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完成

 夜の月兎亭は、今日も少し静かだった。


 客足は引いている。皿は片付けられ、油の匂いだけが残っていた。

木の椅子が並び、灯りが石の壁に揺れている。外から波の音がした。


 リナがテーブルに肘をついた。


「ほんで? 昨日の続きやろ?」


 メリアは頷いた。


「検証です」


「うちも見ててええ?」


「いいです」


「やった」


 リナは椅子を引いて、楽しそうに座り直した。


 メリアは手を出した。


 頭の中で、昨日の整理をする。


 (風と熱を別々に扱うから崩れる)


 (最初からひとつとして設計する)


 (乗せるのではなく、混ぜる)


 言葉にすればそれだけのことだ。でも、その「それだけ」がまだできて

いなかった。



 空気が動く。


 いや、動かさない。整える。細く、静かに。乱れないように、崩れない

ように。流れを作る。昨日より早い。二回目だから感覚が残っている。


(流速、安定)


 れもんの声が、頭の中で響いた。メリアにしか聞こえない声だ。


(次、いける?)


(いける)


「……混ぜる」


 メリアは小さく呟いた。


 熱を集める。それを流れに落とす。乗せるのではない。混ぜる。流れの

中に熱を解かすように、少しずつ。


 一瞬、空気が揺らいだ。


 でも――


 チリッとはならない。


 温度が均一に広がった。


 リナが目を見開いた。


「……え?」


 髪が、ふわりと浮く。湯気が消える。


「ちょ、ちょ、ちょ待って!?あったかい!あったかいんやけど!?」


 その場でくるくると回り始めた。


「なにこれ!?あったか風ブワーやん!?めっちゃ気持ちええ!」


 メリアは平然としていた。


「乾燥中です」


「いやテンション!テンションはどこ行ったん!?」


 リナは自分の毛先を触る。


「うわっ、うわっ、乾いてるやん!なにこれ!?春やん!?

秋やのに春やん!?」


(焦げてない。温度差も小さい)


 れもんの声。メリアは小さく頷いた。


「安全です」


「それそれそれ!安全設計や!完璧やん!」


 リナは笑いながら回り続けている。食堂の灯りが揺れた。


「これヤバいやつやって!宿の革命やって!冬の洗髪が怖くなくなる

やつやって!」


 メリアはその様子を見ていた。


 すごいとは思わなかった。前世で使っていた道具と同じ原理を、少し違う

形で再現しただけだ。だが、リナにとってはそうではないらしい。この世界には

まだ、この便利さを知る術がない。その差が、今の温度差なのだと、メリアは

ぼんやり理解した。


 前世の生活を思い出す。スイッチひとつで温風が出る箱。当たり前すぎて、

名前を意識したこともなかった道具。それが今、自分の手のひらから生まれて

いる。奇妙な感覚だった。


 ただ、リナが嬉しそうにしているのを見ているのは、悪くない気がした。



 メリアは自分の髪に手を当てた。


 温かい風が流れる。静か。さらり。


「乾きました」


 リナが振り向いた。


「そのテンションなんなん!?もっと喜ぼ!?一緒に喜ぼ!?」


 メリアは首を傾げた。


「想定内です」


「想定内て!昨日失敗してたやん!」


「順番が分かったので」


「いや、それはそうやけど!」


 リナは両手を広げた。


「うちはめっちゃ嬉しいのに!」


 メリアは少し止まった。


 リナの顔を見た。本当に嬉しそうだ。自分のことのように。


「……ありがとう」


「なんで礼言うてんの!」


「喜んでくれているので」


「そら喜ぶわ!一緒に考えてたんやから!」


 リナはまた笑った。


 メリアは少しだけ口元が動いた。



「うちもやる!」


 リナが両手を出した。


「見てて!」


 メリアは少し目を細めた。前世で人に教えるということをほとんどして

こなかった分、今のこの状況は少し新鮮でもあった。


 リナの手のひらから、空気がわずかに動く。ぎこちない。でも、流れて

いる。そこに熱がほんの少し混ざる。


「……あれ?」


 リナが瞬きをした。


「安定しています」


「やろ!?うちのほうが優しいやん!?センスあるわ!」


「出力が低いので崩れません」


「それ、褒めてる?」


「事実です」


「褒めてないやんけ!」


 リナは笑いながら、もう一度同じことを試した。今度は少し長く、

流れが保たれた。


「あれ?なんかコツ分かってきたかも……」


 メリアはその様子を見ていた。


 昨日教えたことが、ちゃんと届いている。火は燃焼ではなく、熱の移動。

風は空気を押すのではなく、流れを作ること。たったそれだけの説明だった。

リナは今、実際にそれをやっている。


 不思議な感覚だった。自分が知っていることを誰かが使えるようになる。

それを、初めて見た気がした。前世では、こんな風に誰かへ何かを教えた

ことはなかった。一人で完結する仕事ばかりだったから。


「……向いているかもしれません」


 メリアは呟いた。


「うちが?」


「はい」


「えへへ」


 リナは照れたように笑って、もう一度手のひらに意識を集中させた。



 しばらくして、騒ぎは落ち着いた。灯りが静かに揺れている。外から

波の音。夜は深くなっていた。


 リナが自分の髪を触りながら、ぽつりと聞いた。


「なんでこんなんできるん?メリアちゃんが教えてくれたことって、

別になんか特別な魔法って感じじゃなかったやんな。普通の風と火の

話やったし」


「特別じゃありません」


「せやんな」


「でも、見方を変えました」


 リナは首を傾げた。


「見方?」


 メリアは少し考えた。言葉を選ぶ。


「火は燃える、風は押す。みんな、そう思っています」


「うん」


「でも、火は熱の移動です。風は流れです。そう考え直すと混ぜられます」


 リナはしばらく黙った。


「……それだけ?」


「それだけです」


「いやいやいや」


 リナは両手を振った。


「それだけで、こんな新しいことできるんやったら、

もうみんなやってるはずやん!」


「みんな、火は火だと思っています。風は風だと思っています。

だから、混ぜようとは思いません」


「……あー」


 リナは少し考える顔をした。


「思いつかへんもんは、できへんってことか」


「そうです」


 メリアは頷いた。


「魔法の中身は、誰でも使える基礎のものです。新しいのは組み方です」


「組み方……発想?」


「発想です」


 リナはその言葉を、口の中で繰り返した。


「発想で、できることが変わる……か」


 灯りが揺れる。


「……なんか分からんけど、すごいわ」


「何がですか?」


「メリアちゃんが」


 平然と返された。


 メリアは少しだけ黙った。


 何と返せばいいか分からなかった。だから黙った。


「照れてる?」


「……照れていません」


「照れてるやん」


「照れていません」


 リナはくすっと笑った。それ以上は言わなかった。


 しばらく二人とも黙っていた。灯りが静かに揺れる音だけがした。



 風は穏やかだった。熱は優しく流れている。月兎亭の夜は静かに続いていく。


 メリアは椅子に座ったまま、手のひらを見た。


 できた。


 それだけだった。大げさに喜ぶ気にはならない。ただ、順番が分かって、

混ぜ方が分かって、できた。次はもっと出力を上げる。その次は、別の

組み合わせを試す。


 水の循環と風の均衡を混ぜたら、何ができるのだろう?土の蓄積に熱を

混ぜたら?考えることは、まだたくさんある。


 やることは、まだたくさんある。


 でも今日は、ここまでだ。


「メリアちゃん」


 リナが言った。


「また明日も教えて」


「検証の付き合いですか?」


「うちも楽しいから」


 メリアは少し考えた。それも悪くない理由だと思った。


「……はい」


 リナはにこっと笑った。


 灯りが、ゆっくりと落ちていく。


(また明日も、やることがある)


 頭の中で、れもんの声がした。メリアは小さく頷いた。


「うん」


「何が?」


 リナが聞く。


「……何でもありません」


 メリアは目を閉じた。


 月兎亭の灯りが、ゆっくりと落ちていく。今日という日の終わりが、

静かに部屋の隅々まで満ちていった。

挿絵(By みてみん)

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