王都へ出発
ポルタ=ルクスの朝は、光の粒子でできている。
リュクス河の河口に差し込む陽光は、ただの反射ではない。水面に揺れる
それは、都市そのものが整えた輝きだった。生活魔法によって調整された
空気は、澄みきっているのに乾きすぎず、吸い込めば静かに肺へと馴染む。
港はすでに動き出していた。荷を運ぶ者、帆を整える者、帳簿を確認する者。
すべてが無駄なく流れ、どこにも淀みがない。人の営みでありながら、どこか
ひとつの機構のようでもあった。かつてこの港を「生きている精密機械」と
称した旅人がいたと聞いたことがある。言い得て妙だとメリアは思う。感情は
なく、意志もなく、ただ正確に動き続ける。それが、この街の美しさだった。
その中にあって、メリアはすでに準備を終えていた。立っている。ただ、
それだけ。だがその姿には、待機という概念が存在しない。必要な状態が
すでに整っている。そこにあるのは「待つ」という行為ではなく、「常に
開始可能である」という完成だった。衣装に乱れはなく、装備の位置も
すべて最適化されている。
(今日はいつもより荷物点検が早いね)
声は、メリアの内側にだけ響く。
(王都までの街道整備率、記録上は九割超え。でも実測とのズレは経験的に
あるから、念のため予備の水分補給剤も多めに入れておいたよ)
メリアは口には出さず、鞄の中身を思い浮かべるだけで頷いた。れもんの
言う「記録上」と「実測」のズレは、いつも小さな正しさだった。
少し離れた位置で、レオンが軽く肩を回す。
「いやー、朝から仕事ってのはやっぱり堅いなあ」
言いながら、周囲を見渡す。視線は流すようでいて、必要な情報は拾って
いる。だが、それを深く掘り下げることはしない。彼にとってそれは、
あくまで確認の範囲だった。
メリアは反応しない。沈黙は、拒絶ではない。ただ、必要がないだけだった。
港の喧騒は続く。荷車の軋み、水鳥の声、誰かの呼び合う声。それらが
混ざり合い、朝の空気の中に溶けていく。そこへ、小さく靴音が重なった。
「あ、あの……!」
振り向いた先にいたのは、ナディア・ベルナーだった。整えられた金の髪が
朝の光を受けて柔らかく揺れる。まだ年若いその顔には緊張がありありと
浮かんでいるが、それ以上に、目が輝いていた。期待と、憧れと、そして
少しの不安。それらが混ざり合った光だった。
荷物はそれほど多くない。学院への入学という名目にしては、むしろ
慎ましいほどだった。だが手荷物の持ち方は丁寧で、中身を大切に扱って
いることが伝わった。
「お姉様、本当にご一緒できて光栄です……!」
言い切ったあと、わずかに息が揺れる。
「ただの護衛です」
メリアは一拍も置かず、答えた。温度はない。事実のみ。
ナディアの表情が、ほんのわずかに固まる。
「いや、ちょっとは優しくしてやれよ!」
すぐにレオンが割り込んだ。反射のような速度だった。
「あ……すみません……その……でも、本当に……」
ナディアは慌てて言葉を重ねる。うまくまとまらないまま、それでも何かを
伝えようとしている。その懸命さが、かえって言葉を迷子にしていた。
「王立カリデア魔法学院への入学のため、王都へ……その……護衛は、
レオンさんを指名させていただきました」
「え、俺?」
レオンが素で返した。
「はい……その……実績も、ありますし……」
理由は、成立している。だが、どこか薄い。根拠というよりは、取り出せる
言葉を並べたような薄さだった。それ以上を言おうとして、ナディアは少し
だけ言葉を飲み込んだ。
「まあ、仕事なら行くけどさ」
レオンが肩をすくめる。
「依頼です」
メリアが短く言う。それで、この場の結論は出た。
ナディアは小さく息を吐き、胸の前で手を握る。その仕草には、安堵と、
そしてまだ残る距離があった。
「えっと……お姉様は……普段、どのような……お仕事を……」
「状況によります」
即答だった。会話は、そこで閉じる。
「あーもう!もうちょい答えてやれって!」
レオンが笑いながら頭をかく。ナディアは一瞬きょとんとしてから、小さく
笑った。だが、その笑みはまだ遠い。届いていない距離の中で、無理に形を
作ったものだった。
三人の間に漂う空気は、それぞれ違う温度を持っていた。メリアは低く、
静かで揺れない。レオンは軽く、よく動き、すぐに反応する。ナディアは
憧れと遠慮のあいだで揺れ続けている。どれが正しいということはない。
ただ、その温度差は今のところ、互いを混ぜ合わせることを拒んでいた。
三人は港を離れ、街道へ向かう。
用意された馬車は質実だが整備が行き届いており、無駄な装飾はない。
ポルタ=ルクスらしい合理性がそこにあった。乗り込む動作にも、それぞれの
性質が出る。メリアは最短で位置を確保し、レオンは軽く手すりを叩きながら
乗り込む。ナディアは一瞬だけ足を止め、街の方角をひとつ振り返ってから、
静かに乗った。
車輪が回り始めた。街の空気が、少しずつ後ろへ流れていく。
銀風街道。整備された道は、揺れを最小限に抑えている。風は穏やかで、
遠くまで見通せる。街道沿いに並ぶ街路樹は若葉を揺らし、光の筋が葉の
あいだを縫って地面に落ちていた。
(この馬車、サスペンションの構造が面白いよ。板バネの重ね方が均等
じゃなくて、荷重のかかる後方だけ枚数を増やしてある。経験則だけで
ここまで調整できるのはちょっとすごい)
れもんの声が弾む。こういう発見をした時、彼女はいつも早口になる。
(誰の発明かはわからないけど、この街道を整備した職人、絶対にわかって
やってるよ。感覚だけで力学に辿り着いてる)
「……揺れが、少ないですね」
馬車の振動を確かめるように、メリアがぽつりと呟いた。
「ん?ああ、道が良く整備されてるからな。
銀風街道は侯爵家が金かけてる場所だし」
レオンが軽く応じる。ナディアは窓の外を見ていた。
「……綺麗ですね」
自然に漏れた言葉だった。
「整備されています」
メリアが返す。
「いや、そこは普通に綺麗でいいだろ!」
レオンがすかさず突っ込む。ナディアは少し驚いたように目を瞬かせ、
それから小さく笑った。さっきよりも、ほんのわずかだが自然だった。
メリアは窓の外に視線を向けたまま、それ以上は何も言わない。感想では
なく、観察をしているのだということが、その目を見ればわかった。道の状態、
沿道の人の動き、遠くの地形。整備された街道であっても、彼女の目はそこに
油断を置かない。それが彼女の仕事だった。
街の輪郭が、少しずつ遠ざかっていく。ポルタ=ルクスの整えられた空気が
薄れ、代わりに外の世界の揺らぎが入り込んでくる。草と土と、どこかの花の
匂い。馬の蹄が地を踏む音。それらが混ざり合い、旅の空気を作り始めていた。
メリアはふと窓の外の遠い稜線に目を留めた。ポルタ=ルクスを出るのは
初めてではない。だが、王都カリデアへ向かうのは初めてだった。王都では、
メリアという愛称は誰にも通じない。呼ばれるのは、本名だけ。
(緊張してる?)
れもんの声が、いつもより少しだけ静かに響いた。
(王都は誰もメリアを知らない。でも、それって裏を返せば、まっさらな
場所ってことだよ。良くも悪くも、積み上げてきたものが試される)
メリアは答えなかった。ただ、鞄の持ち手を軽く握り直しただけだった。
それだけで、れもんには十分に伝わっているはずだった。
ナディアは、膝の上で手を重ねた。そして、ほんの少しだけ声を落とす。
「……よろしくお願いします、お姉様」
「依頼です」
変わらない返答。
「だから、もうちょい言い方!」
レオンの声が重なる。
ナディアはもう一度、小さく笑った。今度は少しだけ、目尻が和らいでいた。
馬車は進む。距離はまだ、縮まらない。だが、それでいい。これは、始まった
ばかりなのだから。




