押すだけ
裏庭。
昨日の筋肉痛は、思ったよりも重く両腕に残っていた。伸ばすたびに、
じん、とした痛みが走る。
桶の横で、リナは布を持ち上げていた。びしょびしょだった。水が、
ぽたぽたと落ち続けている。
「……ほらな!」
勢いよく言いながら、布を見せる。
「結局ここや!びっしょびしょや!」
そのまま、ぎゅううう、と力を込めると、腕が震えた。
「っ……!」
水がじわじわと落ちていく。だが、抜けきらない。
「回してもここが残っとったら、意味ないやん!」
ぷるぷると腕が震える。明らかに、さっきよりも疲れている。
メリアは、その様子を静かに見ていた。視線は布ではなく、落ちる
水滴の量、間隔、速度に向いている。
(力の向き、バラついてるね。均一に押せてないから、逃げ道ができて
抜けにくいんだよ。面白いね、これ)
れもんの声が、頭の中で届いた。
「……うん」
小さく頷きながら、メリアは口を開いた。
「押せばいい」
「それができへんから苦労しとんねん!押しとるやろ今!見えへんの!?」
さらに、ぎゅう、と力を込める。しかし、水は少しずつしか落ちない。
メリアは、首を横に振った。
「違う。均等に、押せてない」
リナは、ぴたりと動きを止める。
「……は?」
意味がわからない、という顔だった。
メリアは、周囲を見渡した。木材。桶。置かれた道具。そして、静かに
動き出す。
(板を二枚使って、隙間を作って重ねればいい。
傾斜つけとくと水はけもよくなるよ)
れもんが、頭の中で設計図を組み立てていく。
(ついでに、溝の角度も計算した方が――)
「そこまでは、いい」
メリアは小さく遮って、木材を手に取った。
(せっかく考えたのに)
れもんが、少しだけ拗ねた声を出す。
「今度、聞く」
小さく付け加えると、れもんの声のトーンが、心なしか明るくなった。
単純だが、素直な相棒だった。
「うちも手伝おうか?」
リナが、興味津々に木材を覗き込む。
「危ない。下がって」
メリアが短く制した。
「なんで!うちかて器用な方やで!」
むっとした顔で言い返すが、メリアは取り合わず、黙々と作業を
進めていく。
メリアの手が、迷いなく動いていく。木材を組み合わせ、傾斜を確かめ、
時折、指先で表面をなぞって微調整する。木くずが足元に落ち、陽射しの
中で小さく舞った。
しばらくして、裏庭の一角に、簡単な構造が出来上がっていた。板が
二枚、隙間を空けて重ねられ、その下には浅い溝が彫られている。さらに
その先には、水を受け止めるための皿が据えられていた。全体に、ごく
わずかな傾斜がつけられている。水が、自然に流れ落ちるように。
「なんかそれっぽいの出てきた!急に発明家みたいなん
やめて!びっくりする!」
リナが目を丸くして、思わず一歩後ずさった。
(板で挟んで面全体に体重をかければ、力のムラがなくなる。
あとは重力で水が流れるだけ。さっきの何倍速くなるか、
計算してみよっか)
れもんが淡々と補足する。
「今はいい」
メリアは短く返し、布を手に取った。
「挟む」
板の間に布を挟み、上から手を置いて、ゆっくりと体重をかける。
ぎゅっ。
その瞬間、ざあっ、と音を立てて水が流れ出た。
「うわっ!?めっちゃ出る!!」
リナが目を見開く。受け皿に、水が一気に溜まっていく。透明な水が
陽射しを受けて、細かく光りながら跳ねた。さっきまでぽたぽたとしか
落ちなかった水が、一瞬で抜けていた。布は、目に見えて軽くなっている。
メリアは、静かに手を離した。それだけで、十分だった。
「ちょちょちょちょ!待って!」
リナが慌てて布を掴み、自分でも試す。同じように挟み、ぎゅっ、と押す。
ざあっ。
「ほんまや!!一発やん、これ!」
布を持ち上げる。明らかに、さっきより軽い。
「腕……全然ちゃう……!なんやこれ、詐欺やろ!」
信じられない、という顔のまま、もう一枚、さらにもう一枚と次々に試す。
どれも同じだった。押すだけで、水が抜ける。
「これ、他の宿にも配ったら喜ばれるんちゃう?」
リナが、ふと思いついたように言う。腕を組み、真剣な顔で干し場を
見渡していた。
「材料費、かかる」
メリアは静かに答えた。
「板と、溝を彫る手間。それに、木を選ぶ目も要る」
「せやんな……。誰にでも作れるわけやないか」
少しだけ肩を落とす。だが、すぐに気を取り直したように笑った。
「まあ、うちの宿にあるだけでも、十分すごいことやけどな!」
「厚い布と薄い布で、抜け方違うくない?」
リナが、手にした厚手の布を掲げて言う。
(繊維の密度が違うから、水の通り道の数も変わるんだよ。厚い分、
抜けるまで少し時間がかかる)
れもんが答える。
「時間、少しかかる。だいたい二割増し」
メリアが、れもんの言葉を要約するように言った。
「そんなんまで分かるんや……」
リナは、半ば呆れたように笑った。感心と諦めが半分ずつ混ざったような
顔だった。
「昨日まで、あんな死にそうな顔で絞っとったのが嘘みたいや」
リナが、自分の腕を軽く叩きながら笑う。腕はもう、震えていなかった。
「明日からは、もっと楽になる」
メリアが静かに言った。
(明日は、もっと速く、もっと楽に。工程はまだ改善できるよ)
れもんが、意欲的に付け加える。
「……うん。少しずつ」
そこへ、女将が近づいてきた。
「なんや、賑やかやなぁ」
「おかん!これ見て!めっちゃ楽になるやつできた!」
リナが振り返り、勢いよく手招きする。
女将は、板の構造を見て、少しだけ目を細めた。布を挟み、静かに
体重をかける。
ぎゅっ。水が流れる。
「……これは楽やわ。手ぇでやるんとは、えらい違いやなぁ」
「せやろ!?もう、これ戻れへんで!」
リナが大きく頷いた。得意げな顔だった。
(体感、絞る時間が三分の一くらいになってるね)
れもんが、数字を弾き出す。
「数字はいい」
メリアは短く返した。
「また何か計算してん?」
リナが、胡乱げな目を向ける。
「ただの独り言」
メリアは、涼しい顔で流した。
「面で押してる」
メリアが、ぽつりと説明した。
「難しいこと言わんでええ!均等に押してるってことやろ?」
リナが自分で言い換える。
メリアは、こくりと頷いた。
「はい」
(ちゃんと理解してるじゃん。次は乾燥時間も短縮できると思うよ)
れもんが、さらりと予告する。
「それは、また今度」
メリアは、小さく釘を刺した。それでも、口の端はほんの少しだけ
上がっていた。
板の上に、まだ水滴が残っている。それが、ぽたりと落ちた。
「これ!洗濯革命やん!」
リナが板を高く掲げて、誇らしげに宣言する。
「大げさ」
「うちの腕には大事件や!」
女将が、くすりと笑いながら次の布を挟んだ。もう迷わない手つきだった。
夕方近く、洗濯物はすっかり片付いていた。積み上がっていた布は、
ほとんど乾く手前まで、しっかりと絞り終えている。
(明日はこれとぐる風、組み合わせてみる?)
れもんが、思いつきを口にした。
「……悪くない」
メリアは、板を軽く撫でながら答えた。まだ何も検証していない。だが、
頭の中では既に次の工程が動き始めていた。
(早く試したいな)
れもんの声が、心なしか弾んでいる。感情が昂ると、姿が仔犬に近づくのが
常だった。今もきっと、尻尾のあたりがそわそわと揺れているのだろう。
リナは、そんなメリアの横顔を見て、小さく肩をすくめる。
「また何か企んでる顔しとるわ……」
だが、その声に呆れはあっても、拒否はなかった。裏庭に、夕暮れの光が
柔らかく差し込んでいた。




