9 レース直前
蒼木と練児。
この2人の高校までの関係を簡潔にまとめよう。
まずは幼稚園。
お互いほとんど覚えていない。一緒に遊んだこともない。以上。
次に小学校。
蒼木は野球部に、練児はサッカー部に入部する。2度ほど同じクラスになったことをきっかけに数回話したこともあったが、仲が親密になることも無かった。
ちなみに小学5年の時、蒼木を大きく変えた事件が起きたのだったが、今は特に関係ないのでここでは説明しない。
最後に中学校。
2人とも小学校と同じ部活を続ける。特に接点は増えない。しかしこの頃になると、蒼木は『キレたらヤバいクソ真面目な変人』、練児は『イケメン自己中問題児』としての地位(?)を確立していたため、お互いに何となく相手の人間性を悟る。
要するに。これまでの2人は知り合い以上友達未満な関係だった。
そして今まで全く触れなかったが、これまでの2人の陸上に関する力関係について。
率直に言ってしまえば、蒼木が上で練児が下だった。だった、という表現から察っすることができるように、それは少し前までの話である。
中学2年の夏、学内から選抜されて集められた駅伝の練習にて、練児は蒼木に初勝利を挙げる。学内で長距離最速の男だった蒼木は、それ以来1度も練児に勝つことが出来なかった。
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(よーするに蒼木、てめーの時代は終わったんだよ!)
約30分後に控えたレースに向けてストレッチをしている蒼木を、練児は不敵な笑みを浮かべながら見ていた。昨日からずっと強気な発言をしていたのは、中学時代後半から勝ち続けている相手に今さら負けるわけがないという自信からだった。
(あとは、イマイチ気に食わねー御門のヤローだが……まあ大丈夫だろ)
そして御門も大した敵ではないと結論付けた。見た目がガリガリで弱そうだから、という理由からである。それにもし御門が実力者ならば、昨日のシン先生の言葉にすぐさま食いつくはずだと練児は思っている。力がある人間はそれを披露し、周りにちやほやされたがるはず。練児の辞書に『能ある鷹は爪を隠す』ということわざは載っていないのである。
(だからこのレース、俺がもらった!)
曖昧な根拠を独自の理論によって自信に変え、練児は意気揚々とウォーミングアップを開始した。
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なぜ練児はあんなにも自信満々なのか、彼の過去を微塵も知らない御門には全く分からなかった。規格外の走力を持っているのか、それとも単に楽観的なバカなのか。彼には見当もつかなかった。
しかし、そんな御門でも1つだけハッキリと分かっていることがある。
(このRaceで奴が1位になったら、ますます調子に乗る。絶対、確実に)
ただでさえ練児は自己中心的で横暴で強情なのだ。そんな奴が自分たちの中で1番速いと知ったならば。
(よりselfishでoppressiveでobstinateなクソ野郎なる! それだけは阻止しないと!)
とはいえ、御門は人道に反することをするような人間ではない。練児に怪我をさせて走れなくしたり、レース中に妨害行為をしたりしてまで勝とうとするほど人として腐っていないと自負している。まあ、後者は方法次第では戦術の1つとみなすこともできるが。
だがそうなると、練児の暴挙を止めるには蒼木か御門が勝つしか方法はない。
(……今、心配するべきことは勝てるかどうかってことじゃない。考えたところで無駄だから。それよりも――)
先程からウキウキした気分を抑えきれないのか、若干ニヤニヤしている蒼木。そんな彼を見て、御門は不安に思う。
(――蒼木は、練児が勝ってしまうことの意味を分かってるのかな?)
自分の事よりも他の2人の事が気掛かりになって仕方ない御門であった。
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純粋にレースを楽しむ。
蒼木はそれしか考えていなかった。より正確に言えば、それしか考えないようにしていた。
波座中学校長距離最速の地位を自分から奪った男、白崎練児。実力が全くの未知数なだけにある意味不気味な人物、御門正太郎。この2人を相手にすることに対する不安や緊張はもちろんある。しかし、それらの感情は勝負に良い効果をもたらすだろうか。
(否、断じて否!)
戦いにおいては、負の感情は全てシャットアウトする。そうすることで、自分が勝てるビジョンが自然と見えてくる。不安による表情の陰りは消え、緊張による筋肉の硬直は和らぐ。勝負事において、蒼木は常にこうやってメンタルを整えてきた。
今の蒼木の状態を見た人間は、口を揃えて言う。『楽しそうだ』と。
(そりゃそうだ。このレースはオレが勝つんだ、楽しくない訳がねえだろ!)
いつの間にか本当にレースを楽しみにしている自分がいることを感じ、蒼木は満足げに口元を緩めた。
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「まだはじまらないの〜?」
競技場内部、正面スタンド前にて、真弓が退屈そうに声を上げた。さながらわがままを言う子供のように。
「少しは我慢してよ、って言いたいけど……カナもそろそろ待ちくたびれてきた」
真弓はともかく、人一倍我慢強いカナでさえも弱音がこぼしていた。
「しょうがないよ、みんなのレースが先輩たちの無駄に長っっったらしい練習の後にあるんだもんねえ」
紗弥加が皮肉を込めつつ同調する。別に先輩がどうこうした、というわけではない。1年男子が勝負するという話を聞いてから、紗弥加の中はそれを楽しみに競技場に来ており、先輩の練習はあくまで前座感覚だったのだ。その前座が8000mのペース走で、思ったより時間をとられたためについストレスが溜まっていたのだ。
「……流石にその言い方はちょっと……あと、何で早紀がここに……?」
苛立つ紗弥加に軽く引きつつ、千尋は何故かこの場所でレースの始まりを待っている早紀に声を掛けた。投擲ブロック所属予定の早紀が、どうして長距離の練習を観戦するのか。純粋に疑問に思ったからだ。ちなみに他の短距離&投擲ブロック見学者は既に帰っている。
「おれか? 仕方ねえから、御門の応援でもしてやろうと思ってな」
相変わらず女子とは思えない口調で話す早紀は、中学からの友人関係である御門の走りを見届けるために競技場に残っていた。
「む、じゃあわたしはあおきをおうえんする」
早紀の発言に何故か対抗意識を燃やし、蒼木の応援をすることを宣言した真弓。いつもお菓子をくれる蒼木への恩返しのつもりなのだろうか。
「私はもちろん、みっちゃんびいきだよ!」
「……御門くん」
流れに乗じて、紗弥加と千尋も御門サイドにつくことを公表した。同郷の絆は強い。
「じゃあ、カナは練児の応援するね」
カナは練児を選んだ。これといって彼に思い入れは無いのだが『誰からも応援されないのは可哀想だから』という慈悲の気持ちがカナを動かした。
「おっ、そろそろ始まるんじゃねえか?」
スタート地点へと向かう3人。その様子を見た女子たちは、これから戦いが始まることを察し、彼らの動向に注目した。
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「オレが……いない間に。勝手に話が進んでいたみたいですね」
競技場、正面スタンド内部。20代後半程度に見える若さの男性が、隣に座るシン先生に話しかけていた。その男性の様子からは物静かな印象を受けるが、人によってはその声色から暗い雰囲気を感じ取るかもしれない。
「んだどもよ、おめがあまり練習さ来れね以上、俺が決めるごどになっでもしょうがね場面もあるべ」
シン先生は、長距離ブロックのコーチであるその男性の言葉に応えた。君があまり練習に来れない以上、私が長距離のことを決めるしかない時もあるだろう、と。
「貴方の事だ……心配はしていない。しかし……一応、私が長距離ブロックの責任者です。私の面子も……考えて欲しい」
その男性はシン先生を信用しているようだが、長距離のことまで口出しをされるのはあまり良く思っていなかった。
そして今回の一件。新人長距離男子の対決を、短距離ブロックのコーチであるシン先生の独断で決定したこと。こうも勝手に物事を決められては、コーチとしての立場がない。
「ま、細けえごどは気にしねでよ。とりあえずはあえだの走りでも見ようでねが」
が、シン先生の方はあまり重大には思っていない様子だ。干渉されたくないのならば、長距離コーチの男性が毎回の練習を見ることが出来ればいいだけの話なのだから。仕事の都合とはいえ、不在になるときが多い以上は今回のようなことも覚悟して欲しいと考えている。
「そう……ですね」
男性もあまり堂々と文句を言えた身分ではないことを自覚しているので、ひとまず議論は中断して新人たちの走りに期待することにした。
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「よし、全員いるね」
スタート地点に蒼木・練児・御門の3人が集まったことを確認したマネージャーの実穂は、手を高く振りフィニッシュ地点に立っている2年生マネージャーたちに合図を送る。彼女たちから準備OKのサインが送り返されてきたことを確認し、実穂は対決を控えた選手たちへと向き直る。
「じゃあ、スタートするよ。準備はいい?」
御門は「はい」と緊張した面持ちで答えるが、「バッチリっす」と話す練児からはどこか余裕を感じる。蒼木は不敵な笑みを浮かべたまま、無言で頷いた。
各々の動作によってレース参加者の準備が完了していることは伝わってきたが、実穂には1つだけ気ががりな部分があった。
(誰も気にしてないみたいだけど、蒼木は手袋をつけたまま走るんだ)
蒼木が常に左手にだけ着けている手袋。たとえレースの時も、それは外されることは無かった。実穂は何か理由があるのだろうかと思ったが、今はマネージャーとしての仕事に専念するべきと思い直した。
実穂は軽く咳払いをし、1度大きく深呼吸をする。
「位置について」
内側から練児・御門・蒼木の順にスタートラインに並び、それぞれが姿勢を低くする。合図と共に直ぐに飛び出せるよう、3人は感覚を研ぎ澄ます。
一瞬、沈黙。
静寂を破り競技場に号砲が鳴り渡ったその時、レースは始まった。




