ナエヴィアの物語
翌日、カエリアンはイレサが出ていくのを待って、遺産に話しかけた。
(やっと話してくれた……よかった)
(お前が怯えていたのが伝わったからな。一人にするつもりはなかった。それで、あの少女のことだが……あいつは信用できない。お前がフレイムの保持者だと知っていたのが、あまりにも不自然だ……)
光る石を見る。
(そうだけど、助けに来たって言ってた。少なくとも話は聞くべきだよ)
(あれは観念体だ。あの言葉は、まず信用できない)
(観念体……? それなら、どうして消えたんだ?)
(観念体というのは、魂を物に結びつけた存在だ。外に現れるにはエネルギーが要る。だから消えたわけじゃない……石の中に入っただけだ。だが、お前には探知できない)
(観念体として転生することはできるの?)
(理屈の上ではない。観念体になるには、誰かが肉体と魂を物に結びつける必要がある。生まれつきそうなるものではない……それに、転生者だというだけで疑う理由は十分だ)
カエリアンは両手を床につき、立ち上がる。
「んー……頼まれたことはやるよ。それから判断すればいい」
扉から、白い髪に紫の目をした女が入ってくる。イレサと同じくらいの年頃で、二十三歳ほどに見えた。
カエリアンはそれを見て思う。
(あー……なんで今来るかな……)
女はカエリアンを抱き上げる。
「カエル、元気? ねえ、会いたかった?」
「ふふ、ちょっとだけ」
その瞬間、思う。
(こいつはゾラ(Zora)……イレサを除けば、ちゃんと知っている数少ない二人のうちの一人だ。診察で一、二度見かけるだけじゃなく、実際に知っている相手。時々は私の世話をしに来るし、イレサが出かけて私を一人にするときは、自分の家から誰も入ってこないよう見張っていてくれる。たまに二人でカモミール茶を飲みながら、近所の女が別の女の夫と寝たとか、そんな女同士の噂話をしている。たしか息子か娘がいるはずだけど、会ったことはないし、連れてきたこともない……だから、よくわからない)
カエリアンを床に下ろす。
「お母さんから、もう読み書きを覚え始めたって聞いたけど、本当? それとも大げさに言ってた?」
「まあ……そんな感じ。まだ勉強中だよ」
「ふふ、控えめなんだ。ところで、新しいお母さんでも探してるの? 私なら、この場所から連れ出してくれる天才児がほしいところなんだけど」
カエリアンは目をそらす。
「ありがとう……でも、その申し出は断るよ」
ゾラは頬をふくらませる。
「うう……そんなに丁寧に断られると、余計に痛いわ」
二時間ほどして、イレサが家に帰ってくる。
「ゾラ、見ててくれてありがとう。こういう根を見つけるには、もっと深く掘らないといけなかったの。カエルはどうだった?」
カエリアンの隣でテーブルに座ったまま、ゾラが答える。
「とてもよかったわ。いつも通り……ただ、ちょっと傷ついたって言わなきゃいけないけど」
籠を持って入ってきて、扉を閉める。
「当ててみるわ。私の息子をまた連れていこうとしたんでしょう?」
ゾラは笑みを浮かべて立ち上がる。
「おお、そう思われるのは心外だけど、そうよ」
「次は運がいいといいわね。絶対に無理だから」
目を細めながら扉のほうへ歩く。
「そう思ってなさい。またすぐ会いましょう」
「ふふ、ええ。今日も世話してくれてありがとう」
夜になると、野菜の煮込みに少し肉が入ったおいしいシチューを食べたあと、二人は寝台に入った。カエリアンはイレサが眠ったのを確かめてから、寝台を下り、台所のテーブルによじ登ってコップを取り、水を満たした。今度は滑って落とすこともない。
慎重に下りてズボンを探し、光る石を取り出すと、裏口から家を出た。
「やるしかない」
遺産が答える。
(あいつの言うことを全部信じるな)
石をコップの中に落とすと、数秒後、淡く光り始め、ナエヴィアの姿が目の前に現れた。最初は顔がこわばり、両膝を強く抱えている。
カエリアンは小声で言う。
「……大丈夫……?」
少し遅れて反応した。
「だ、大丈夫よ。ただ、水の中にいる感覚は……あまり好きじゃないの」
困惑した表情で尋ねる。
「どうして?」
「そ、それは……話したくないわ」
「むむ……まあ、好きにして。今度は説明してもらう番だよ。まずは、なんで私を盗み見してたの?」
立ち上がって、脚についた埃を払う。
「君に近づく一番いいタイミングを探していたの。君が外に出てくるのを見て、最後のエネルギーを使い切ったのよ」
「ええっと……それで、どこにいたの?」
あまり誇らしそうではない様子で答える。
「……君の家の前で石の姿で隠れていたの。見つからないように……一か月」
「一か月? ずいぶん我慢強いんだな」
「だって……いきなり君の家に入ったら、話を聞いてもらえないと思ったの」
***
ナエヴィアの想像の中。扉を蹴る。
「おい、子ども、ナエヴィアっていう。助けに来た……」
カエリアンが叫ぶ。
「うわああああ、泥棒だ!!」
近所の人たちがその叫びを聞く。
「えっ? 泥棒!? この村で? 許さないぞ!」
腕をつかまれ、引きずられながら、泣きながら連れていかれる。
「や、やめて、待って、私は泥棒じゃなあああい!!」
ナエヴィアの想像、終わり。
***
カエリアンは片眉を上げる。
(今の、たぶん心の声が聞こえた)
(あなただけじゃない。それがまた妙な想像をする前に止めて)
「どうやってここへ来たんだ。それで、どうして私が保持者だと知ってる?」
ナエヴィアは考える。
(グルル……何て言えばいいの!? そのこと、この間ずっと考えてなかった……。やだああ、なんで私はこうなのよぉ!? この未完成な脳みそ、ほんと最悪……今なんて言えばいいの!? あっ、そうだ! 本当のことを話せばいい……せめて半分だけでも!)
カエリアンは考える。
(石の中で暮らすって、どんな感じなんだろう。中に家具付きの家でもあるのかな……。うーん、いや、ないか)
遺産が言う。
(ただ眠っているだけだと思うが……いや、待て。話がそれている)
息を整えて、ようやく口を開く。
「私は……死んだの。正確には、誰かに殺されたわ。誰に殺されたかは聞かないで。でも……死にかけていたとき、一柱の神が話しかけてきたの。君を助ければ、もう一度の人生を与えるって。私はそれを受け入れて、赤ん坊として転生した。けれど、目を覚ましたときにはすでに観念体だった。君を見つける力と、案内役を与えられていたの。テルニアに向かう途中で、君が別の方向へ動き始めたのを感じてしまって、そのせいで旅はかなり長引いたわ。怪物に襲われたから、案内役のエネルギーを使って、そのあとも一人で進み続けて……一か月前にここへ着いたの」
「それで、それ以来ずっとこの石の中で、ちょうどいい機会を待ってたわけか……どれだけいい判断だったのかは、正直わからないな」
「まあ……外部からの起動なしで、もう一度だけ現れるぶんのエネルギーしか残っていなかったの。だから、一か八かに賭けた……そしたら、うまくいった。今こうして君と話せてるの」
(何か引っかかる。どの神が話しかけたのか聞け)
「どの神が君に話しかけたんだ?」
「わからない……名前は言ってくれなかった。ただ、下位の神だとは言っていたわ」
(下位の神か。なるほど、それなら可能性は少し絞れる)
(説明して)
(下位の神は十四柱知られている。徳のパンテオンと悪のパンテオンの二つに分かれている。名前まで覚える必要はないが、悪のパンテオンはほとんどが男で、徳のパンテオンはほとんどが女だ。だから、徳の神より悪の神の可能性が高い)
ナエヴィアは少し近づいて言う。
「ねえ……大丈夫? もう二十秒くらい、床を見つめたままよ」
「一分だけくれ。考えてる」
(同時に二つの会話をするの、ちゃんと改善しなさい)
「まさに今いちばん足りないのは、分なんだけど」
「あっ、そうだった。ちょっと待ってて」
カエリアンは再び家に入る。その最中、ナエヴィアが言う。
「ちょっと、待っ……ああっ!」
数秒後、カエリアンは甘いパンを手にして戻ってくる。
「はい、これ。昨日買ったばかりだから、まだ大丈夫だよ」
ナエヴィアの表情がすべてを物語っていた。死にそうになっている……まただ、そのパンをどうしても食べてみたくて。カエリアンはパンを差し出す。
「ここまで長い旅だったんだろ。ご褒美があったほうがいいと思って」
(食べる必要がないのは分かっているか? 観念体にそんな必要はない)
(知らなかったけど、別にいいよ)
ナエヴィアは両手でパンを受け取る。
「えっ、わ、私に?」
「うん。ここまで遠くから来たんだろ」
ナエヴィアはパンを見つめながら考える。
(もしかして……私を信じ始めたの? こんなに早く? もしそうなら、この瞬間を逃しちゃだめね!)
小声で言う。
「カエリアン……お願い、君のフレイムをちょうだい」
「いやだ」
(………………? 今……いやだ、って言った?)
「ど、どうして?」
「だって私のものだし」
「でも……」
カエリアンは腰に手を当てる。
「まだ話すの? それとも、それを食べるの?」
ナエヴィアは唾を飲み、ひと口で半分を食べる。
「それで……どう? おいしかった?」
ナエヴィアはうつむく。
「わからないわ……味も、寒さも、暑さも、空腹も感じないもの……」
「うわ……かなりつらそうだな」
「半分はそうよ。だから、君のフレイムを渡してほしいの。あの負担から君を解放できれば、私はまた普通に戻れるから」
「私のいた世界では、神様ってかなりずるいんだ。約束を守らなかったり、守っても大きな代償があったりする」
「え?」
カエリアンは身を乗り出す。
「世界の話だけど、君も別の世界の出身だった?」
「い、いいえ。前の人生はこの世界で生きたわ。待って、君は……別の世界から転生したの?」
「うん。一瞬、君もそうかと思った……でも、どうやら私だけみたいだ。まあ、それはいいとして。本当に君が助けるために送られたのかどうかはわからないけど、その神が約束を守る保証なんてどこにもない」
ナエヴィアはうつむく。
「……ないわ。でも、信じるしかなかったの」
鼻血が出始め、体が少しずつ薄れていく。
消える前に顔を上げる。
「……騙したわ……私は“助ける”ために送られたんじゃない。君にフレイムの重荷を取り除いて、そのうえで君から受け取って、あの神に渡すためだったの……ごめんなさい……。計画は失敗して、それで私の唯一の希望も消えた。だから、もう知っていても変わらないわ」
体が消え、石に戻る。カエリアンは石を拾い上げ、手の中で持つ。
「……驚いたふりをしたほうがいいのか、わからないな……」
(あいつをどうするつもりだ)
「わからない。騙そうとしたけど……気持ちはわかる」
(理解できるのか?)
「論理的に見ればいい。神が使命を果たす代わりに転生を持ちかけた。選択肢は、死ぬだけだったんだ。受け入れるのも当然だろ……私だって同じことをしたと思う」
(……そういう見方もあるか)
「もう一つ理由がある」
(何だ)
「自分で言ってたじゃないか。フレイムは呪いだって。あれを、他の誰かに背負わせるわけにはいかない……あの子にだって」
カエリアンは石をしまい、再び家の中へ入る。
***
ナエヴィアは考える。
(フレイムと保持者の魂は一つだと言われている。保持者の意思であっても、フレイムを切り離せば魂は壊れる……つまり、要するに、私はカエリアンを殺せと頼まれたの)
石の中で魂が揺れる。
(誰と話したのか、あるいは誰にそう言ったのかは知らないけど……本当なのかしら? フレイムをくれなかったのは……その重荷を渡したくなかったから? いいえ、たぶん死ぬのを知っていたから渡さなかったのね。生き延びるために必要だと言う作戦にしなくてよかった。あれなら信じてもらえなかっただろうし……この作戦でも無理だったけど……まあ、いいわ……。この呪われた石の中で『人生』の残りを過ごさなきゃならない……でも……前の人生だって、たいして変わらなかったし)
***
二年前。道の真ん中に、死んだ馬が二頭、壊れた馬車が一台。その周囲には、銀の鎧を着た、砕けた死体が十数体転がっている。
とんがり帽子をかぶった若い金髪の少女が、エレガントなドレスにマントをまとい、中央に紫の石が埋め込まれた黒い杖を手に叫ぶ。
「くそっ、父上はどうして、あんな役立たずどもよりもっと優秀な護衛を雇わなかったのよ!!」
ナエヴィアも杖を構えたまま答える。
「落ち着いて、ヘラ(Hela)……ただの散歩に、いきなりダイヤモンド級の冒険者を付けてもらえるとでも思っていたの?」
「当たり前でしょ。私たち、王女よ。最上のものを受ける資格があるの! ああもう、あの眼の教団め。予算を食い潰すヒルだわ」
口元を隠して笑う。
「そうね。でも、あなたのせいで金級の人たちがもう護衛を引き受けてくれなくなったじゃない」
「それを持ち出す必要なかったでしょ」
「この使い捨てたちの誰も立ち上がれそうにないわ。村か、人を見つけるまで歩きましょう」
二人は血まみれの光景を離れ、かすり傷ひとつ負わないまま、静かに歩いていく。
(私はラグノリス王と、私を産んだ後に彼が殺した愛妾との娘だった。私の人生は、正午から勉強、四時から魔法の練習、六時から礼儀作法の授業、七時に大きな食卓で一人きりの夕食、七時半から八時半まで初級錬金術の授業。八時半になると、やっとデザートの時間だった。そこが一日の中でいちばんよかった。九時から十二時までは外交の授業。それから朝八時まで眠れて、そこから九時までは入浴、きつく締めつけたコルセット付きの、あの狂信者の精神構造みたいに窮屈なドレスに無理やり着替えて、それから朝食。さらに二時間の自由時間があって読書に使えた。最後に、教師が来る一時間前に前日の授業を復習する)
歩きながら、ヘラが尋ねる。
「次の村まで、あとどれくらいだと思う?」
「知ったところで、早く着くわけじゃないわ」
「そんな腐った態度を続けてたら、どの男もあんたと結婚してくれないわよ、『妹』」
(ヘラは私の異母姉で、王妃の娘だった。私たちは……まあ、だいたいは我慢し合っていた。その日、彼女は父……いや、王を説得して、努力のご褒美に散歩へ行かせてもらった。城へ戻る途中で怪物に襲われ、護衛は全滅したけど、私たちはなんとか怪物を倒した)
***
ナエヴィアが五歳のころ、玉座に座った王アーウィンが言った。
「ヌヴィア(Nuvia)!」
ナエヴィアは頭を下げる。
「ナエヴィアです……父上」
「ああ、そうだったな」
「何のためにお呼びになったんですか?」
「明日から、お前の学問と魔法の学習を始めると知らせておく」
目が開き、笑みが浮かぶ。
「ほ、本当ですか!? ありがとうございます!」
駆け寄って抱きつこうとする。
「やっと学校へ行けるんだ!」
その手前で止める。
「学校へ送るとは言っていない。学ばせると言ったんだ。お前は王女であって、ただの貴族ではない。ここで学ぶ」
玉座から立ち上がる。ナエヴィアの表情はしぼみ、床を見つめる。
「……え?」
王は咳払いをする。
「正直に言うが、お前は美人ではない。大きくなってもそうはならないだろう。だから、いざというときに他国との同盟を結ぶ駒としては役に立たない」
「……」
「だが、教育すれば頭もよくなり、腕も立つようになるかもしれん。そうなれば価値も上がる。別の王の息子と結婚させて、俺にさらに力をくれる相手にでもなれば、この国にも、この家にも役立つだろう。それだけだ。下がれ」
頬を涙が伝うが、泣くのをこらえる。
「……は、はい……父上……」
(そのとき理解した。私という存在には価値がない。見た目に値打ちはなく、価値があるとしたら、それは差し出せるものだけ。だから、自分の価値は自分で稼ぐしかなかった。あの不快な日課の授業一つひとつで目立つことから始めた。長い時間をかけて、ヘラを超えることができた)
ヘラが前を指す。
「ほら、あの橋! 見覚えがある。もう近いはずよ」
ヘラは先に進み、長い木橋の向こう側へ走っていく。橋の下は、数メートル下の湖への落下になっている。ナエヴィアも走り出す。
「ちょっと、待って!」
(十四歳半のころ、城の外で知っている人は一人もいなかった。侍女たちはほとんど話しかけてこず、衛兵には話せなかった。王が話しかけるのは必要なときだけで、王妃は完全に私を無視していた。世界全体が……私にとっては概念にすぎなかった。とはいえ、一つだけ成し遂げたことはある。西方全域で起きる反乱鎮圧の攻撃を指揮する役目を任せてもらえたのだ。王が攻撃地点を決め、私は戦略を担当した。あとは兵士たちが血を流す……それを一年中続けた。たくさんの人が死んだ……私が一度も会ったことのない人たち。私にとっては、ただの盤上の駒にすぎなかった。文字どおりに)
ナエヴィアは橋を走る。だが、向こう側にいるヘラが杖を向け、光を放つ。すると湖から水の塊が立ち上がり、下から橋を破壊した。ナエヴィアは反応が間に合わず、水の中に閉じ込められ、そのまま湖へ引きずり込まれる。
(……そう。異母姉に殺された。予告もなしに。水魔法を知っていても、もう水が肺に入ってしまっていたら何の役にも立たない。しかも、魔法が使えない封印までかけられていた。学んだことは山ほどあったのに、あいにく泳ぎ方だけは入っていなかった)
こうして……ナエヴィアの古い人生は終わった。
(私は……孤独だった。いくつかの天幕の外へ出ることすらできなかった。望んでいたように旅もできなかった。結婚も、子どもを持つこともできなかった。恋をすることもできなかった。草原をのんびり歩くこともできなかった。私が望むようには……生きられなかった。つながりなんて一つもなかった。ただ……役に立つことだけに集中していた。欲しくもないもののために、自分の価値を稼ごうとしていた。短い人生を、無駄なことに費やした。もしもう一度やり直せるなら……周囲に合わせようとして無駄にしたりはしない。私は私として生きる。でも……多くの罪のない人を殺す手助けもしたし……カエリアンに同じことをするつもりだった……だから、私にはその資格なんてないのかもしれない)




