3 一陣の風
「今から中に入るけど、そのときに『お願いします』って挨拶してね。陸上部としての決まり、というよりは、競技場を使わせてもらっていることへの礼儀、的な意味でね」
「感謝の気持ちは大事だからね」
実穂と、おしとやかな二年生マネージャーから説明を受けた後に、一行は正面玄関の中へと入った。もちろん言われた通りに挨拶をしながら。
正面玄関の中のスペースは、正面スタンドの真下に位置しており、大会などでは本部として使われることがほとんどだ。本部の中からは、窓越しにトラックの中の様子を見ることが出来る。今は鳳嶺高校の陸上部以外に競技場の使用者はいないため、部員たちが本部を荷物置き場やストレッチをするためのスペースとして使用していた。
「お、やっど来たが。おせど」
お、やっと来たか。遅いぞ。訛り全開の口調で、白髪の老人はマネージャーに話しかけた。その老年の男性は、60歳はゆうに越えていそうな風貌、どこか威厳のある風格をしていた。
「ごめんなさい、見学者の案内をしてまして」
「ほお! へば、こえだが見学者が。ま、ゆっくり見でげ」
ほお! じゃあ、こいつらが見学者か。ま、ゆっくり見ていけ。実穂の言葉を受け白髪の男性はそう言い残し、中央に置いてあった椅子へと歩いていった。
「彼はコーチのシン先生。名前はシンじゃないんだけど、親しみを込めてみんなからそう呼ばれてる。短距離を専門に教えてるけど、その気になれば全種目の指導も出来るみたい」
「ちなみにシン先生の名前は?」
実穂が見学者に向けて、先程の男性の紹介をし、なんとなく本名が気になった御門が質問する。
「『疑心暗鬼』の『心』で『こころ』って読むんだよ。いぇい」
「なぜあえてその例えを選んだのっ?」
二年生マネージャーが独特のチームワークで説明の補足をした。
そのとき、左右に1つづつある、本部とトラックをつなぐ扉のうちの右側一方が開き、一人の男子部員が本部の中に顔を覗かせた。短めの髪がツンツンに立っているためか、チャラチャラした雰囲気を醸し出している。
「マネ〜。そろそろ200やっから、タイム計ってくんね〜?」
「分かりましたキャプテン! 今行きます! いぇい!」
「よろしく〜」
「いぇい」のマネージャーが先程の男子部員――曰くキャプテン――の声にいち早く反応し、バインダーとストップウォッチをもってトラックへと出ていった。
「キャプテン……怖くなさそーだな」
「怒ると怖いかもしれねえぜ? 知らんけど」
「ハハ、大丈夫。ケイタはそもそも怒んないから。威厳の欠片もない、締まりの無いしゃべり方してるけど、東北大会に出るほどの実力者だよ」
早紀の発言を聞いた実穂が、その可能性を否定し、キャプテンであるケイタの簡単な説明をした。
「東北大会、ですか」
「いまいちピンとこねーっす」
先にインターハイに出場したという和成の話を聞てしまったせいで、5人には東北大会出場という実績が霞んで見えてしまった。
何より練児は、スポーツは違えど全国の舞台を経験している。そんな彼には、東北大会出場は特別なことには思えなかった。
「いやいや、東北出場だって十分凄いんだよ? こう言っちゃなんだけど、うちの選手はほとんど、全県の予選で終わっちゃうし」
「実際にやってみたら実感すると思うよ」
「今日は見学だから実感とまではいかなくても、とりあえず……なんか、こう……あ〜上手く言えないっ!」
「うん、じゃ、そういうことで中に行きますか! 後は私が案内するから、ゆりと梨沙子[りさこ]はここで待機!」
元気な二年生マネージャー、佐藤 梨沙子[さとう りさこ]のグダグダな発言を強引に断ち切り、実穂は見学者を引き連れてトラックへと続く扉へ向けて歩いていった。
「ううっ、空回りしちゃったっ……」
「多分、言いたいことは伝わったと思うよ」
少ししゅんとした様子の梨沙子を、おしとやかな二年生マネージャー、高嶋 ゆり[たかしま ゆり]が優しく慰めた。
■■■
実穂の後ろに続き、蒼木たちはトラックへ続く扉をくぐった。一行は正面スタンド前の、トラックと同じゴム質で出来た床面の上に並んで立っている。
まだウォーミングアップの段階なのか、本格的に走ったり投げたり跳んだりしている部員は見当たらない。
「もう20分位したら、長距離が始まるよ。今日は8000mのペーランで、ペースは男子が3分40秒で、女子が4分40秒。投擲は、じきにあの辺で投げ始めるよ」
長距離の練習メニューの説明を受けた見学者陣であったが、誰一人としてその程度を理解できる者は居なかった。投擲に関しては詳細な説明は無かったので、早紀は実穂が指で示した場所を凝視し始めた。
「因みに短距離は――」
瞬間。
目の前を『風』が駆け抜けた。
見学者にそう感じさせるほどの速度で、一人の部員が目の前を駆け抜ける。
アップをしていた長距離部員と思われる部員を眺めていた蒼木も、待ち時間長いなと思いながらボーッとしていた練児も、今日の長距離のペースを一周当たり何秒になるか暗算していた御門も、先程から跳躍選手が見当たらないことに疑問を感じていたカナも、風華[ふうか]さん早く投げないかなと思っていた早紀も、全員の目がその男子部員に釘付けになる。
「――と、見ての通り。どう? 全国レベルの走りは」
呆然とする5人。御門が思い出したように呟く。
「Oh……和成さん」
競技場の外で、梨沙子が話していた人物。その実力は、見ただけで十分に分かった。
「さすがとしか言い様がねえ」
「はえーな」
「ヤバすぎでしょ」
「……凄い」
御門以外の見学者からも、思わず感嘆の声が漏れる。素人目に見ても、彼が尋常じゃなく速いことは明らかだった。
続いて他の短距離部員が走ってきたが、あの走りを見てしまったあとでは、どの走りも印象に残らなかった。
「あ、言うの忘れてたけど」
実穂が唐突に話を切り出す。
「今年の推薦で、短距離の女子に速い子が入ったんだ。春休みのうちから、もう練習に混ざってるよ。今から走るみたい」
その言葉を受けて100mのスタート地点に目を向けると、ちょうど一人の女子部員がスタートしたところだった。彼女が走っているレーンには、ハードルが設置されている。
和成の走りを見てしまったせいか、走り自体にはそれほど速い印象は受けなかった。しかし、蒼木は彼女の走りから目が離せないでいた。
「スピード落ちねえ」
蒼木が思わず呟いてしまうほど、彼女の飛び方はスムーズだった。ハードルを飛ぶ際、飛び方が下手であればあるほど減速してしまう。逆に、上手ければ上手いほど、減速を抑えることができる。
もちろん、完全に減速しないのはまず不可能だ。その事を理解しているはずの蒼木がそんな感想を抱くほど、彼女の走りは減速の無い――綺麗な飛び方をしていた。
「……彼女、本当に同級生なんですか?」
一年生にしては規格外の走りを見せた彼女に対して、御門が信じられない表情を実穂に向ける。
「うん、そうだよ。君たちと同い年」
「思い出した!」
いきなりカナが声を張る。
「彼女、吉鷹 すみれ[よしたか すみれ]だよ。去年、中学の地区大会で大会新記録出してた。どこかで見たことあるって思ってたんだ」
「あー……そー言われると、大会ん時になんか騒いでたよーな気がするな」
「……だめだ、全く記憶にねえ。二人とも何で覚えてんの?」
中学時代にその大会に出ていた練児と蒼木の二人が、カナの言葉にそれぞれ反応する。おぼろげなからも覚えがある練児に対し、蒼木は全く思い出せないでいた。
「あ、話題をころころ変えちゃって悪いんだけどさ。一つお願いしていい?」
実穂の言葉に5人は頷く。
「知ってると思うけど、明日から正式に見学期間が始まるよね。同時に、入部届けの受け付けも明日から始まるわけだ。そこで、君たちには勧誘を手伝って欲しいんだ。勧誘って言っても、クラスの知り合いに軽く声を掛ける程度でいいからさ。出来れば、カナみたいにまだ迷ってる子なんかを連れてきて欲しいけど……いいかな?」
既に入部の意思を固めている、カナ以外の4人が承諾する。そのあとで、カナが口を開いた。
「……カナ、決めました。陸上部に入ります」
「!?」
カナの突然の入部宣言は、周囲の人間を大いに驚かせた。
「う、嬉しいけど、いいの? まだ長距離の練習も見てないうちに決めちゃって」
「はい。なんか上手く言えないんですけど……和成さんとか、すみれの走りを見てたら、何だか入りたくなっちゃって。えへっ、カナ長距離なのに」
そう言ってカナは笑い、4人の方に向き直る。
「よろしくね、みんな」




