もったいない紙
港は、にぎやかだった。
昼の光が石畳に反射する。荷を運ぶ男たちの声。呼び込みの合いの手。
焼きの匂い。白い線の乗った皿が、あちこちで運ばれていく。ピッツァ
ルクスは、もう街の一部だった。誰も特別とは思っていない。ただ、
そこにある。生活の続きとして、そこにある。
港に面した通りには、今日も魚の値段を巡る口論と、水夫たちの笑い声と、
どこかで鳴っている弦楽器の音が混ざり合っていた。魔法の灯りが昼間でも
いくつか点いている。石壁の出っ張りに、小さな火の玉がついたまま、誰にも
気にされないまま揺れていた。
生活の延長線上に、魔法がある。この街では、それが当然だった。
メリアは歩いていた。特に目的はない。ただ、見ている。
――
路地に入った。
風が弱くなる。通りの喧騒が、壁に吸われて遠くなる。石畳の隙間に苔が
生えている。空気が重い。湿り気が残っている。見上げると、洗濯物が軒から
軒へ渡したロープに引っかかっていた。シャツ。布巾。子どもの靴下。どれも、
だらりと垂れている。動かない。風が来ない路地だった。
通り過ぎる人も少ない。積まれた木箱。猫が一匹、日陰で目を細めていた。
その中で、足が止まった。
――
小さな店だった。
看板はない。ただ、窓の内側に紙が並んでいる。整然と。棚の上に、立て
かけられるように。火。水。風。同じ大きさで、違う紋様。陽の光が斜めに
差して、紙の表面に細い影が走っていた。
扉を開けると、鈴が鳴った。
奥から、女が顔を上げた。四十に届くかどうかという年頃だった。目元に
細い皺がある。髪は後ろで無造作にまとめられていて、こめかみのあたりに
白いものが混じっている。眼鏡をかけていた。丸い、小ぶりな眼鏡。それ
越しに、こちらをじっと見る。値踏みではない。ただ、観察している。
「うちは魔道具屋さ」
女が言った。
「見るだけでもいいし、買うつもりがないならそう言っとくれ」
愛想はないが、追い出す気もなさそうだった。
――
メリアは棚に近づいた。
一枚、手に取る。風の陣紙だった。紙の表面に細い線が走っている。
規則的に、簡略化された式。指でなぞる。
「……きれい」
小さく言った。
女が眼鏡の位置を直した。
「式のことかい?」
「いえ」
メリアは首を振った。
「割り切り方が」
線が短い。必要な部分だけ残して、後は削られている。省いている。
それでも、式として成立している。
(恒常化できる可能性はある。でも簡易式だし、効率は低い)
れもんの声が、耳の奥に届いた。
「わかってる」
女がこちらを見た。独り言を言う客として、特に気にした様子はない。
「一度きりさね」
女は短く言った。
「使ったら終わり。終わったらただの紙さ」
「……それでいい、ということですね」
「当然だよ」
即答だった。
――
女は立ち上がって、棚の奥から別の陣紙を取り出した。火の式。水の式。
並べて見せる。
「うちで一番売れるのは火だ。料理人が買う。次が風。船乗りが買う。
水は少ない。井戸が多いから要らないんだろう」
「何度も使えるものは作れないんですか」
女が眼鏡の奥で目を細めた。
「作れないことはないさ」
「でも?」
「何度も使えたら、商売あがったりってことさ」
当たり前のように言った。笑いもしない。揶揄でもない。ただの事実として。
メリアは少し黙った。否定しない。でも視線は紙に残る。式を追う。短い。
すぐ終わる。構造は単純だ。省かれた部分を読もうとする。どこを削ったのか。
何を捨てたのか。
「短い」
メリアが言った。
「だから安い」
女が返す。
「この値段でなければ、水夫は買わない。料理人も買わない。式が長くなれば
紙も高くなる。そういうものさ」
メリアはもう一度、線をなぞった。
「……長く続いたら、楽なのに」
誰にも向けていない声だった。
女が、少し間を置いた。
「あんた、魔法師?」
「いいえ」
「でも式が読める」
「少しだけ」
女は何か言いかけて、やめた。代わりに、棚から別の一枚を抜いて、
カウンターの上に置いた。
「これ、試作だ。買うかい?」
「……何が違うんですか」
「線が一本多い。もう少しだけ長く続く。でも値段は三倍になる」
メリアは二枚を見比べた。
「……買います。最初の一枚を」
「安い方か」
「高い方を一枚買っても、一回限りは変わりません」
女がわずかに口の端を動かした。笑ったのかもしれなかった。
「賢い娘だね」
「いいえ」
メリアは硬貨を置いた。
「もったいないと思っているだけ」
――
店を出ると、鈴が鳴った。外は少し明るい。路地の空気は、変わらず
重かった。同じ路地を戻る。石畳の苔。猫はもう消えていた。洗濯物が、
まだ垂れている。
「……風、止まってる」
メリアが言った。
(路地の形のせいで、風が抜けない。循環不足。乾くまで時間がかかる)
れもんが返した。
歩く。宿へ戻る。足音だけが石畳を叩く。何も変わらない景色。でも
紙だけが、指の間で少し重かった。
――
月兎亭の裏庭に人はいなかった。静かだった。物干しのロープが張られて
いる。布がかかっている。やはり動かない。
メリアは紙を取り出した。風の陣紙。軽い。指で持つと、それだけで
わずかにしなる。紙の表面の式は、日の光の下でも変わらない。細く、
短く、省かれている。
一呼吸おいて、発動した。
ぶわ、と。一瞬。
風が走った。物干しの布が揺れる。髪が動く。空気が流れる。路地の
向こうから、乾いた匂いが来た。
止まった。すぐに。
紙は、ただの紙になっていた。色も、力もない。さっきまであった細い
線が、消えている。ただの、白。
メリアはそれをしばらく見ていた。
「……早い」
(一回分の出力に全部を使い切る式。溜めておく作りじゃない)
れもんが言う。
「……続いたら、便利なのに」
小さく言った。風は、確かにあった。一瞬だったけれど、本物だった。
物干しの布はまだわずかに揺れている。でもそれも、すぐに止まる。
続かない。
メリアは紙を折った。一度。二度。丁寧に。角を合わせて、ゆっくりと。
折り終えた紙を、上着のポケットに入れた。捨てない。何かに使うつもりが
あるわけでもない。ただ、捨てる気になれなかった。
もったいない、とまだ思っていた。空気は、また止まる。物干しの布は、
動かない。裏庭は静かだった。
でも頭の中だけが、少し動いていた。短い式。省かれた構造。一度きりの
放出。続けるためには、何が要るのか。答えは出ない。出なくていい。今日の
ところは。
ただ、問いだけが残った。




