怖いですか?
一面の草原で、真昼の太陽が草を照らしている。鳥たちは群れをなしながら舞い上がり、あたりは静かなまま……木が折れる音とともに女性の悲鳴が響き、続いて何かが水にぶつかって沈み、空気の泡が水面へと上がってくる音がした。
湖の中から、か細い手が水面に向かって伸ばされる。そのまま沈み続ける一方で、外ではとんがり帽子をかぶった少女が、目の前の壊れた橋を無感情に見つめていた。
湖の底では、栗色の髪に上品な服をまとった少女が、強い絶望を感じたあと、意識を失いはじめていた。少女は考える。
(……っ、な、なんで……あんなことを……!?)
声が囁く。
(……ナエヴィア(Naevia)……)
死を受け入れ、切迫感も消えたまま、少女は思う。
(……え、……?)
(……お前は死ぬ……だが、それで終わりとは限らない)
(……だ、誰……?)
その声は、ため息をついた。
(……下位の神だ。それだけ伝えておく。お前に提案がある……)
(……どの神様のこと……? いや、まあ……いいわ……聞いてあげる)
(意志のフレイムはもうすぐ現れる……その保持者を見つけてほしい……)
(……それだけ……?)
(……いや、説得して、フレイムを渡させる必要がある。下位の神として、私は人間の人生に悪影響を及ぼすことはできない。少なくとも、正当な理由がなければな。言うなれば、これは法律の抜け穴だ)
(……私に、何の得があるの……?)
(新しい体を与えよう。そしてフレイムを私に渡したら、お前の望みを叶えてやる)
(もしやらなかったら、あるいは失敗したら……?)
(ふふ……それももう考えてある。お前は観念体になる。任務を果たせば普通の体を与えるが、失敗すればそのままだ)
(……じゃあ……死ぬだけよりは、まし……やる……)
ナエヴィアの魂は少しずつ体から離れていく。離れていく様子は見えないが、かつての体が湖の底へ沈んでいく感触だけは伝わってくる。そのあいだにも、意識は薄れていった。
どこかで夜のあいだに、青く輝く石が空から落ちてきた。地面に衝突し、数分後、その石から青いオーラが立ちのぼる。やがてそれはごく小さな人の形を取り……生後数か月ほどの赤ん坊になった。肌は白く、髪は金色で、瞳は青い。
赤ん坊は小さな自分の手を見つめる。
(え……な、なにこれ!? 私、赤ん坊じゃないの!? どうやって赤ん坊のまま保持者を探せばいいのよ!?)
神が心の中で語りかける。
(保持者と同じ年齢にしてやった。信じろ、そのほうが近づきやすい)
(じゃあ、どうやって見つけるのよ、天才さん?)
ナエヴィアの体は石へと戻りはじめる。その一方で、ぼろぼろの服を着た、目の焦点の合わない男が近づいてきて、石を慎重に拾い上げる。それから北へ向かって歩き出した。
(そのカー(Khar)が連れて行ってくれる。お前をしばらく活動させるには十分な力がある)
(……歩かなくていいのは助かるけど)
(フレイムを常に探知する能力は与えてある。だから、保持者を見つけるためにカーを導く必要がある)
石の中でナエヴィアは集中した。フレイムの残滓以上のものを感じ取り、その正確な方向までも掴み取る。
(あっち……北、かなり北ね。……待って、今どこにいるの?)
(ラグノリス王国の南だ)
(何か月もかかるじゃない。もう少し近い場所にしてくれてもよかったでしょ)
(近くに置けば、ほかの下位の神に怪しまれる。まあ、せいぜい気をつけて行け。私を裏切ろうなんて考えるな。さもないと、そのまま観念体のままだ)
それだけ言うと、神の声は消えた。
***
現在、カエリアンは家の中で窓から外をのぞいていた。あの妖精は、まだ木の後ろで待っている。遺産が言う。
(……選択肢は二つ。罠にかかるか、何もしないで妖精が入ってくるのを待つかよ)
カエリアンは寝台へ目を向けた。イレサが眠っていた。
「……もし入ってきたら……殺される……出るしかない」
椅子から降りると、靴を履きながらゆっくり扉を開ける。通り抜けたあと、扉は少しだけ開けたままにしておいた。妖精の手が再び地面に置かれる。こちらへ来いとでも示すように。カエリアンは息を吸うが、手の震えは止まらず、視線はあちこちへ泳いでいた。
(……怖いのか……)
「……う、うん……」
(だが、それでも妖精と戦うしかない)
「……本当に、ほかに選択肢ある……?」
(ない)
歩き出す。進むたび、脚が「行くな」と懇願してくる。家と森の間にある、草の生えた小さな丘を下っていく。足音も、パジャマが湿った草に擦れる音も出ない。聞こえるのは、荒い呼吸と風の音だけだった。
森の入り口にたどり着くと、妖精の姿がゆっくりと現れる。最初に見えたのは巨大な頭だった。目も鼻もない。普通の口の代わりに、鋭い歯で埋め尽くされた縦長の『口』がある。次に現れたのは、細く青白い胴体と、まるで不自由そうな二本の腕。背中には翼のようなものがあったが、実際は完全に腐り落ちたもう一対の腕の骨にすぎない。背中を丸め、脚は虫のように細く、体を支えるのもやっとに見えた。
カエリアンはそれを見ると、悲鳴を上げないよう口を押さえた。心臓は限界まで跳ね上がり、肺は時折、呼吸することを忘れてしまう。
妖精は、ほとんど囁きに近い、喉のいちばん奥から絞り出したような声で言った。
「……保持者……フレイムを……渡せ……お前を……その呪いから……解放してやる」
そう言いながら、口元から手を離す。
「ふ、フレイム……?」
(くそっ、なんで気づかなかった。お前が本に触れたとき、感じ取っていたはずだ)
妖精は腕を伸ばした。
「……ああ……フレイム……それが……ほしい……渡せ……そうすれば……その……呪いから……自由になれる……」
カエリアンは後ずさる。
(遺産……どうしたらいい……?)
(今の状況を見る限り……どっちに転んでも詰んでる)
カエリアンは森の入り口のほうへ目を向け、本が木の近くにあるのを見つけた。
(うまくいくかわからない。でも、何もしないで死ぬよりはましだ)
妖精が首を傾げて言う。
「……ど……選ぶ……保持者……?」
「フレイムがどう動くのか、正確にはわからないけど……でも、これは私のものだ!」
本へ向かって走り出す。妖精も掴もうとするが、届かない。カエリアンは高い根に足を取られてつまずくが、手で衝撃を受け止め、すぐ立ち上がろうとする。息が切れていた。妖精はさらに前へ出て、木に飛びつき、また手を伸ばして掴もうとするが、カエリアンは跳んでかわす。
「!! そんな顔なしの化け物に、捕まるか!!」
胸の奥で何かがうごめくのを感じた。少しずつ熱を帯びはじめる。
(おい、何をしようとしてるかはもうわかった。あれは通用しない。だが、これならいけるかもしれない)
走り続けながら、カエリアンは思う。
(……本を閉じても意味ないの!?)
前へ進み、地面にある本をつかんだ。妖精は木々にしがみつきながら、脚を引きずって近づいてくる。
「……間違い……だ……私なら……お前を助けられる……」
遺産が即座に言う。
(本をあいつに向けろ)
カエリアンは本を開き、怪物へ向けた。顔をそむけ、目を閉じる。妖精はさらに速く迫ってくる。胸の奥で何かが燃え上がる感覚がした。焼けるようで、だが痛みはない、そんなフレイムが。
妖精は本へ一直線に突っ込み、ぶつかった。すると、その全身が黒い霧のような形で内側へ吸い込まれていく。
(今だ、閉じろ)
カエリアンはすぐに本を地面へ置き、表紙を掴んで力いっぱい閉じた。やがて音が戻り、同時に、コオロギの鳴き声も戻ってきた。
息を切らしながら言う。
「……あれは……怖すぎる……」
(そ、そうだろうな)
「何だったんだ……? 胸のあたりで何か感じたんだけど……」
(お前のフレイムが起動した。細かい話は明日だ。だから……休め。よくやった)
カエリアンは石をいくつか拾い、本の上に積み重ねた。
「明日、埋める」
小さな丘を越えて家へ戻る。靴を脱いで外に置き、少しだけ開いた扉から入って慎重に閉める。寝台へ向かう途中で一枚の板を踏んでしまい、きしんだ音が鳴った。その音でイレサがすぐに目を覚ます。寝台から勢いよく起き上がり、髪は乱れていた。
「カエリアン……? 君?」
「うん」
寝台から起き上がる。
「ムユン……トイレに行きたかったら、我慢の限界になる前に行きなさい」
「え……?」
イレサはカエリアンを両腕で持ち上げた。
「まだおむつを外すのは早いと思っていたけど。トイレに行きたくなったら、ちゃんと教えなさい。もしかして、悪夢でも見たの、ムユンベー?」
カエリアンは下を見て、パジャマが腰から下まで濡れているのを見つけた。顔が真っ赤になる。
(あぁっ、気づかなかった。草でパジャマが濡れたんだ。くそっ、夜露め!)
軽く夜中の入浴をして着替えたあと、カエリアンは寝台に触れた瞬間、眠りに落ちた。
***
(翌日、すぐに悲鳴が上がった。扉の向こうで、女性がイレサに噂を話しているのが聞こえた……あの妖精は、私のところへ来る前に一家を丸ごと食べていたらしい。大人二人と子ども二人。骨まで食べて、ほかは全部残したそうだ。たぶん、気の毒なことだったんだろう……でも、知らない人たちだったから、正直そこまで気にならない。とはいえ、もしもっと早く動いていれば、あの人たちは助かったのかもしれない、なんて考えることはある)
寝台に寝転んだまま天井を見つめ、そう思う。
(その同じ日に、妖精を探すための捜索隊が組まれた。それが二か月続いたけど、もちろん何も見つからなかった。あの日のうちに、誰にも見つからない場所へ本を埋めに行って、二度と解放されないようにしたからだ。しかも、あの馬鹿な本には『開くな、怪物が封じられている』なんて注意書きはなかった。仮にあったとしても、私は読めなかっただろうし、遺産も何も言わなかった。だから、たぶん付いていなかったのだと思う)
妖精と「戦った」翌日、カエリアンは机の下にいた。遺産が言う。
(ここまで来るとは思っていなかったし、本当は来てほしくもなかった……だが、フレイムを目覚めさせたな)
(今さらそれを話すのか。丸一年も何も説明しなかったくせに……)
(知れば知るほど、お前はその危険性を自覚することになる)
(全部説明して。知る必要がある)
(……そうだな。どこから話せばいいのか……)
(まずは基本から始めたらどう?)
(それが妥当だな……お前にはフレイムがあると伝えたが、どのフレイムかは言っていなかった)
カエリアンの目が見開かれる。最大限に注意を向けている証拠だ。
(お前は意志のフレイムの保持者だ。世界そのものの意志に作用できるフレイムで、極めて強力になり得る。だが、制御は非常に難しい。保持者の中には、目覚めさせることすらできなかった者もいる)
(目覚めさせる……? それ、私の中にもあったの?)
(半分はそうだ。お前が母親と旅をしていたあいだに、フレイムは融合を終えた。そのあと休眠状態に入り、起動されるのを待っていた)
(じゃあ……どうやって起動したの?)
(意志のフレイムは三段階で起動する。お前は第一段階、純粋な意志を起動した。イレサを守り、自分を守り、そしてフレイムを守ろうとする意志を見せた。それで起動したんだ)
(ほ、本当に……? じゃあ、残りの二つはどうやって起動するの?)
(あれはもっと厄介だ。第二段階は、生きる意志だ。致命的な攻撃を生き延びたときに起動する。第三段階は……耐える意志だ……)
(……遺産……?)
(大切な存在を失い……それでも世界に対して憎しみを返さないときに起動する)
カエリアンは膝を抱え、目を伏せた。
(……それは……できれば起動させたくないやつだね……)
(正しい判断だ。フレイムが本当はどれほど強力なのか、わかっていない者も多い。だから……恐れて消そうとする者もいれば、支配しようとする者もいる。人間も、怪物もだ)
(最後に一つだけ。……なんであの妖精は、本に一直線だったの?)
(あの瞬間を利用して、フレイムの技術を一つ使ったんだ。どう使うかを説明する意味はない。起動して使われたフレイムは、追跡可能な残滓を一定量放つ。だから、動かずにいるほうが生き延びる可能性は高い)
(えっ!? でも、何かが私を狙ってきたら終わりじゃない。使い方を教えてよ!)
(だめだ。想像もしないようなものに殺された保持者を、私は何人も見てきた。目立たず、普通の人生を送れ。そうすれば、二十歳まで生きられるかもしれない)
(じゃあ、見つかったらどうしろっていうの? 膝をついて、命乞いでもしろっていうの!?)
(フレイムを鍛えれば……見つかるのは早くなる。鍛えなければ……いずれにせよ、すでにある残滓のせいで、いつかは見つかる。どちらにしても死ぬ可能性は高い。違うのは、片方のほうが少し長く生きられるというだけだ。私はできるかぎりお前の寿命を延ばそうとしている。それだけは忘れるな、少年)
遺産の声が消える。カエリアンは机の下で、拳を床に押しつけた。
(じゃあ、お前の答えは……死ぬのを待つことか……。……遠慮するよ)
表情は硬くなっていたが、顔を上げると、その目には決意が宿っていた。机の下から這い出る。内側でフレイムが、温かく燃えていた。




