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観測モジュール

 客室の空気は静かだった。


 窓の外から港の音が聞こえる。遠くで船の鐘。市場のざわめき。朝の光が

石造りの壁に斜めに差し込んで、部屋の中に淡い影を作っていた。


 メリアは客室の中央に立った。


 れもんは床に座っている。尻尾がゆっくり揺れていた。


「ステータス取得、してみる」


 メリアは静かに言った。


 その瞬間。


 右目の奥で、何かが開く感覚があった。


 熱ではない。光でもない。ただ、何かの膜が薄くなるような、静かな変化。


 視界の端が、わずかに赤みを帯びた。


 れもんが何も言わない。説明しない。ただ、床に座って待っている。


 目の前に、じわりとした感覚が広がった。神紋が展開している。赤く光って

いる。紋様そのものが、空間にうっすらと浮かんでいる。


 部屋の空気が、ほんの少し張った。


 そして。


 視界の中に、情報の層が現れた。


 半透明のパネル。文字列。数値。


「……見える」


 思わず声が漏れた。


 れもんの尻尾がぶんぶんと揺れた。


     ⸻


「表示形式は」


 れもんが言う。


「メリアの記憶領域を参照して翻訳されてる」


「記憶領域?」


「前世の言語体系。認識しやすい形式に自動変換された」


 メリアはパネルを眺めた。


 名前。アルストロメリア。


 その下に、数値が並んでいる。


STR 018

AGI 027

INT 165


「……INTだけ突出してる」


「前世補正」


 れもんが答える。


「思考処理能力。前世で培ったものが持ち越されてる」


「STRは」


「現状維持が限界」


「……正直だ」


「事実だから」


 れもんは平然としている。


「メリアは力仕事に向いてない。適性補正がほぼない」


「確認済み?」


「初期解析で確認済み」


 メリアは少し肩をすくめた。それは前世でも変わらなかった。デスク

ワークで生きてきた人間の肉体だ。


「レベルは?」


 メリアは画面を見回した。


「存在しません」


 れもんが即答した。


「この世界に経験値制度はない」


「じゃあ、数値はどう上がるの」


「意味のある負荷をかけた時に、確率的に増加する」


「確率的に」


「保証はない」


 れもんはあっさり言った。


「同じことを繰り返しても上がるとは限らない。世界の法則が処理してる」


「……シビアだ」


「現実的」


 尻尾が揺れた。


 メリアはもう少し下の表示を確認した。


LU 92%

PB 94%


「LUは運、PBは?」


「フィジカルビューティ。見た目の総合評価」


「……誰が評価してるの」


「世界」


「雑すぎる」


「パーセンテージで表示されてる項目は絶対値じゃなくて相対値」


 れもんが補足する。


「上位六パーセントの位置にいる、ということ」


「……高い」


「対人補正係数として機能する」


 れもんは淡々と言った。


「初対面での印象、信頼獲得速度、交渉成功率。そういったものに影響が出る」


 メリアはしばらく考えた。


「……便利なの?それ」


「場面による」


 その下。


HP 055

MP  ∞

TE 43%


「MPが無限になってる」


「メリアの神術適性。ノエリア様の権能接続がそのまま反映されてる」


「HPは」


「低い」


 れもんは端的に言った。


「戦闘向きではない。直接の打撃には弱い」


「……知ってた」


「TEは思考エネルギー残量。さっき説明した通り」


「四十三パーセント」


「昼食推奨」


「わかってる」


 メリアはパネルをもう一度眺めた。数値の並びが、前世で慣れ親しんだ

ゲーム画面に近い形をしている。れもんが「記憶領域を参照した」と言った

意味が、じわじわと分かってきた。


 それから、ふと。


 夢の中の光景が浮かんだ。


 神界の執務室。机に突っ伏していたノエリア。目の下の濃い隈。乱れた

白銀の髪。神衣の袖のシミ。三ヶ月、眠れていなかったという神の顔。


 柔らかく微笑む時とは、少し違う顔だった。


 あの状態を正直に表現するなら。


(……ちょっと、ブサ——)


 瞬間。


 パネルが震えた。


 空間の端で、小さなウィンドウが弾けるように開く。


 〈神域回線 接続〉


 そこに、小さなノエリアが現れた。腕を組んでいる。目が据わっていた。


「聞こえています」


 メリアは固まった。


「あと」


 ノエリアは一拍置いた。


「神の顔をブサと言ったことについては、後で説明を求めます」


「……はっ?」


「三ヶ月ほど寝ていないだけです」


 ノエリアは目の下を指で示した。


「神にも労働環境というものがあります」


 さらに一行。


「あなたのために働いていたんですけれど」


 また一行。


「まあ、いいですけど」


 メリアはゆっくりれもんを見た。


「……これ」


「思考ログが拾われてる」


 れもんが答えた。声が少し平坦だった。


「神域回線経由。OS接続中は筒抜けになることがある」


「……なんで言わなかったの?」


「ノーコメント」


「それ答えになってない」


「ノーコメント」


 メリアは額を押さえた。


 ノエリアはまだウィンドウの中にいた。腕を組んだまま、少し横を向いている。


「ノエリア様」


 メリアは言った。


「……ありがとうございました」


「どういたしまして」


 ノエリアは短く言った。それからもう一度メリアを見る。


「壊さないように使ってください」


「プログラム扱いなんだ」


「書いたのは私です」


 少し間があった。


「……メリア」


「なに」


「ちゃんと食べていますか?」


「……食べてる」


「TEが四十三パーセントです」


「昼に食べる」


「今、食べてください」


「……わかった」


 ノエリアは小さく頷いた。それ以上は言わなかった。


 ウィンドウが、静かに閉じた。


 沈黙。


 メリアはゆっくり息を吐いた。


「……神様って」


「忙しいんだね」


「ブラック」


 れもんが尻尾を振った。


     ⸻


「他の人のも見れるの?」


 メリアはパネルを眺めながら言った。


 れもんは少し間を置いた。


「取得は可能」


「でも」


 れもんの声が少し変わる。


「市街地での使用は推奨しない」


「なんで」


「今、右目を見て」


 メリアは窓の前の小さな鏡を確認した。


 右目が、クリムゾンに染まっている。虹彩の色が完全に変わっていた。

目の前に神紋が現れ、うっすらと可視化されている。


「……出てる」


「他者取得を試みると、これがさらに強くなる」


 れもんは淡々と言った。


「神紋の可視化は隠蔽できない。許可を得た相手でも、展開は見える」


「見られたら」


「異端審問に至る確率」


 一拍。


「八十七パーセント」


 メリアは黙った。


「……高い」


「高い」


 れもんは繰り返した。

 端的な答えだった。


 メリアは右目を閉じた。神紋の感覚が薄れる。右目の赤が、ゆっくりと

青へ戻っていく。


「つまり」


「客室以外では使わない方がいい」


「屋外は」


「非推奨」


「緊急時は」


「判断はメリアに委ねる」


 れもんは言った。


「ただ、一度見られたら取り消せない。その点は理解しておいて」


「……了解」


 神紋が消える。部屋の空気が、元に戻った。


「じゃあ」


 メリアは少し考える。


「使える場面は限られてる」


「そう」


 れもんは頷く。


「他者の詳細な情報取得が必要な場面。かつ、見られても問題ない状況。

あるいは見られる前に処理が終わる速度で動ける時」


「……切り札」


「合理的な判断」


 れもんは尻尾をゆっくり振った。


「ボクはナビだから、最適なタイミングは提示できる。

実行するかどうかはメリアが決める」


「頼りにしてる」


 れもんは何も言わなかった。ただ、尻尾の振れ方が少し変わった。


     ⸻


 ステータスパネルが静かに薄れた。


 右目の赤が完全に消える。客室の空気が、朝のものに戻る。


 窓の外では港の一日が続いている。船の音。人の声。波の匂い。


 メリアはベッドの端に腰を下ろした。


「便利すぎない」


 静かに言う。


「これだけのものを三ヶ月で作った」


 少し間があった。


「……悪くない」


 れもんは何も言わない。


 ただ、とてとてと歩いてきて、メリアの膝に乗った。


 丸くなる。


 窓から光が差し込んでいた。

挿絵(By みてみん)

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