水も回せる
裏庭。
朝の洗濯が終わったあとも、桶の水はまだ残っていた。静かな水面。
光が揺れている。乾いた布はすでに横木に移され、あとは残り水を捨てる
だけのはずだった。裏庭には、洗い終えた布の湿った匂いがまだ薄く
漂っている。
メリアは、その前に立っていた。じっと見ている。考えるでもなく、
ただ観察するように。水面に映る自分の影が、かすかに揺れていた。
「……水も回せる」
ぽつりと、呟いた。
「また回すん!?」
リナが、がばっと顔を上げた。
「ぐる風で味しめたやろ!絶対そうやろ!」
まだ乾ききっていない布を几帳面に畳みながら、じとっとした目で
メリアを見る。
びしっと指を差す。メリアは否定も肯定もせず、桶の縁に手を置いた。
視線は水面のまま。
「試す」
「試すって……」
リナは眉をひそめる。だが、その顔にはすでに諦めの色が混じっていた。
「……まぁ、ええけど。どうせ止めてもやるんやろ」
正解だった。
(じゃあ、まず出力を確認しよっか。初期値のままだと、たぶん強すぎる)
れもんの声が、頭の中で静かに届く。技術的な、いつもの口調だった。
「……初期値?」
メリアが、小さく聞き返す。
(うん。前に生活魔法組んだ時のパラメータ、まだ残ってるよ。あれ、
洗濯には強すぎると思う)
「わかった」
頷いて、メリアはゆっくりと魔力を流した。集中するように、わずかに
目を細める。指先に、ほんの少しだけ力を込めた。
水面が、わずかに揺れる。最初は、湖面に石を投げたときのような、
静かな波紋だった。中心から外側へ、規則正しく広がっていく。
次の瞬間。
ばしゃっ!
「うわっ!!」
波紋はあっという間に膨れ上がり、水が跳ねた。勢いよく外へ飛び散り、
リナの頬に直撃する。
「ちょ、ちょ、ちょ!跳ねる跳ねる!!」
慌てて後ずさる。
「うちが洗われとる!洗濯されとる側や!」
桶の中では、水が偏った方向へ流れ、布が一気に片側へ寄る。ぐらり、と
桶が揺れる。
「桶ごと回すなや!!」
(流速過多。ほら、言わんこっちゃない)
れもんの声が、少し呆れたように届いた。
メリアは、すぐに魔力を引いた。水の動きが止まり、波だけが残る。
しばらくして、静まる。
「ちょっと待って、うちも真似したろ」
リナが、袖をまくって桶に手を突っ込んだ。ぐるぐると腕を回してみる。
だが、水はただ濁るだけで、渦にはならない。
「……なんで回らへんの」
不満げに手を止める。
「魔力、ない」
メリアが、素っ気なく答えた。
「そらそうやろけども!」
リナが噴き出すように言い返す。
「そもそも、なんで急に回そうとか思ったん?」
濡れた腕を拭きながら尋ねる。
「桶の中、いつも同じ場所ばかり汚れが残る。均等に、動かせば」
メリアは、短く答えた。
(洗い残しのムラをなくしたいってことだね。これ、応用すれば鍋の
かき混ぜとか、染料を混ぜる作業にも使えそう)
れもんが、思いつくままに続ける。
「気が早い」
メリアは、小さく釘を刺した。
(そういえば、そろそろ糖分切れてない?)
れもんが、心配そうに尋ねる。
「まだ平気」
メリアは、軽く答えた。だが、お腹の奥が、かすかに空腹を訴え始めて
いた。
「なんか、お腹鳴った?」
リナが、耳ざとく気づく。
「聞こえてない」
澄まし顔で誤魔化した。
「また何か企んでるん?」
リナが胡乱げに目を細める。
「まだ、何も」
澄ました顔で返した。
メリアは、再び水面を見た。今度は、少しだけ慎重に。魔力を細く、
均一に流す。中心を意識する。
(そう、その感じ。さっきより全然安定してる)
れもんの声に、少しだけ満足そうな響きが混じった。
水が、ゆっくりと動き始めた。
最初は、わずかな回転だった。桶の中心に、小さな渦が生まれる。広がる。
布が、引き寄せられるように動く。今度は、跳ねない。揺れも、少ない。
流れは、安定していた。
「……お?」
リナが、恐る恐る近づく。水の中で、布がくるくると回っている。
ぶつかり、擦れ合う。自然な動き。人の手を介さない、均一な力。泡が、
少しずつ立ち始める。
水面には、細かな渦の筋が幾重にも重なって見えた。まるで、誰かが
丁寧に糸を撚っているような、静かで規則的な模様だった。
「……え?」
リナは、そっと手を離した。何もしていない。だが、布は動いている。
「勝手に揉まれとる……?」
ぽかん、とした声。
「水が動いてる」
メリアが言った。それだけ。
(渦の形、きれいな対称になってる。これ、記録しておきたいな)
れもんが、興味深そうに呟く。
リナは腕を組んで、しばらくその様子を眺めた。布同士が擦れる音。
水の回る音。規則的な動き。
「……ちょっと賢ない?」
ぽつりと呟く。誰に向けたわけでもない言葉。だが、その中には確かな
評価があった。
しばらくして、メリアは魔力を止めた。
水の回転が、ゆっくりと弱まり、やがて止まる。布は、静かに沈んだ。
台所の窓から、女将がちらりとこちらを見ていた。何かを察したように、
小さく笑って、また作業に戻っていく。何も言わず、何も試さず。
それだけで、十分だった。
リナが、腕を組んだまま言う。
「うち、何もしてへんのに洗われとるな」
不思議そうな顔。少しだけ、笑っている。心底、腑に落ちていない
様子だった。
「水が動いてる」
メリアが返す。同じ言葉。
「うちより働き者やな」
軽口。だが、その視線はどこか真面目だった。桶の中の水を見る。
ただの水。さっきまで自分が必死に相手していたもの。それが、今は
勝手に仕事をしている。
「これ、風呂の水にも使えるん?」
リナが、興味津々に尋ねる。
「まだ、小さい水だけ」
メリアは、慎重に答えた。
「大きい水は、制御が難しい」
(規模が大きくなると、必要な出力の桁が変わってくるからね。
今の精度だと危ない)
れもんが補足する。
「危ないって、どんな風に?」
リナが、少し身を引く。
「知らない方がいい」
メリアは、それだけ言った。少しだけ、目を逸らしながら。
その静けさに、リナはそれ以上聞かなかった。だが、目だけは、まだ
興味津々にきらきらとしていた。
「……なんやこれ」
小さく呟く。理解はしていない。だが、便利だということだけは、
はっきりしていた。誰に教わったわけでもない発見が、少しだけ
誇らしくもあった。
メリアは、布を取り上げた。濡れた重みが、手のひらにずっしりと伝わる。
滴が落ちる。ぽた、ぽた、と地面に音を立てる。
リナが、覗き込む。
「……で? これどうすんの?」
布は、びしょびしょだった。
「結局、絞らなあかんやん」
現実的な指摘だった。
メリアの手が、止まった。水滴を見る。落ちる。繰り返す。しばらく、
動かない。何かを考え込むように、じっと動かない時間が続いた。
(水を回すのは得意になったけど、絞るのはまた別の力の使い方だね)
れもんが、他人事のように呟く。
「……押せばいい」
ぽつりと、言った。
「今さら気付いたん!?」
リナが間髪入れずにツッコんだ。思わず声が裏返る。今日一番の
大声だった。
メリアは、静かに首を傾げた。その視線は、まだ水に向いている。
考えている。次の一手を、じっくりと。
(回すのも、押すのも、結局は力の向きを整えるだけなんだけどね)
れもんが、静かに呟く。誰に言うでもない、独り言のような声だった。
「……そうかも」
小さく答える。
リナは、そんな二人のやり取りには気づかず、桶を覗き込んだまま
何度も頷いていた。
リナは、腕をぶらぶらさせながら笑う。
「ほんま……怖いわ」
だが、その声には、どこか期待が混じっていた。桶の中の水面は、
もうすっかり静まり返っていた。




