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乾かへん!

 朝。月兎亭の裏庭は、空気が淀んでいた。


 秋に入ってからも雨の日が続いていた。昨夜も降った。湿り気が路地の底に

溜まったまま抜けていない。石畳が湿っている。壁が湿っている。積み上げた

木箱の角にも、うっすらと水気がついていた。葉が色づき始めた頃合いなのに、

空はまだ白く重い。


 物干しロープに、洗濯物が並んでいる。揺れていない。垂れている。シャツ。

布巾。分厚い作業着。どれも重そうに、だらりと。朝日がかろうじて差しては

いるが、その光もどこか湿った色をしていた。


 女将がロープの前に立っていた。両腕を組んで、静かに見ている。困って

いる顔だが、騒がない。ため息ひとつ。それだけ。


「乾かへん!」


 リナが叫んだ。


 手をかざす。風が来た。ぶわ、と一瞬。布が揺れる。


 ……それだけ。


 すぐ止まる。布は揺れをやめて、また垂れる。さっきと変わらない。


「なんでや!」


 もう一度。ぶわ。揺れる。止まる。揺れる。止まる。


「乾かへん!!」


 メリアは少し離れて、見ていた。


――


「強めるで!」


 リナが構えた。足を開いて、両手を前に出す。気合いが入っている。


 集中。


 風が強くなった。布がばさっと揺れる。大きく。ロープがきしむほどに。

端の方の作業着が、ほとんど水平になりかけた。でも止まった。布は重く

落ちる。濡れたまま。


「なんでやねん!」


(風速不足。持続不足)


 れもんの声が、メリアの耳の奥に届いた。


 メリアは洗濯物を見たまま、小さく言った。


「……回したほうがいい」


「何を!?」


 リナが即座に振り返る。


「空気」


「もう回っとるやろ!風出しとるやん、ちゃんと!」


「一方向」


 リナが止まった。


「……は?」


――


 メリアは物干しロープの前に進んだ。手をかざす。目を少し細める。


 空気の流れを、なぞっている。目には見えない。でも、指の腹に微妙な

温度差がある。湿った空気は重い。重いものは下に溜まる。


「湿った空気が、ここに溜まる」


 布の周りを、指でなぞるようにして示した。


「動かない」


 リナが眉を寄せる。


「当てるだけだと、逃げない」


「難しいこと言わんといて!」


「……ぐるっと」


「擬音やめて!」


 即座に来た。


 メリアは少し首を傾げた。擬音のつもりはなかったのだが、うまく言葉が

出なかった。


「回せば、入れ替わる」


「回すって、どういうことや」


「風を当てて押し出すだけでは、押された空気の行き先がありません。

でも渦を作れば、湿った空気が出て、乾いた空気が入る。入れ替わる」


 リナは少し考えた。


「……それ、つまり」


「湿気が逃げる」


(循環さえ起きれば湿度は下がる。理屈としては通ってる)


 れもんの補足が来た。


 リナは洗濯物を見た。風を当てる。ばさっ。止まる。また湿る。


「……あかん」


 肩を落とす。


 女将が静かに言った。


「風が来んときは、いつもこうどす。今年は秋雨が長うて」


「秋なのに、乾かない」


「葉が落ちる前に片づけてしまいたいんどすけど、なかなか」


 メリアは少し考えた。


「……秋の雨は、粒が細かい」


「そうどすね。しっとりと染み込みますわ」


――


 メリアは、昨日の紙を思い出していた。


 小さな店。眼鏡の女店主。棚に並んだ陣紙。使ったあとただの白になった

紙。一瞬だけの風だった。でも確かに、風だった。強くて、本物だった。

続かなかっただけで。


「……一瞬だけなら、動く」


 小さく言った。


(問題は持続の方)


 れもんが言う。


「そう。回し続けられたら」


「何を?」


 リナが即座に聞く。


「風を」


「どうやって!?」


 強めのツッコミが来た。


 沈黙。少しだけ。リナがもう一度、風を出す。ぶわ。布がばさ、と揺れる。

止まる。


「もうええ!」


 手を下ろした。肩で息をしている。額に汗が光っている。


「自然乾燥でええわ!昼まで待てば、少しはマシになるやろ!」


 女将が静かに頷いた。


「毎年そうしとります」


 リナが地面に座り込んだ。


「魔法やのに、洗濯物も乾かせへんて、どういうことやねん」


「魔法は万能じゃない」


「それはわかっとる!でも悔しいやろ!」


――


「……回せばいい」


 メリアは小さく言った。


「だから何を!」


 リナが地面から顔を上げて、食い気味に返す。


 メリアは少し考えた。本当に少し。


「……羽根」


「は?」


 完全に止まった。リナが固まる。女将も手を止める。


「羽根を回すと、風が起きます。風が起きれば、空気が動く」


「……それって」


「持続させるには、何かで回し続ける必要があります」


「何かって」


「水か、風か」


(回転機構。水力か風力で駆動するのが現実的)


 れもんの声が、静かに続いた。メリアはそれを聞きながら、裏庭の隅に

目をやった。昨夜の雨水が溜まっている。雨樋から落ちたものが、そのままに

なっていた。落ち葉が一枚、水面に浮いていた。


 リナが目を細めた。


「……また変なん作る気やろ!?」


 メリアは否定しなかった。


「回せば、乾く」


 短く言った。


 リナがため息をついた。長い。盛大な。


「絶対また巻き込まれる」


「助かります」


「頼んでへんわ!」


 女将が小さく笑った。静かに、品よく。どこか楽しそうだった。


「楽しみにしてますわ」


「おかんまで!」


 裏庭に、リナの声が響く。


 風は、止まったままだった。洗濯物は、まだ乾いていない。


 でも次に動くのは、空気ではなかった。

挿絵(By みてみん)

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