生活魔法
まだ暗い厨房に、火の気だけがあった。
月兎亭の朝は早い。女将が仕込みをしている。包丁の音。鍋の湯気。
油の匂いが静かに立ち上っていた。秋の夜明けは遅い。窓の外はまだ
群青で、港の灯りだけがぽつりと光っていた。
戸が開いた。
リナが入ってくる。
「……ねむ」
目をこすりながら歩く。椅子を引いて、どさりと腰を落とした。
「おはよう」
女将が言った。
「おはよ……」
リナはしばらくぼんやりしていた。それから思い出したように顔を上げた。
「あ、お母さん、昨日のやつ見せたるわ」
女将を見る。立ち上がって、手のひらを出す。少し集中する。空気が
揺れた。陽炎のような揺らぎ。鍋の上の湯気が、ふっと消えた。
女将は手を止めた。湯気が消えた鍋を見る。少しだけ目を細めた。
「……便利やなぁ」
それだけだった。
リナが笑う。
「せやろ!?これな、あったか風ブワーやねん!」
「名前なんか、どうでもええやろ」
「ええやん、別に!」
女将は鍋をかき混ぜながら、ちらりとメリアの方を見た。厨房の入口に、
いつの間にかメリアが立っていた。
「火、強すぎたら危ないえ。気ぃつけてや」
「制御可能」
メリアが言った。
女将は少し考えるような顔をした。
「ほんまかいな」
「均一に流すから、焦げない」
「ふぅん」
女将は鍋に視線を戻した。それ以上は聞かなかった。リナの母親らしい、
軽い受け方だった。
リナが腕を組んだ。
「うちら最強ちゃう?」
「調子乗ったらあかんで」
女将の即答が厨房に響いた。
リナは笑った。メリアは何も言わなかった。けれど、厨房を出るとき、
少しだけ口元が緩んでいた。
⸻
朝の食堂は、客が少なかった。
小さな宿だから、そんなものだ。常連の船乗りが一人、テーブルに座って
いる。濡れた上着を椅子の背にかけていた。袖口から水が垂れている。
「また濡れとるやん」
リナが言った。
「仕事や」
船乗りが笑った。
リナがにやっとした。
「ええもん見せたるわ」
手を出す。陽炎。上着の水気が、ゆっくりと消えていく。袖口から、
肩から、背中へ。五分もかからなかった。
船乗りが目を丸くした。
「……なんや、それ」
「生活魔法!」
リナが即答した。
メリアは奥のテーブルから聞いていた。生活魔法か……。リナが自然に
言った言葉だ。誰が決めたわけでもない。それでも、訂正する気には
ならなかった。悪くない名前だと思った。
船乗りが上着を手に取って触る。
「乾いとる……」
「せやろ?」
「魔法使いがおったんか、ここに」
「うちら二人おるで」
「二人!?」
リナは得意げだった。
メリアは何も言わなかった。ただ、その「二人」という言葉が、思って
いたより馴染むことに、少しだけ驚いていた。
⸻
昼になると、魚屋が来た。月兎亭の前で少し迷ってから、扉を開ける。
「ここでやっとるって、聞いたんやけど」
リナが顔を出した。
「あー、あったか風ブワー?」
「名前……それなんか……?」
「細かいこと、気にせんでええ」
魚屋は苦笑した。中に入る。
メリアは奥のテーブルにいた。魚屋と目が合う。
「ちょっとやって見せてくれんか」
メリアは頷いた。立ち上がって、手を出す。風を整える。細く、静かに。
流れを作る。そこへ熱を混ぜる。魚屋の手拭いが、じわりと乾いていく。
端から中へ、均一に。
「……ほぉ」
魚屋が唸った。
「どうやるんや?」
「風を先に作って、火を混ぜる」
「……なるほど?」
分かっていない顔だった。
リナが横から割り込む。
「イメージや!」
「イメージかぁ……」
魚屋は笑った。
「よう分からんけど、すごいな」
「魔法はイメージなので」
メリアが言った。
魚屋はその言葉をしばらく眺めるように黙っていた。
「……そういうもんか」
「そういうもの」
女将が奥から見ていた。何も言わない。でも、少しだけ口元が緩んで
いた。鍋をかき混ぜる手は、止まらなかった。
⸻
夕方になると、子どもが二人、店の前にいた。
「ほんまにやるん?」
「やるで」
リナがしゃがんだ。手を出す。陽炎。子どもたちの髪がふわりと揺れる。
「おおー!」
「すごー!」
子どもの一人が自分の髪を触った。
「あったかい!」
「乾いてるやろ?」
「なんで!?」
「生活魔法や」
「せいかつまほう!」
子どもたちが声を揃えて繰り返す。リナが笑った。子どもたちも笑った。
メリアは入口の奥から見ていた。外には出ない。でも、入口から見える
範囲が、いつもより少し明るい気がした。
人が来る。それでいいと思った。
⸻
夜、仕込みが終わった頃には、食堂は静かだった。厨房の火が落ちる。
灯りが一つ減る。秋の夜は早い。窓の外はもう真っ暗で、港の灯りだけが
遠くに揺れていた。
女将が布巾を折りながら、ぽつりと言った。
「助かるわぁ。おおきに」
それだけだった。包丁を仕舞う手も、いつも通りだった。けれど、その
「おおきに」には、いつもより少しだけ重みがあった気がした。
メリアは少しだけ目を細めた。
「……よかった」
女将はそれ以上何も言わなかった。布巾を棚に置いて、厨房の片付けに戻った。
リナが肘をついた。
「これ流行るで!」
「流行るかは知らない」
「流行るって!朝から何人来たと思っとんの」
「三人」
「そう、三人!小さな宿にしては上出来やって!」
メリアは少し考えた。
(広がると、管理が難しくなる)
頭の中で、れもんの声がした。メリアにだけ聞こえる声だ。
(出力を間違えると危ない)
「……広がると、管理が難しくなる」
メリアはそれをそのまま口にした。
「管理?」
「出力を間違えると、危ない」
「あー……それはそっか」
リナは少しだけ真顔になった。それから、また笑った。
「まあ、うちが教えるわ。ちゃんとしたやつ」
「リナが?」
「うちかて昨日できるようになったんやから、初心者に教えるのはうちの
ほうが向いとるやろ」
メリアは少し考えた。
「……なるほど」
「でしょ」
(糖質補給完了)
れもんの声が、また響いた。メリアは小さく頷いた。
「うん」
リナが首をかしげる。
「今、なんか頷いた?」
「気のせい」
「気のせい……?」
リナはしばらくメリアの顔を見ていたが、それ以上は聞かなかった。
代わりに大きく伸びをした。
「ま、ええわ。今日は疲れたし、ゆっくり休も!」
灯りが一つ、また一つ消える。月兎亭の夜が静かに閉じていく。厨房では、
女将がまだ何か小さく作業をしている音がした。やがてそれも止んで、
戸の閉まる音がする。
風は穏やかで、熱は残らない。船乗りが乾いた上着で帰っていったこと。
魚屋が笑って店を出たこと。子どもたちの声が、まだ少しだけ耳に残って
いること。
ひとつひとつは、小さなことだった。
でも、積み重なると、何かが変わっていく。ただ、少しだけ、生活が
変わっていた。
メリアは灯りが消える食堂を、もう一度だけ見渡した。明日も、誰かが
来るかもしれない。
それでいい、と思った。




