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順番

 夜の月兎亭は、少し静かだった。


 客足はもう引いている。皿は片付けられ、油の匂いだけが薄く残って

いた。木の椅子がいくつか、規則正しく並んでいる。厨房の奥で水音が

して、それも止んだ。


 リナが帳簿を閉じた。


「ふー……今日はこんなもんやな」


 ぱたん、と音がする。背もたれに体を預けて、メリアを見た。


「昨日の続き、やるん?」


 メリアは少し考えた。ほんの一瞬だけ。


「……検証」


 リナはにやっと笑った。


「やっぱやるんや」


「やらないと分からない」


「まあ、せやな」


 リナは椅子を引いて、テーブルの端に肘をついた。


「うちも見てていい?」


「いい」


「やった」


 食堂の灯りが、石の壁に橙色を落としている。外から波の音がした。

港町の夜は、どこかで海の気配がある。メリアは少し目を細めてから、

手を出した。


     ⸻


 指先に、ほんのわずかな熱を集める。小さな火が灯る。揺れる。でも

燃えてはいない。


「火ってさ」


 リナが言う。


「普通は燃えるやん? 燃えるから火やろ?」


「燃えないこともある」


「それはそうやけど……」


 メリアは火を見た。揺れている。橙色の光が手のひらに落ちる。


「火は、燃焼じゃない」


「え?」


「燃えてるのは、結果」


 リナは首を傾げた。


「結果?」


「木が燃えるのは化学反応。物質が別の物質に変わる。酸素と炭素が反応

して、二酸化炭素と熱が出る」


「……うん、さっぱりわからへん」


「でも魔法は、その式を組んでいない。木も酸素も使っていない」


 リナはしばらく考えた。


「……じゃあこれ、何なん」


「熱の移動」


 メリアは火を消した。「燃焼は物質が変わる現象。でも今やっているのは、

熱をある場所から別の場所へ動かすだけ」


「熱の移動……」


 リナは自分の手をかざした。さっきの残り熱がまだある。


「……あー。火ないのに、あったかいな」


「そう」


「じゃあこれ、火ちゃうやん」


「火っぽいだけ」


「火っぽいだけ!?」


 リナが声を上げた。


「なんかだまされた感ある」


「だましていない」


「そういう意味ちゃうねん……」


 メリアは続ける。


「燃焼だと、材料が尽きたら終わり。でも熱の移動なら、体力が続く限り

動かせる」


 リナはしばらく黙っていた。テーブルの上で指を組んで、何かを考えて

いる様子だった。


「……めっちゃ強くない?」


「まだ制御が甘い」


「でも理屈はすごいやん」


「理屈は前世で知っていた」


「前世?」


 メリアは少し止まった。


「……昔の話」


「あー、うん」


 リナはそれ以上聞かなかった。それもリナらしかった。


     ⸻


 メリアは次に手を動かした。


 空気が少し揺れる。強くはない。細く、静かに。


「じゃあ風は?」


 リナが聞く。


「空気、動かしてるんやろ?」


「違う」


 即答だった。


「流れを作る」


「……どう違うん?」


「動かすと乱れる」


 メリアは指先で線を引くように動かした。空気が滑る。テーブルの上の

リナの前髪が、ふわりと揺れた。


「乱れると、どこへ行くか分からない。思ったところに当たらない」


 リナはしばらく考えてから、川みたいな感じ、と言った。


「上流から下流に流れていくみたいな」


「そう。流れを作ると、向きが決まる」


「おお、分かった気する」


 リナはちょっと嬉しそうだった。


「要するに、風は押すんじゃなくて流すんやな」


「そう」


「なんかそれ、剣術みたいやな。力で押すんじゃなくて、流して崩すみたいな」


 メリアは少し考えた。


「……近いかもしれない」


     ⸻


 メリアは両手を動かした。


 先に風。空気を整える。細く、静かに。流れを作る。そのあと、ほんの

少しだけ熱を乗せる。


 ふわ、と温度が上がった。


 チリっとはならない。焦げない。ただ、温かい風が流れる。


 リナが目を丸くした。


「……あれ?」


 自分の髪に触れる。


「さっきより、ええ感じやん。焦げてへん」


「まだ弱い。出力を上げると崩れる」


「でも焦げてへん」


 リナが少し身を乗り出した。


「なんで昨日はチリってなったん?」


「昨日は順番が逆だった。熱を先に出して、そこに風を通そうとした。

だから乱れた」


「順番が大事なんや」


「今は流れに熱を乗せている。崩れにくい。でもまだ弱い出力でしか

保てない」


 メリアは手を下ろした。


 風と熱を同時に扱う時、どちらかを上げるともう一方が崩れる。別々に

動かしているからだ。それをひとつの流れとして最初から設計できれば、

出力を上げても崩れない気がした。でも、それはまだできない。どこから

手をつければいいのかも、まだ見えていない。


「なんでそんなこと思いつくん?」


 リナが腕を組んで聞いた。


「火は燃焼じゃないとか、風は流れとか」


 メリアは少し言葉を探した。


「知っている現象なら」


 少し間。


「再現できる」


 リナはしばらく黙った。


「……なんかすごいこと言ってる気するけど、よく分からん」


「大丈夫」


「ほんまか?」


「多分」


「多分かい」


 リナが笑った。


「まあでも、なんかすごいのは分かる」


 メリアは首を傾げた。


「何が」


「メリアちゃんが」


 平然と言われた。メリアは何か返そうとして、やめた。言葉が見つから

なかった。


     ⸻


「明日、成功させよな!」


 リナが立ち上がりながら言った。椅子を戻して、カウンターに戻る準備を

している。灯りをひとつ落とした。食堂が少し暗くなる。


 メリアは頷いた。


「順番は分かった」


「それって、どういう意味?」


「何をどの順でやるか。それだけで結果が変わる」


「魔法の話?」


「魔法の話」


「……なんか、それって魔法だけの話じゃないな」


 リナが少し遠くを見るような顔をした。それきり黙って、もう一つ灯りを

落とした。


 静かな夜だった。月兎亭の灯りが、ゆっくりと落ちていく。風は穏やかで、

熱は残らない。


 ただ、少しだけ前に進んでいた。

挿絵(By みてみん)

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