あの時の少女と再会
森の空気が、ひりついていた。
枝を踏み折る音が近い。レオンは走りながら振り返る。背後の草が揺れて
いる。はぐれた一匹。二匹は仕留めた。だが腕の傷がまだ熱を持っていて、
思考が追いつかない。
開けた場所へ飛び出した瞬間、視界に人影が映った。
「そこの人、早く逃げて!」
声が裂けた。
だが少女は動かなかった。銀の髪。青い外套。両膝が地面に落ちて、
乾いた土が舞う。腰が抜けたらしい。足元には薬草の束。採取の途中
だったのか。
背後の草が、ぼきりと折れた。
ゴブリンが飛び出す。赤黒い目がぎらつき、標的が変わる。少女へ
向かっていく。
レオンは踏み込みかけた。だが足が止まる。腕の傷が動作を鈍らせる。
間に合わない。距離がある。
その瞬間。
少女の右目の奥で、何かが弾けた。
光ではない。色だ。瞳の色がクリムゾンに染まる。それに呼応するように、
瞳の中で何かが展開する気配がした。紋様のようなもの。空間そのものが、
わずかに張った。
両手が前へ突き出された。
風が、逆巻いた。
最初の一閃は細い。針のように鋭い刃が空間を裂き、ゴブリンの肩を
かすめて血が弧を描く。続けて二本、三本。軌道はばらばらで、曲がり、
ねじれ、途中で散るものもある。
制御されていない。
ただ、溢れている。
ゴブリンが地面に着地し、再び踏み込む。咆哮。その声を掻き消すように、
風が爆ぜた。無数の緑の線が薬草群生地の上空を走る。密度がばらばらのまま、
刃というより圧力に近い風塊が不規則に生まれ、消え、また生まれる。
ゴブリンの脛を薙いで体勢が崩れる。それでも前に出る。
その姿が少女の視界に入った瞬間、風刃の数が跳ね上がった。鋭いものは
肉を切り裂き、鈍いものは打ち据える。風が絡みつき、草が薙ぎ倒され、
最後に一条が深く食い込んで、動きが止まった。
風が、止んだ。
レオンは立ち止まったまま、息を吐くことを忘れていた。
薬草群生地に残るのは、裂かれた草と横たわる死体だけだ。オーバーキル
だった。それだけ分かる。だが、それ以上の言葉が出てこない。
少女の両手が震えながら下がる。右目の赤が、すっと引いた。
そして。
ぐぅ。
情けない音が、静寂の中に響いた。
「あ……」
少女の膝が折れた。地面に手をついたまま、横へ崩れていく。
レオンは我に返って駆け寄った。倒れたゴブリンの耳を切り取る。討伐
証明。それから少女に近寄る。
「大丈夫か」
少女はうっすら目を開けた。瞳はもう赤くない。焦点が合っていない。
「……おなか、すいた」
レオンは一瞬、言葉を失った。
あれだけの力を見せて。あれだけの風を放って。
出てきた言葉が、それか。
「おぶって」
駄々をこねるような声だった。
レオンはため息をついて、少女の腕を肩に回させた。軽い。思ったより、
ずっと軽い。代わりに、温もりが背中に乗る。
森はもう薄暗い。
歩き出す。落葉が足の下で乾いた音を立てた。
背中の重みが、しばらくして緩んだ。呼吸が整い、寝息に変わる。
「……寝るなよ」
小さく言ったが、返事はなかった。
森を抜ける頃には、空はもう橙から群青へ変わっていた。
⸻
ギルドのロビーは、その日も騒がしかった。
報告の声。硬貨の触れ合う音。酒の匂い。夕方を過ぎた時間帯は帰還者が
重なり、カウンターの前には短い列ができていた。
レオンは掲示板の前で依頼票を眺めていた。次の仕事を探している。腕の
傷は昨日より落ち着いているが、重い仕事はまだ無理だろう。軽い採取か、
護衛の補助か。
視線を感じた。
反射的に振り向く。
一瞬、言葉を失った。
あの少女が立っていた。
森で背負ったあの少女が、何事もなかったかのようにギルドのロビーに
立っている。今は白い外套がきちんと整っていて、銀の髪も乱れていない。
瞳は赤ではない。澄んだ青だ。
こちらをまっすぐ見ている。
「この前は、ありがとうございました」
静かな声だった。
落ち着いている。背負った夜が嘘のように。
レオンは少し言葉に詰まった。礼を言われる立場じゃない、と思った。
あのゴブリンを深く追わなければ、少女が巻き込まれることもなかった。
「いや……俺が悪かったし」
そう言うのが精いっぱいだった。
短い沈黙。周囲の喧騒が戻ってくる。
「俺はレオン」
「メリアです」
それだけだった。
メリアは軽く会釈して、掲示板の方へ向かう。レオンはその背中をしばらく
見ていた。
あの夜のことを思い出す。背中の軽さ。温もり。森を抜けた時の、橙から
群青へ変わっていく空。
あれだけの力を持っているのに、最初に出てきた言葉がお腹が空いたで、
次が「おぶって」だった。
レオンは小さく息を吐いた。
「……無理、するなよ」
背中に向けて言う。
メリアは振り返らない。
ただ、
「はい」
それだけ返ってきた。
レオンはもう一度掲示板へ視線を戻した。さっきと同じ依頼票が並んで
いる。だが、何か違う気がした。
何が、とは言えない。
ただ、少し前とは違う何かが、ロビーの空気の中にある気がした。




