↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
51/53

乾きも早い

 裏庭。


 板で絞った布が、横木に干されていた。朝の光はすでに高く、風は

ほとんどない。静かな空気の中で、布はわずかに揺れている。昨日の

うちに出来上がった板は、すでに裏庭の隅に立てかけられていた。

ほんの一日で、洗濯の景色が変わっている。


 リナは、その一枚を手に取った。


「……軽いやん」


 素直な感想だった。昨日までの重さとは、明らかに違う。


「でもな」


 眉をひそめる。


「絞るのが楽になっても、乾くまで待つしかないやろ?

革命の意味も、半分やで、これ」


 腕を組む。現実的な疑問だった。


 メリアは、布を見ていた。指先で軽く揺らすと、布がふわりと動く。


「水は逃げたい」


「擬人化やめぇ!水に意思ないからな!」


 リナが即座にツッコむ。


「動くと、逃げやすい」


 メリアは言い直した。


(表面積が増えると、蒸発する分子の数も増える。だから乾くのが

早くなる。水分子ってね、実は――)


 れもんが補足しかけたところで、メリアが小さく遮った。


「その話はあとで」


(毎回、それ言うよね)


 れもんが、少しだけ拗ねたように呟いた。


「まあ……言いたいことはなんとなくわかるけどな」


 リナは、ふう、と息をついた。完全には納得していない顔。だが、

否定もしきれていない。


「そういえば、あの板作った日、次はぐる風も使うとか言うてへんかった?」


 リナが、ふと思い出したように尋ねる。昨日の記憶を辿るような、

少し遠い目をしていた。


「はい」


 メリアは短く頷いた。


「有言実行や……」


 リナは、感心したように呟いた。


 干し場の奥で、風が回っていた。ぐる風。ぶぉぉ、と低く安定した

音を立てている。


「……またあれ使うん?」


 リナが少しだけ警戒した声で言う。


「組み合わせます」


 メリアは短く答えて、布を持ち、風の流れに近づけた。風が当たると、

布が大きく揺れる。ばさ、ばさ、と音を立てた。


「おお……なんか、それっぽいな」


 リナが目を細めて、ぼそりと呟く。乾き始めた布からは、日向のような、

ほんのりと温かい匂いが立ち始めていた。


「これ、うちにも使こうたら乾くかな」


 リナが、自分の袖を持ち上げて風に当ててみる。案の定、何も起こらない。


「人間には効かない」


 メリアが、素っ気なく言った。


「わかっとるわ!言うてみただけや!」


 リナが、赤くなった顔で布を放り投げるように干した。


(風で水滴の周りの空気を入れ替えてるんだよ。飽和した空気を、

乾いた空気に押し流してる。湿った空気のままだと、そこで蒸発が

止まっちゃうから)


 れもんの説明に、メリアは小さく頷いた。リナには聞こえない

頷きだった。


(メリアも、前世でこういうの好きだったよね。

洗濯物、やたら効率化しようとしてた)


 少しだけ、懐かしそうな声だった。


「……そうだった、かも」


 小さく答える。曖昧な記憶の中に、似たような朝の光景が重なった

気がした。


 時間が、少しだけ流れた。リナが再び布に手を伸ばす。


「……あれ?」


 首を傾げ、もう一度触る。軽い。明らかに、さっきよりも。


「さっきより軽ない?」


「水は、動くと逃げやすい」


 メリアが同じ説明を繰り返す。


「理屈はええ!で、早いんやな?」


「はい」


 そこへ、女将が近づいてきた。


「どないしたん?」


「これ触ってみ!」


 リナが布を差し出す。女将は、そっと手に取って指先で確かめた。


「……ほんまやな。確かに、早いわ」


 静かに頷く。


「なんでこないに早うなるん?」


 女将が、興味深そうに尋ねた。


「風で、水を追い出してます」


 メリアが短く答える。


(正確には、飽和した空気を入れ替えて蒸発を促進してるんだよ)


 れもんが補足するが、その声はメリアにしか聞こえない。


「つまり、風あてたら空気も入れ替わって、

水が逃げやすなるっちゅうことやな?」


 リナが、いつものように言い換えた。


「はい」


 メリアが頷く。


「あんたら二人、息合うてきたなぁ」


 女将が、くすりと笑った。


「今日中に、全部の部屋のシーツも乾かせそうやな」


 女将が、干し場に並んだ布を見渡しながら言う。


「はい」


 メリアは頷いた。


「時間、半分以下に」


「そら助かるわ。夏場の湿気にはいつも往生しとったからなぁ」


 女将は、干し場を見渡しながら、しみじみと呟いた。長年の悩みが、

こんな形で片付くとは思っていなかったのだろう。その横顔には、

素直な驚きが浮かんでいた。


「せやろ!」


 リナは、布を持ったまま、得意げに胸を張って笑った。


「今日、めっちゃ楽やったわ。腕も背中も全然平気やし」


 腕をくるくると回す。


「これ毎日やったら全然ちゃうで?」


 実感のこもった声だった。


「小さいですが、続く」


 メリアが少しだけ考えてから言った。


「うちにはデカいわ!」


 リナが笑いながら返す。その声は、明るかった。


 メリアは、小さく首を傾げた。


「デカい?」


「デカいねん!うちにとってはめっちゃデカい話やねん!」


 リナが力説する。その勢いに、メリアは小さく瞬きをした。


(すごい熱量だね)


 れもんが、感心したように呟く。


「……そう」


 メリアは、それだけ答えた。


 乾いた布の温もりに、れもんが小さくはしゃぐ気配がした。


(あったかい。この匂い、好き)


「布に、鼻付けないで」


 メリアが、小さく釘を刺す。


「何の話?」


 リナが、不思議そうに首を傾げた。


「なんでもない」


「今日、もう何枚目やろ……数えるの諦めたわ」


 リナが、干し場に並んだ布を見渡しながら笑う。


「十七枚」


 メリアが、静かに答えた。


「数えとったんかい!」


 リナが、思わず声を上げる。


(記録は取っておいた方がいいからね)


 れもんが、涼しい声で言った。


「これ、うちだけやのうて、近所にも教えたろか」


 女将が、ふと呟いた。


「教えるん、大変そう」


 リナが顔をしかめる。


「せやかて、困っとる人ぎょうさんおるやろしなぁ」


 女将は、干し場を眺めながら、それだけ言った。その声には、

商売っ気のない温かさがあった。


 夕方。裏庭は、やわらかな光に包まれていた。干された布は、

どれも軽くなっている。ぐる風が、まだ静かに回っていた。


 リナが、それを見上げる。


「地味やけどな」


 少しだけ、真面目な声だった。夕暮れの光が、その横顔を淡く

染めていた。


「……うん」


 メリアが、静かに答えた。


(地味だけど、確実。こういうのが一番強いんだよ)


 れもんが、珍しく静かな声で言った。


「……そうかも」


 小さく呟く。リナには、独り言にしか聞こえなかった。


「また何か言うた?」


「なんでもない」


 メリアは首を振り、水の抜けた布へと視線を戻した。前世で、

こんな小さな積み重ねを面白いと思ったことがあっただろうか。

思い出せない。だが、今はこの地味な工夫が、確かに楽しかった。


(また今日も一個、便利になったね)


 れもんが、満足げに言う。


「……うん。明日は、もっと」


 小さく呟く声は、独り言のようでいて、確かにれもんへの返事だった。


 リナが、横であくびを噛み殺しながら伸びをする。


「明日はゆっくり寝かせてぇな……」


 誰にともなく零した言葉に、メリアは小さく笑った。


 もっとも、この乾きの早さも、季節によっては話が変わってくるだろう。

冬になれば、風は冷たく、乾きも遅くなる。その時はまた、別のやり方を

考えればいい。今はまだ、そこまで心配する必要はなかった。


 明日も、同じような朝が来るのだろう。桶を運び、絞り、風に当てる。

地味で、代わり映えのしない作業。それでも、昨日より少しだけ楽に

なっている。その積み重ねが、確かに月兎亭の朝を変えていた。


 洗濯物に染み込んだ日の匂いが、裏庭に満ちていた。柔らかな風が、

布を静かに揺らしていた。

挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。