言わないという選択
翌日のギルドは、いつも通り騒がしかった。
朝の光が窓から差し込み、掲示板の前には何人かの冒険者が集まっている。
依頼票をめくる音。靴が石床を踏む音。受付の呼び声。カウンターの向こう
では、昨夜の依頼報告がまだ続いているらしい。
レオンは掲示板の前に立っていた。依頼票を眺めながら、少しだけ別の
ことを考えていた。
昨日の食堂。消えた料理。独り言。
「レオン」
声がした。振り向く。メリアが立っていた。銀の髪、白い外套、セルリアン
ブルーの瞳。赤くない。普通の目だ。
「早いな」
「頑張りました」
それだけ返して、掲示板に目を向ける。昨日のことなど何もなかったかの
ような、いつも通りの横顔だった。
「依頼、行きますか?」
短い。レオンは一枚の依頼票を剥がした。
「これ、どう?」
小型魔物の討伐。森の外縁に出る害獣。危険度は低い。メリアはそれを見て、
「それにしましょう」
それだけ言った。
森の外縁は、昨日より浅い場所だった。木々の間隔が広く、昼の光が十分に
差し込んでいる。湿った土の匂い。葉擦れの音。街の喧騒がまだ遠くに残って
いて、森と街の境目にいる感じがした。
しばらく歩いた。メリアは周囲を観察しながら進んでいる。足元を確かめ、
枝の隙間から光の角度を見て、何かを確認するような目をしていた。昨日の
森でも同じだったはずだ。ただあの時は、それを見ている余裕がなかった。
「森、詳しいのか?」
レオンが訊くと、メリアは少し間を置いた。
「昨日、少し勉強しました」
「昨日の今日で?」
「必要でしたので」
それだけ言って、また前を向いた。レオンはその横顔を見ながら、この少女は
本当に不思議な人間だと思った。あれだけの目に遭って、翌日にはもう地形を
頭に入れている。
茂みが揺れた。
小型の魔物が飛び出す。犬ほどの大きさの獣で、牙を剥いてこちらへ向かって
くる。赤黒い目が光を反射していた。
「来た!」
レオンが剣を抜いて踏み込んだ。その瞬間、地面が静かに盛り上がった。土が
獣の足を絡め取るように止める。同時に風が走り、獣の体が横へ転がった。
一瞬の出来事だった。剣を振るう間もなく、戦闘は終わっていた。
メリアだった。片手を軽く動かしただけ。表情は変わっていない。瞳も青い
ままだ。
魔法は静かだった。昨日の森とは違う。荒れていない。余分なものが何も
ない。必要な分だけが動いて、それで終わる。土の拘束も、風の一撃も、
まるで計算し尽くされた手順をなぞるようだった。
「終わりです」
メリアが言う。剣を鞘に戻しかけていたレオンは、拍子抜けした顔をした。
「……それだけかよ」
「それだけです」
メリアは涼しい顔で頷く。
「もっと、こう……派手な魔法で暴れるもんだと思ってた」
レオンが続けると、メリアは端的に返した。
「無駄です」
「必要な分だけでいいので」
「効率的だな、ほんと」
レオンが苦笑すると、メリアは小さく頷いた。
「褒め言葉として受け取ります」
それから、レオンは倒れた獣に近づき、討伐証明として耳を切り取った。
布袋に入れる。それで終わりだった。
レオンは少し考えた。昨日の暴走のような力を持っていながら、こんなにも
慎ましい戦い方をする。その落差が、なんだか不思議だった。
木々の間から風が抜けた。葉が揺れ、光がそれに合わせて揺れる。森は静かに
元の時間に戻っていく。鳥の声がどこかで戻ってきた。
帰り道は、二人ともあまり喋らなかった。
レオンは少し考えながら歩いていた。昨日の森のことを思い返す。あの暴走。
制御が利かないまま溢れ出した風。でも今日の魔法は違う。普通だ。むしろ
丁寧なくらい。同じ人間が使っているとは思えないくらい、落ち着いていた。
聞こうと思えば聞ける。あの目の色のことを。なぜ制御が利かなかったのかを。
あれだけの力がどこから来るのかを。
でも聞かない。
メリアは前を歩いている。いつも通りの歩幅で、いつも通りの速度で。振り
返らない。ただ、時折足元の石畳や遠くの空を見ている。何かを観察している
のか、ただ歩いているのか、レオンには判断できなかった。
街道の脇には、行きに見た薬草の群生地が広がっている。あの日、彼女が座り
込んでいた場所だ。今はもう何事もなかったかのように、風に葉が揺れている
だけだった。あの時の悲鳴も、赤く染まった瞳も、まるで嘘のように静かだった。
まあ、いい。今は追わない。そう思って、街道の先に目を向けた。
依頼報告を終えたあと、二人は軽く食事をとった。昨日と同じ食堂だった。
窓際の席。焼いた肉の匂い。夕方の食堂は昼間ほど騒がしくない。仕事を終えた
冒険者たちが、疲れた顔でジョッキを傾けている。
でも今日は、料理は減らない。独り言もない。メリアは普通に食べている。
パンをちぎり、スープを飲み、串焼きをフォークで切る。昨日と同じ速さで、
同じくらいの量を。でも何かが違う。
レオンはパンをちぎりながら、その様子をぼんやり見ていた。
昨日の食堂には、何かがあった。メリアの視線が横に動くたびに、料理が
減った。独り言が聞こえた。口元が動いた。あの時のメリアは、今より少しだけ
表情があった気がする。
今日はない。それだけのことだ。でも、少しだけ物足りない気がした。
「今日、静かだな」
レオンはふと言った。
メリアの手が、ほんの少し止まった。
「……そうですか」
「昨日は色々、賑やかだったから」
「気のせいです」
即答だった。だが、フォークを持つ手が少し早口に動いた気がした。
「ならいいけど」
レオンはそれ以上追及しなかった。パンをちぎって口に運ぶ。深追いしないと
決めたのは自分だ。それなら、この程度の違和感には気づかなかったふりをする
のが筋だろう。
窓の外では、夕方の光が少しずつ色を変えていく。皿の音、酒場の話し声、
そういったものが変わらず流れていくのに、テーブルの上だけがやけに静かに
感じられた。
夕方。街の石畳が橙色に染まる頃、道が分かれる場所で二人は立ち止まった。
夕陽が建物の角に引っかかって、長い影が石畳に伸びている。遠くで誰かが
笑う声がした。市場の片付けが始まる時間で、荷車を引く音が通りの向こうから
届いてくる。
「また明日」
レオンが言う。メリアは頷く。
「はい」
レオンは手を上げた。メリアも軽く手を上げる。それだけだった。
二人はそれぞれの方向へ歩き出す。
少し歩いてから、レオンは振り返った。メリアの背中が、夕陽の中を
遠ざかっていく。銀の髪が橙色の光を受けて、少しだけ金に近い色に見えた。
あの日、森で拾った小さな縁だった。それが今、こうして「また明日」と
言える距離にまでなっている。不思議なものだと思う。数日前まで、名前すら
知らなかった相手なのに。
助けたつもりが、いつのまにか助けられている気がする。それが何なのか、
うまく言葉にはできなかったが、悪い感覚ではなかった。
空を見上げた。雲がゆっくり流れている。
疑問はある。昨日のこと。あの魔法。あの目の色。でも今は追わない。
守れるようになればいい。それだけだ。
いつか、彼女が話したくなった時に、隣にいられればいい。今はそれで
十分だと、レオンは思った。
風が一つ、街並みを抜けていった。潮の匂いが少しだけ濃くなる。夜が
近づく前の、この街特有の静けさがあった。
夕焼けが街を染めていた。メリアの背中は、もう見えなくなっていた。
レオンは踵を返し、宿の方角へ歩き出した。名前も知らなかった少女と
出会って、まだ数日しか経っていない。それなのに、明日もまた顔を合わせる
のが当たり前のことのように思えている。
それだけで、今日は十分だった。
港の方角から、船の汽笛が一つ、低く響いた。夜がゆっくりと街に降りてくる。




