朝から修行かいな
朝。
月兎亭の裏庭には、まだ客の気配がなかった。空気はひんやりと
していて、井戸から汲み上げたばかりの水が、桶の中で静かに揺れて
いる。朝の光は低く、建物の影が長く地面に落ちていた。木桶がいくつか
並べられ、その横には洗濯用の布が積まれている。どこからか、鳥の
鳴き声がかすかに聞こえていた。
リナは、そのうちの一つに手をかけた。
「……よいしょ、っと――」
持ち上げた瞬間、思わず声が弾けた。
「重っ!!」
水がなみなみと入った桶は、予想以上の重量だった。腕に一気に負荷が
かかり、バランスを崩しそうになる。
「ちょ、ちょ、ちょ……!」
慌てて踏ん張ると、水面が大きく揺れ、少しだけ外へとこぼれた。
「これ絶対修行やろ!!」
叫びながら、なんとか桶を地面に戻す。肩で息をしながら、リナは
顔をしかめた。
「ウチ、宿屋の看板娘やんな?なんで朝から山籠りみたいな
ことしてんねん……!」
その言葉に、背後から柔らかい声が返る。
「はは、まあまあ」
女将が、静かに笑っていた。
「看板娘いうてもなぁ、手ぇ動かさな宿は回りまへんえ」
どこか穏やかな京都の響き。無理強いはしないが、逃げ道も用意しない
声音だった。
リナはぐったりと肩を落とす。
「……いや、理屈はわかるけどな?重いもんは重いねん……!」
女将は微笑んだまま、何も言わなかった。
布を水に沈めると、じわりと水が染み込み、重さがさらに増した。
「うわ、もうこれで重くなるん!?聞いてへんて!」
文句を言いながら、両手で布を掴み、揉む。押す。ひねる。水の中で
布が抵抗を返してくる。
「つめた……!」
布から伝わる水の冷たさに、リナが小さく震える。
「朝の水って、なんでこんな冷たいんやろな」
(気温が下がると、水も一緒に冷える。地面の温度が伝わりにくい
井戸水は、特に冷たいままなんだよ)
れもんの声が、静かに届く。
「……昼になれば、少し温い」
メリアが、ぽつりと言葉を継いだ。
「昼まで待ってくれへんかな、この仕事……」
リナがぼやきながら、また布を掴んだ。
「かたっ……!」
思った以上に力がいる。指先に力を込めると、腕全体に負荷が伝わった。
それでも手を止めずに、揉む、押す、ひねるを繰り返す。単純な動作の
反復が、じわじわと体力を削ってくる。額に、うっすらと汗が滲んだ。
「はぁ……はぁ……」
息をつきながら手を止めると、視線の先にメリアがいた。少し離れた
位置から、静かに、観察するようにこちらを見ている。
リナは、ふっと笑った。
「昨日ぐる風作って浮かれてたけどな。現実はこれや!」
布をもう一度押し込むと、ばしゃ、と水が跳ねた。その拍子に、リナの
腰が変な方向へ逸れる。
「ってて……!」
小さく声を上げて、腰に手を当てた。
(腰、入ってないよ。もっと膝を曲げて、重心を下げた方が楽になる)
れもんの声が、メリアの頭の中に届く。
「……膝、曲げて」
メリアがぽつりと言うと、リナが顔を上げた。
「は? 急に何」
「腰、痛める」
短い忠告だった。リナは半信半疑のまま、言われた通りに膝を曲げてみる。
次の瞬間、桶を持ち上げる動作が、さっきよりも幾分か楽になった。
「……あれ?ちょっとマシかも」
驚いたように呟く。
(てこの原理だよ。重心が近いほど、力が要らなくなる)
れもんが得意げに説明を続けようとする。
「その話は、いい」
メリアが小さく制した。
「また独り言?」
リナが胡乱げな目を向ける。
「気のせい」
澄まし顔で返した。
「まあ、なんかようわからんけど、助かったわ。ありがとうな」
リナが、素直に礼を言う。
メリアは、小さく頷いた。それだけで、十分な返事だった。
布を両手で掴み、ぎゅうううう、と力を込める。水が滴となって落ち、
ぽた、ぽたと地面に小さな音を立てた。
「……っ、ぐ……!」
腕が震え、握力が徐々に抜けていく。
「ここや……!ここが一番きつい……!」
さらに力を込める。ぎゅう、ともう一段。水が絞り出され、腕が
ぷるぷると震えた。
「一番大変なのは?」
横から、静かな声がした。メリアだった。
リナは顔をしかめたまま答える。
「絞りや!ここで体力全部持ってかれる!
洗うんはまだええねん!問題はここや!」
もう一度、ぎゅう、と力を込める。メリアは頷きもせず、ただ聞いていた。
リナの腕の震えを、水の落ちる速度を、静かに見つめている。
(体力の消費、絞りの工程が一番大きいっぽいね。データ取っとく?)
れもんの声が、頭の中で届いた。誰にも聞こえない、メリアだけの声。
「……いい。今は見るだけ」
小さく呟いた声は、リナには独り言にしか聞こえなかった。
「え、何が?」
「なんでもない」
メリアは短く答えて、視線を桶の中へと戻した。水面。そこに映る光。
布が引き上げられたあと、わずかに残る揺らぎ。そして、布から落ちる
水滴が、ぽた、ぽたと一定の間隔で落ちている。
「……水、動いてない」
ぽつりと、呟いた。
「いや動いとるやろ!ウチが動かしとるやん!」
リナが顔を上げる。
「違う」
短い否定。メリアの視線は、水面から離れない。
「動いているのは、布。水は、落ちているだけ」
(表面張力が水滴の形を保ってるだけだよ。一番小さい形になろうとするから
丸くなる。あとこれ、応用したらもっと――)
れもんが、少し嬉しそうに続けようとする。
「その話は、あとで」
メリアが小さく遮った。
「あとでって、誰に言うてるん?」
リナが眉をひそめる。
「独り言」
澄ました顔で返す。リナは一瞬言葉に詰まり、言い返そうとして手元を
見た。絞っている布。そこから落ちる水。自分は布を動かしているだけで、
水そのものを動かしているわけではない。
「……あれ?」
違和感がほんの少しだけ浮かぶ。だが、それを言葉にする前に、腕の
疲労が思考を押し流した。
「いやいやいや!理屈はええねん!しんどいもんはしんどい!」
首を振って、ぎゅう、と絞る。メリアは何も言わなかった。
洗濯が終わる頃には、日が少し高くなっていた。桶の水は減り、布は
横に干されている。ぐる風がゆっくりと回っていた。いつもの音。いつもの
風。
リナは、その場に座り込んでいた。
「……終わった……」
腕をぶらぶらと振る。
「明日絶対筋肉痛やわ……」
情けない声だった。だが、どこか満足感も混じっている。全部やりきった、
という種類の疲労だった。
メリアは、まだ桶の中を見ていた。残った水。静かな水面。光の揺れ。
風もないのに、水面はほんのわずかに震え続けている。
(また観察してる。メリアは、水を見るの好きだね)
れもんが、呆れたように呟く。
「好きなわけじゃない」
メリアは小さく答えた。ただ、目が離せないだけだった。理由のない
懐かしさが、水面の揺らぎに重なる。前世の記憶の、どこか遠い場所に
ある景色。
(懐かしいから?)
れもんの声が、少しだけ柔らかくなった。
「……かもしれない」
リナがその様子に気づく。
「……またなんか考えてる顔やな?」
少しだけ身を乗り出す。
メリアは、ゆっくりと顔を上げた。
「少しだけ」
リナは、じっとその顔を見る。そして。
「怖いわ!」
即座に言った。
メリアは、わずかに首を傾げる。その視線は、再び水面へと戻る。何も
語らない。ただ、静かに見つめている。
(怖がられてるよ)
「……うん」
空はすっかり青く澄み渡っていた。雲ひとつない、気持ちのいい朝だった。
こんな朝が、これからも続いていくのだろう。特別なことは、何もない。
ただ、洗濯物と水面と、隣で笑うリナがいるだけ。それだけで、十分だった。
朝の光が、水面に揺れていた。




