手。
自分の名を呼ぶ、掠れた声。
父上。
そう呼ぶより先に、指先へ残る感触が蘇った。
温かいものが、手の隙間から滴り落ちていく。
自分はそれを見下ろしていた。
止めなかった。
止めるどころか、もっと怒れと願っていた。
「……っ」
喉が潰れたように息が詰まる。
違う。
ここはあの控え室ではない。
床に血はない。
父上も、ここにはいない。
それでも、足元の白が赤く見えた。
誰の手も借りず、フィサルーアはゆっくりと立ち上がる。
膝が笑う。
視界が揺れる。
足裏から伝わる床の冷たさが、妙に遠い。
「おや、素晴らしい」
マジョルドの穏やかな声が聞こえる。
褒められたことが気に入らず、フィサルーアは顔をしかめた。
「黙ってください」
「これは失礼を」
一歩。
踏み出した瞬間、脚から力が抜けた。
「っ……!」
崩れ落ちかけた身体を、今度はレイアが片腕で受け止めた。
「……触るな」
「貴様が勝手に倒れただけだ」
不機嫌そうに吐き捨てながらも、レイアの腕は乱暴ではなかった。
「一歩だ。三夜寝ていた者にしては悪くない」
「慰めですか」
「事実だ。白虎は、努力を見ぬふりはせん」
その言葉に、フィサルーアは何も返せなかった。
廊下の向こうで、小さな息を呑む気配がした。
扉の隙間から、侍女がこちらを見ている。
盆を抱えたまま、顔を強張らせ、動けずにいた。
目が合った瞬間、彼女はびくりと肩を跳ねさせる。
ほんの少し後ずさった。
その怯えた仕草に、かつてのフィサルーアなら苛立っていたかもしれない。
視線を逸らすな。
皇太子を恐れるな。
そんな理不尽な怒りを、きっとぶつけていた。
だが今は。
(……当然ですね)
自分が何をしてきたか、思い出せないほど愚かではない。
侍女は、かつて自分が玉座に座っていた皇宮から遣わされた者なのだろう。
皇帝を殺し、世界を戦火へ沈め、魔人の力で兵を切り捨ててきた男が目の前にいる。
恐れられて当然だ。
「下がりなさい」
フィサルーアは静かに告げた。
侍女は一瞬、命令の意味を測りかねるように目を瞬かせた。
「……聞こえませんでしたか」
「は、はい……失礼いたしました」
深く頭を下げ、侍女は急ぐように去っていく。
その背を見送りながら、フィサルーアは自嘲気味に笑った。
「便利ですね。皆、私が言えば離れていく」
「今までそうさせてきたのは、貴様だ」
レイアの言葉は容赦がなかった。
「ええ。分かっています」
答えた声は、思ったよりも静かだった。
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白虎別邸での療養は、安息とは程遠かった。
朝にはマジョルドが薬湯を持って現れ、昼巡りにはレイアが容赦なく治癒術を施す。
夕刻には、回廊を端から端まで歩かされた。
「脚が止まっているぞ、フィサルーア」
「止めているのではありません。動かないのです」
「言い訳に違いはない」
「白虎族長というものは、病人へもう少し配慮するものでは?」
「死にたいと言っていた男が、随分と口を回す」
その一言で、フィサルーアは黙った。
治療を受けるたび、身体の奥に残っていた重い淀みが少しずつ薄れていく。
失った右目が戻ることはない。
魔力がない事実も変わらない。
それでも、身体は動く。
湯を飲める。
歩ける。
窓の外を見られる。
生きている。
それが、思っていたよりも苦しかった。
あの侍女の後も、使用人たちは近づかなかった。
廊下で出くわせば、壁際へ寄って道を空ける。
フィサルーアは、それを咎めなかった。
咎める資格などない。
七夜目の夜巡り。
与えられた部屋へ戻る途中だったフィサルーアは、別邸の玄関に見覚えのある大きな影が立っていることに気づいた。
黒い髪。
黒い瞳。
その腰には、抜く必要のない剣。
グレン・ラティア。
彼はフィサルーアの姿を認めると、一度だけ視線を向けた。
そこにあったのは怒りでも、歓迎でもない。
監視する者の目だった。
「随分と回復したな」
「そちらの期待に反して、生き延びてしまいました」
「期待などしていない」
低い声で返される。
「お前を殺すか、生かすかは、俺が決めることではない。だが、生きると決めたなら、中途半端に壊れるな」
言い捨てるような言葉だった。
それでもフィサルーアは、彼がすぐに背を向けず、その場へ立ち続けていることに気づいていた。
「……兄上は」
口から零れた呼び名に、フィサルーア自身が息を止めた。
グレンの目が、わずかに細められる。
「まだ寝台の上だ」
「そうですか」
「魔力枯渇だ。治療術でどうにかなる傷とは違う。身体そのものが、長い星霜をかけて無茶を重ねてきた」
フィサルーアは、拳を握った。
兄上。
その名を呼ぶ資格があるとは思えない。
だが、他に何と呼べばいいのかも分からなかった。
「……私が立っているのに」
「比べるな」
グレンの声が、鋭く落ちる。
「お前は、あいつを測る物差しにするな」
「そのつもりは……」
「なら、なおさら口にするな」
短い沈黙が落ちた。
フィサルーアは視線を伏せる。
正論だった。
自分はまた、あの男の苦しみを都合よく使おうとしていた。
自分が立てることへの罪悪感を、兄の苦しみと比べて軽くしようとしていた。
「……失礼しました」
素直に頭を下げると、グレンはわずかに眉を寄せた。
すぐに返事はなかった。
黒い瞳が、フィサルーアではなく、暗い庭へ向けられる。
腰の剣へ置かれた指先だけが、わずかに強く柄を掴んだ。
「グレン」
「何だ」
「私に、剣を教えてください」
夜の別邸に、風が吹き抜けた。
グレンの表情が、ゆっくりと険しくなる。
「何のために」
「私は、剣を振るう者でした」
フィサルーアは真っ直ぐに、グレンを見上げた。
「ですが、あれは剣ではなかった。魔人の力に振り回され、怒りに酔い、誰かを傷つけるためだけに振り下ろした刃です。ですが、魔人に振らされたのではありません。あれへ怒りを渡し、振るえと願ったのは私です」
「だから教えろと?」
「はい」
間を置いて、フィサルーアは続けた。
「自分の手で握る剣を、もう一度知りたい。誰かを殺すためではなく、せめて……守るために振るえるのかを」
グレンはすぐに答えなかった。
しばらくして、彼は視線を戻す。
「剣を学べば、罪が軽くなると思うな」
「思っていません」
「なら、何故だ」
「軽くならない罪を、この先も抱え続けるためです」
フィサルーアは、一度だけ目を閉じた。
「死ねば終わります。出家して世を捨てれば、少しは楽になるのかもしれません。ですが、それでは……兄上に生きろと言われた意味がない」
グレンの瞳が、かすかに揺れた。
「まずは、歩けるようになれ」
それだけ言うと、グレンは背を向けた。
「三十夜後、皇宮へ身柄が移される。白虎別邸から皇宮まで、誰の手も借りずに歩けたなら」
フィサルーアは、息を詰めた。
グレンは振り返らないまま、続ける。
「木剣くらいは持たせてやる」
それは許可ではない。
けれど、拒絶でもなかった。
フィサルーアは、遠ざかる黒い背中へ深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
三十夜後。
フィサルーアは、父の血を流した皇宮へ帰る。
玉座に座る資格を失った、大罪人として。




