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白き革命

 酒場の昼は、忙しかった。窯の前で火が回る。ドームの内側を、静かに

流れている。焼きは安定している。匂いで人が寄る。席は埋まり、皿は

すぐに空になる。


 ガドが腕を組んでいた。分厚い腕が、胸の前でひとつの塊になる。眉が

寄っている。


「……うまいが」


 一口、かじった。噛む。もう一口。


「少し重いな」


 隣の常連が頷く。港仕事の帰りらしく、日に焼けた顔に塩の匂いがまだ

残っていた。


「油が強ぇ」


「十分うまいやん」


 リナが首を傾げた。口の端にトマトソースがついている。気にしていない。

メリアは一口食べた。舌の上で転がす。少しだけ考える。油の甘さが先に

来て、後に引く。悪くはないが、何かが足りない。


「酸味が不足してる」


 短く言った。


「酸味?」


 ガドが眉を上げる。


 メリアは棚から瓶を取った。透明な液体。澄んでいる。ほんの少しだけ、

皿の上に垂らした。じゅ、と音がした。油の上で弾かれる。広がらない。

まとまらない。表面で浮いたまま、分離している。


「なんだこれ?」


「混ざりません」


「このままでは使えねぇ」


 ガドが顔をしかめる。リナが不思議そうに覗き込む。


「何を作るつもりやの?」


 メリアはすでに次の手を考えていた。


     ⸻


 卵を割った。


 黄身だけを残す。白身は使わない。器に静かに落とす。そこへ、油を

ほんの少し。酢を少し。


 メリアは混ぜ始める。ゆっくり。一定に。止めない。


(攪拌速度、不十分。油分の添加量を絞って)


 れもんの声が、頭の中で来た。


「わかってる」


 外からは独り言だ。速度は変えない。ゆっくりと、糸を引くように油を

足す。垂らすように。混ぜながら足す。足しながら混ぜる。焦らない。

急がない。


「……まだ混ざっとらんで」


 リナが横から覗く。


「今は分離していても構いません」


 ガドが黙って見ている。酒場の喧騒が、いつの間にか遠くなっていた。

混ぜる。油を足す。混ぜる。分離が、消えた。


 とろり、と変わった。白く。艶が出る。器の底で、ゆっくりと動く。

生き物のように、重く、なめらかに。


 空気が、静かになった。ガドが、リナが、常連が、じっと見ている。


「……なんだそれ?」


「乳化です」


 メリアは短く答えた。


「油と酢は本来混ざりません。ですが黄身が仲立ちをする。混ざるはずの

ないものを、つないでくれる」


 ガドは黙って器を取った。指で少しすくう。舌に乗せる。噛まずに、

ただ感じる。


 一拍。


 何も言わなかった。だが顔が変わっていた。


     ⸻


「名前だ」


 ガドが言った。


「呼び名がいる。これはなんて呼ぶ?」


 メリアは少し考えた。前世の記憶を探る。料理の本で見た名前の断片。

港の名前に由来するという説、貴族の厨房から来たという説、どちらが

正しいのかは分からない。


「呼称には諸説あります。マオンネーズ説、モイエネーズ説——」


「長いわ!」


 リナが即座に切り捨てた。


「そんなん覚えられへん!メリアちゃんはいっつもそういうむずいことを

言う!」


「知らねぇよ、そんなウンチクは」


 ガドが笑った。珍しく、豪快に。


 一拍の間があった。


「マヨだ」


「雑っ!」


「覚えやすい」


 メリアは頷いた。


(短縮名称、普及率上昇見込み)


 れもんの声が来た。


「マヨでいい」


 ガドが言い切った。


 リナはまだ不満そうだったが、口の中でそのまま繰り返している。


「……マヨ、マヨ、マヨ……うん、確かに言いやすいわ」


「決まり」


 メリアは言った。


 そうして、名前は決まった。


     ⸻


 焼き上がったピッツァルクスに、細く一筋。白い線が、赤の上を走る。


 ガドが腕を組む。


「……邪道だな」


「一口食べて」


 常連が手を伸ばす。一口、かじる。止まる。


「……うまい」


 もう一口。「軽い。なんか、軽くなってる」


「酸味が油の重さを切っています」


 ガドが食べた。一口だけ。しっかりと噛む。口の中でゆっくりと確かめる。

少しだけ目を細めた。


「……邪道だが」


 もう一度、噛む。


「うまいな」


 空気が変わった。どこかやわらかく、あたたかい方向に。


「嬢ちゃん、これはいい」


「ありがとうございます」


 メリアは静かに言った。


     ⸻


「もっとかけろよ!」


 若い船乗りが言った。港仕事の帰りらしい。日焼けした顔に、目だけが

明るい。席に着いたそばからマヨに興味を持って、もう三度目の催促だった。


「ええやん!」


 リナが笑う。


 マヨを足す。もう一筋。また一筋。さらに。


「横も!」


「縦も入れたら?」


「格子! 格子にしよ!」


「マヨビーム!」


 白が増える。ピッツァルクスが覆われていく。赤がほとんど見えなくなる。


 ガドが固まった。


「……やりすぎだろ」


 声が、低かった。


     ⸻


「素材の味が死ぬ!」


 ガドが言った。


「うまけりゃいいだろ!」


 船乗りが返す。一歩も引かない。


「うちは白派!」


 リナが手を上げた。高らかに、迷いなく。


 レオンが苦笑した。


「……極端だな、どいつもこいつも」


 メリアは少し離れて見ていた。赤と白。分かれていく。笑いながら、

主張しながら、それぞれの側に。


「文化は分岐します」


 静かに言った。


「最初はひとつのものが、好みによって、使い方によって、やがて別の

流儀になる。珍しいことではありません」


「賛否両論ってことか」


 レオンが言う。


「健全な状態です」


(対立指数、健全範囲内)


 れもんが補足した。


     ⸻


 それから、注文が重なるようになった。


「白いのくれ!」


「赤も一枚!」


 ガドは頭をかいた。盛大に。


「……増えたな」


 でも、焼く。赤と白を並べて焼く。両方が並ぶ。両方が選ばれる。

また焼く。また並ぶ。作ることに文句はなかった。うまいものが

増えるなら、それでいい、というような手の動き方だった。


 しばらくして、ガドはリナに言った。


「マヨを多めに仕込め。明日も要る」


「了解!」


 リナが弾んだ声で返した。それが答えだった。


     ⸻


 夜になった。酒場は落ち着いていた。昼の騒ぎが嘘のように、静かな

時間が流れている。火はまだ生きている。窯の奥で、小さく呼吸するように

揺れていた。


「俺は赤だ」


 ガドが言った。


「俺は白だ。譲らん」


 船乗りが笑う。


「両方や!喧嘩せんでいい!」


 リナが両手を上げる。


 レオンが肩をすくめた。


「贅沢だな、それは」


「選択肢が増えただけです」


 メリアは言った。


「どちらが正しいということではありません。赤が好きな人がいて、

白が好きな人がいる。それだけのことです」


「嬢ちゃんはどっちだ?」


 ガドが問う。


 メリアは少し考えた。


「……両方、好き」


「結局そっちかい!」


 リナが笑った。場が笑った。ガドも口の端を上げた。


 窓の外に、港の灯りが揺れている。波が光を砕いて、また拾って、

また揺れる。


(幸福量保存、安定)


 れもんの声が、ひっそりと届いた。


 赤と白。どちらも売れた。どちらも残る。ポルタ=ルクスの酒場に、

新しいものが生まれた。窯の火が作り、乳化が加わり、名前がついて、

分かれていった。誰かが始めたわけでもなく、誰かが終わらせたわけでも

なく、気づいたらそこにあった。


 ピッツァルクスは、完成した。

挿絵(By みてみん)

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