濡れた髪
レオンと別れたあと、メリアはそのまま港の方へ歩いた。
夕陽が沈みかけている。帆船の影が水面に伸び、ゆっくりと揺れていた。
潮の匂いが街の石畳まで届く。遠くでカモメが鳴いた。
石造りの岸壁に出ると、風が少し強くなった。停泊している船の帆が
膨らんで、また緩む。水面が橙色にきらきらと染まっていた。
メリアは立ち止まった。
特に理由はない。ただ、沈む光を見ていた。
前世にも海はあった。違う海だったけれど、夕陽が水に落ちていく様子は
よく似ている気がした。似ているようで、何かが違う。この世界の空の色は、
少しだけ濃い。あの街から見た空よりも、もう少し、深いところに色がある。
何の感慨もなく、メリアはそれを眺めた。
「糖質不足警告」
頭の中で声がした。れもんだった。膝の裏あたりに気配がある。
「帰る」
メリアは踵を返した。
「推奨」
「分かってる」
石畳を踏みながら、月兎亭の方へ歩き出す。夕暮れの街は人が減り始めて
いた。商店の灯りがひとつ、またひとつと点いていく。どこかから夕食の
匂いが流れてきた。肉を焼く匂いと、煮込みの匂い。腹が鳴るほどではないが、
体が反応するくらいには空腹だった。
⸻
月兎亭の木の看板が見えてきた。夜風に揺れている。扉を開けると、温かい
空気が流れ出てきた。食事の残り香と、薪の燃える匂い。
「いらっしゃ……あ、メリアちゃん」
リナだった。カウンターの奥から顔を出す。赤みがかった髪が灯りに映えて
いた。
「お帰り。風呂、空いてるで。今、ちょうど誰も使ってへん」
「ありがとう」
メリアは頷いた。部屋に荷物を置くより先に風呂に入る方が効率がいい。
「ご飯は?」
「後で」
「ええよ。取っといたるわ」
リナはにこにこしながらカウンターに戻った。
メリアは階段を上がりかけ、ふと足を止めた。
「……リナ」
「なんや?」
「いつも、ありがとう」
リナは一瞬だけきょとんとした顔をして、それからまたにこにこした。
「なんやそれ。急やな」
「思ったから」
「ふふ。ええよ別に。早よ行き」
メリアは頷いて、階段を上がった。
⸻
浴室には窓がひとつ、小さくついていた。湯気がこもっていて、外の夜風が
少し漏れ入ってくる。
湯は熱めだった。疲れが溶けるというより、体の境界がぼんやりする感じが
した。壁に背中をもたれて、メリアは天井を見上げた。何も考えなかった。
ただ、湯の音を聞いていた。
しばらく経ってから、立ち上がった。
⸻
湯気の残る廊下を、メリアが歩いていた。
濡れた長い髪が背中に張りついている。ぽた、ぽた、と水が落ちる。床に
小さな水跡が続いていた。
「ちょちょちょちょ!」
後ろから声が飛んだ。
リナだった。タオルを抱えて廊下を走ってくる。
メリアは立ち止まった。
「拭く」
「そういう問題ちゃうねん! 廊下やで!」
タオルを押しつけられた。メリアは素直に受け取って髪にあてる。重い。
水分を吸って、すぐに湿る。
「長いと大変やろ?」
リナが隣に立ちながら言う。
「冬とか地獄やで。乾かすだけで一苦労やん」
メリアは自分の髪を見た。確かに長い。腰まである。これが全部濡れると、
重さが倍になる気がした。
「燃やせば早い」
「宿燃えるわ!」
リナの即ツッコミが廊下に響いた。
少し間があった。
メリアはもう一度、自分の髪を見た。
(火。燃焼。水分を蒸発させる。でも、髪ごと燃える。それは違う)
(風。乾燥。水分を飛ばす。でも冷たい風を当てると体が冷える)
手のひらを持ち上げて、指先に意識を集める。弱い風を起こしてみた。髪が
揺れる。廊下の空気が一気に冷えた。
「寒っ!」
リナが肩をすくめて半歩引いた。
「ごめん」
「なんでそんな涼しい顔してんの……」
次に、弱い火。指先にほんの少しだけ熱を集める。ふわ、と温度が上がった。
「熱っ!」
リナが飛び退く。
「ちょっと待って。冷たい風と熱い風を交互に当てるのやめて。心臓に悪い」
「順番が違うかもしれない」
「何の順番!?」
「風と熱の」
「いや意味は分かるけど、なんでそれを廊下でやっとんの」
「乾かしたい」
「タオルでええやん!」
リナはメリアの頭にタオルをぐりぐりと押しつけた。メリアは目を細めながら、
それでもまだ考えていた。
⸻
先に風。
弱く、細く。空気の流れを整えるようにして、髪の隙間に入り込ませる。
そのあと、ほんの少しだけ熱。
温かい空気が、整えた流れに乗る――はずだった。
一瞬、温度が跳ねた。
チリ。
小さな音がした。
「ちょぉぉ!? 毛先いった!」
リナが叫ぶ。
「出力偏差十二パーセント」
れもんの声がした。メリアにしか聞こえない。
「誤差」
「誤差ちゃうわ!」
リナは頭を抱えた。
「焦げとるやん。こっち向いて」
リナがメリアの毛先を両手で持ち上げて確認する。わずかだが、確実に
焦げていた。
メリアはその毛先を見た。
「……今日はやめる」
「最初からそうして」
リナはため息をついた。それから、なぜか笑った。
「なんか、面白いな」
「何が」
「メリアちゃん、こういうことするんやなって」
「こういうこと」
「廊下で魔法の練習するとか。真剣な顔で」
メリアは少し考えた。
「駄目だった?」
「駄目ちゃうけど……まあ、ええわ」
リナはもう一枚タオルを持ってきた。「ほら。ちゃんと拭き」
「うん」
⸻
部屋に戻った。
窓から夜風が入ってくる。港の方から波の音がした。
メリアは椅子に座った。濡れた髪をそのまま背中に垂らし、タオルで軽く
押さえながら、天井を見上げた。
「順番の問題だとすると」
声に出したのは、考えを整理するためだった。
「風で流れを作ってから熱を乗せる。でも、出力の調整ができていない」
れもんが床の上に座っている。尻尾がゆっくり揺れていた。
「出力偏差の原因は髪の密度の不均一」
「密度が違うから、熱の通り方が変わる」
「そう」
「均一化が先、ということか」
「……なるほど」
メリアは少し黙った。糸口が見えた気がする。だが同時に、今日の失敗が
単純な出力ミスではなく、もう少し根本的な制御の問題だとも感じていた。
均一化するとは、どういうことか。水分の量を計測するのか。それとも流れの
速さを変えるのか。
「もう一回やれば」
「糖質補給推奨」
「考える」
「考えてからでいい。でも補給は先」
メリアはれもんを見た。れもんは真顔だった。
「分かった」
メリアは立ち上がった。リナが取っておいてくれた夕食を取りに行く。
まだ答えは出ていないが、方向は見えた気がした。
⸻
翌朝。
月兎亭の食堂に、朝の光が差し込んでいた。窓から見える空は薄く青い。
秋の朝特有の、澄んだ冷たさがある。
リナはカウンターの奥から、こっそりメリアを見ていた。
メリアは朝食を食べている。パン。スープ。いつも通りの静かな食事だ。
咀嚼して、飲み込んで、また次を取る。それだけのことを、淡々と繰り
返している。
リナはそっと視線をメリアの髪に向けた。
昨日、チリっとなった毛先。
つやつやしている。
「……あれ?」
メリアが顔を上げた。
「何?」
「……なんでもあらへん」
リナは首を振った。メリアはまたパンを食べた。特に気にしていない。
昨夜は結局、うまくいかないまま眠った。順番の問題なのか、出力の問題
なのか、まだ分からない。続きは後で考えればいい。
メリアはスープを飲んだ。
リナはまだちらちら見ている。
「……本当に何?」
「なんでもあらへんて」
リナはそっぽを向いた。毛先のことは、黙っておくことにした。言った
ところで、メリアはきっと首を傾げるだけだろうと思ったから。
窓の外、秋の朝日が石畳に伸びていた。




