リューヴェン村
翌朝。
銀風街道は、変わらずそこにあった。乾いた空気。一定の風。規則的な
揺れ。昨日までと何一つ変わらない景色が、淡々と続いている。馬車の中も
同じだった。昨夜の会話は、どこにも残っていない。誰もそれに触れないし、
触れる必要もない。すべては、流れていくものだった。
やがて、道の先に小さな集落が見えてくる。
石造りと木造が混じった家々。低い屋根。煙突から細く立ち上る煙。派手さは
ないが、落ち着いた営みがそこにあった。街道沿いに生きてきた村の、穏やかな
時間がある。
「可愛らしい村ですね」
ナディアが素直に言う。目は穏やかだった。
「まあ、普通の村だな」
レオンが軽く答える。特別な感想はない。
馬車は速度を落とし、その村の脇を通る。人の気配が近くなる。子どもの声。
誰かの笑い声。日常がそこにある。
道沿いに、少しだけ開けた場所があった。柵に囲まれた、古びた建物。
庭には、手入れされた小さな花壇。季節の花が、風にわずかに揺れていた。
孤児院だった。
その前に、一人の老人が立っている。背は曲がり、動きはゆっくりだが、
その目はしっかりと前を見ていた。
馬車が通り過ぎる、その瞬間。老人の視線が、レオンに止まる。
「……リオ?」
自然な呼び方だった。迷いも、戸惑いもない。
だが――その名前は、ここにはなかった。
レオンの動きが、止まる。一瞬。本当にわずかな、間。
ナディアが小さく首を傾げる。何が起きたのか、分かっていない。メリアは
視線だけを向ける。それだけだった。
(リオ……レオンの、本当の名前かな)
れもんの声が、内側で静かに響く。
(ずいぶん懐かしそうな呼び方だね。でも、今それを深掘りするタイミング
じゃなさそう)
メリアは頷きも返事もしない。ただ、記憶の片隅にその二文字を留めるだけ
だった。
「……久しぶりじゃな」
レオンの声は、いつも通りだった。驚きも、戸惑いも、表に出さない。
馬車は止まる。
老人――院長は、ゆっくりと歩み寄る。その顔には、柔らかな笑みがあった。
「元気そうで、なによりじゃ」
「そっちもな」
「立派になったのう……見違えたわい」
院長の視線は、懐かしむように細められる。
「まあ、なんとかやってるよ」
軽く肩をすくめるレオン。いつもの調子だった。
「都会の空気をまとっているようじゃ」
「そう見えるか?」
「見えるとも」
短い会話だった。だが、その間に流れるものは穏やかだった。過去は語られ
ない。説明もない。ただ、そこにある関係だけが、静かに存在していた。
ナディアは、そのやり取りを見ていた。何も言わずに。そして、小さく口を
開く。
「素敵な名前ですね」
その言葉は、柔らかかった。踏み込まない距離で、受け取る。
レオンは一瞬だけナディアを見た。それから、軽く笑った。
「そうか?」
それ以上は言わない。院長も、深くは触れない。
「もう日も傾く頃じゃ。今夜はここに泊まっていくといい」
院長がふと、そう言った。
「宿を取るような余裕、この馬車の旅にはなかろう。部屋くらいはある」
「え、いいんですか……?」
ナディアが目を輝かせる。
「いいも悪いも、こいつの元家族みたいなもんじゃ。遠慮はいらん」
院長が笑う。レオンは頭をかいた。
「……いや、まあ、断る理由もねえけど」
視線が、自然とメリアへ向く。判断を仰ぐような、確認のような視線だった。
「治安は」
メリアが短く尋ねる。護衛としての、確認だった。
「この村に、危険な話は聞かんよ」
院長が答える。
「では、泊まります」
即決だった。感情ではなく、判断。それで話は決まった。
馬車は孤児院の裏手に停められる。三人が降りると、建物の中から、小さな
足音がいくつも重なって近づいてきた。
「院長せんせー、だれー?」
顔を出したのは、まだ幼い子どもたちだった。数人が、興味津々にこちらを
覗き込んでいる。
「お客さんじゃ」
院長が優しく言う。子どもたちの視線が、レオンに集まった。
「にいちゃん、だれ?」
「昔、ここにいたんだよ」
レオンがしゃがみ込み、目線を合わせる。ぶっきらぼうな口調の裏に、
慣れた優しさがあった。子どもの一人が、警戒もなくレオンの服を引っ張る。
その様子を、ナディアは少し離れた場所からじっと見ていた。
「……知らない顔、してますね」
ぽつりと呟く。
「知らない顔?」
「いつもより、優しい顔です」
メリアがそれに答えることはなかった。ただ、視線だけは同じ方向を向いて
いた。
夕食は、質素だが温かかった。大きな鍋を囲み、子どもたちの声が食堂を
満たす。ナディアはその賑やかさに戸惑いながらも、隣に座った小さな子に
取り分けを手伝われ、自然と笑顔になっていた。メリアは静かに食事を進める。
手つきに迷いはない。ただ、周囲の喧騒とは一線を引いたまま、そこにいた。
「お姉ちゃん、たくさん食べるね」
子どもの一人が、目を丸くしてメリアを見る。
「燃費が悪いので」
「ねんぴ?」
子どもがきょとんとする。ナディアが小さく吹き出した。
食後、子どもたちが寝静まった頃、院長がレオンを庭先へ呼んだ。メリアと
ナディアは、それぞれ与えられた部屋で休むことになる。窓の外に、レオンと
院長が並んで立つ影が見えた。
ナディアは、その影を見つめながら、小さく口を開いた。
「……お姉様は、聞かないんですか」
「何をですか」
「さっきの……リオ、という名前のこと」
ナディアの声には、遠慮と好奇心が混ざっていた。
「必要がありません」
メリアは短く答える。
「必要が、ない……?」
「彼が名乗っている名前はレオンです。
それ以上を、私が知る必要はありません」
その言葉には、余計な感傷も、探る色もなかった。ただ、境界線をきちんと
引いているだけだった。
ナディアは、しばらく黙る。そして、小さく頷いた。
「……そうですね」
窓の外では、レオンと院長の影が、まだ並んでいる。
(優しいね、メリアは)
れもんの声が、そっと響いた。
(知りたい気持ちがないわけじゃないでしょ。でも、聞かないことを
選んでる。それって結構、難しいことだと思うよ)
メリアは答えなかった。ただ、窓の外の二つの影から、視線をそらさ
なかった。
庭先では、レオンが焚き火の残り火を見つめていた。
「メルの話、村じゃまだ出るのか?」
ぽつりと聞く。声は、思ったより静かだった。
「たまにな」
院長の声も、同じ温度だった。
「……籍が抹消されたのは聞いたか?」
「うむ。風の便りでな」
しばらく、沈黙が続いた。虫の声だけが、庭を満たしている。
「位牌の一つも、そろそろ作ってやらんとな」
「……そうだな」
それだけ言って、レオンは焚き火を見つめ続けた。多くを語らない横顔
だった。院長も、それ以上は聞かなかった。ただ隣に立ち、同じ火を見て
いた。
窓越しにその横顔を見ていたメリアは、何も言わず、静かにカーテンを
引いた。
翌朝。
村を発つ三人を、子どもたちと院長が見送りに出てきた。
「にいちゃん、またくるー?」
「気が向いたらな」
レオンが子どもの頭を軽く撫でる。ぶっきらぼうだが、その手つきは
優しかった。
「元気でな、リオ」
院長が最後に言った名前は、やはりその二文字だった。レオンは軽く手を
上げるだけで、答えなかった。だが、拒む様子もなかった。
「行きましょう」
メリアが短く言う。いつも通りの声だった。ただ、その響きには、わずかな
柔らかさが混じっていたようにナディアには感じられた。
馬車は動き出す。村の景色が、ゆっくりと後ろへ流れていく。
誰も、名前のことには触れなかった。だが、その一晩を経て、三人の間にある
距離は、確かにほんの少しだけ縮まっていた。




