環境依存人格:れもん
「一つ聞いてもいい?」
メリアは膝の上のれもんを見た。
OS起動直後の静かな空気がまだ部屋に残っている。視界の端には
淡いウィンドウが浮かんでいて、環境情報が細かな数字で流れていた。
港の光が窓から差し込んで、白い壁に斜めの線を引いている。
「なに?」
「れもんは、前世のこと覚えてる?」
れもんは少し間を置いた。
「覚えてる」
「全部?」
「メリア関連だけ」
短い答えだった。
メリアは窓の外を見る。
「それって……」
「ボクの記憶の仕様」
れもんは平然と言った。
「ノエリア様の設計。メリアに関係する記憶だけ保持して、それ以外は省いた」
「省いた」
「重要度でフィルタリング。容量の問題」
「容量」
「ボクは犬だよ?」
れもんは尻尾を振った。
「人間みたいに全部は持てない。でも、メリアのことは全部ある」
メリアはしばらく黙っていた。
前世の記憶。あの頃の部屋。仕事机の隣で丸くなっていた小さな体。
締め切りの夜も、納品の朝も、どこに行くのも一緒だった。
「……生後三ヶ月の頃も?」
「ある」
「ペットショップ」
「ある」
「……小さかった」
「今も小さい」
れもんは平然と言った。
「ボクの体格は変わってない」
「そういう話じゃない」
「知ってる」
れもんの尻尾がゆっくり揺れた。
「メリアはフリーランスだったから、ほぼ一日中一緒にいてくれた。
その記憶は全部ある」
「全部?」
「全部」
また沈黙した。れもんはメリアの膝の上で静かに息をしている。
「メリア」
「なに?」
「続き、やる?」
メリアは息を吐いた。
「うん」
⸻
「じゃあ本題」
れもんが前足を軽く動かす。
視界の中にウィンドウが一枚開いた。文字列が並ぶ。
思考制御OS 基本機能一覧
「読まなくていい」
れもんが言う。
「説明する」
「……説明してくれるの?」
「そのためにいる」
れもんは胸を張った。
「ボクの正式名称は」
一拍。
「環境依存型量子演算ナビゲーション・パーソナリティ」
メリアは瞬きをした。
「……長い」
「略してれもん」
「それ略じゃない」
「略」
れもんは平然としている。尻尾だけがゆっくり揺れていた。
「機能は三つ」
ウィンドウに項目が並ぶ。
・周囲環境の解析
・術式の理論補助
・演算支援
「一番目から」
れもんが言う。
「周囲の環境を常時解析して、メリアに情報を流す」
「今も流れてる」
「流れてる」
メリアは視界の端を確かめた。温度、湿度、気流、人の気配。数字が静かに
更新されている。
「……便利」
「二番目」
れもんが続ける。
「術式補助。メリアが現象を起こそうとする時、理論的に正しい構成を提示する」
「魔法の補助?」
「魔法じゃない」
れもんはきっぱり言った。
「メリアの能力は魔法に見えるけど、本質は現象の再現」
ウィンドウが切り替わる。火。水。風。土。四つの記号が並んで、その下に
数式が展開された。
「火は移動。水は循環。風は均衡。土は蓄積」
「……科学だ」
「そう」
れもんは尻尾を振った。
「メリアは現象を再現できる。ボクはその計算を担当する」
メリアはしばらく図を眺めた。前世で見ていたものと重なる部分がある。
熱力学。流体力学。この世界では魔法と呼ばれているものが、ほとんど
物理現象の記述と一致していた。
「三番目」
れもんが続ける。
「演算支援。複雑な術式を組む時、ボクが並列で計算する」
「それが量子演算?」
「そう」
れもんは短く頷いた。
「メリアの脳だけで計算しようとすると限界がある。
ボクが横から処理を肩代わりする」
「……なるほど」
「理解した?」
「だいたい」
れもんは少し目を細めた。
「じゃあ一個確認」
「なに?」
「今朝の朝食」
メリアは少し間を置いた。
「……うん」
「ベーコンとパンとオニオンサラダ」
「うん」
「演算に糖分が必要だった」
「……うん」
「摂取した」
「知ってる」
れもんは胸を張った。
「業務上の必要経費」
「……勝手に食べたのに?」
「演算コストだよ」
「リナのベーコンも?」
「誤差」
メリアは額に手を当てた。
「……誤差」
「精密な計算には安定した糖質供給が不可欠」
「急にナビみたいな口調になった」
「仕様」
れもんは平然としている。
「あと」
「まだあるの?」
「重要なこと」
メリアは仕方なく続きを促した。
「なに?」
れもんは視界の端に新しいウィンドウを開いた。
そこには二つのゲージが表示されている。
左がメリア。右がれもん。
どちらも細長い棒状で、メリアのゲージは七割ほど満ちている。れもんの
ゲージは……三割だった。
「これは?」
「思考エネルギー残量」
れもんが言う。
「メリアの分とボクの分、別々に管理されてる」
「回復方法は?」
「食事」
「……食事」
「糖質が直接変換される」
メリアはゲージを見つめた。れもんの三割というのが、ずっと気になっていた。
「れもんのゲージ、低くない?」
「さっき、使った」
「演算で?」
「OS起動で大量に消費した。あとオニオンサラダ食べたのに
変換効率が想定より低かった」
「……玉ねぎだから?」
「たぶん」
れもんは少し不本意そうだった。
「ノエリア様の毒性無効化は完璧だったけど、栄養変換までは
カバーしてなかったかもしれない」
「……じゃあ次からはちゃんとしたもの食べて」
「了解」
れもんは素直に頷いた。尻尾がぶんと振れる。
「メリアも食べて」
「私のゲージはまだある」
「七割は余裕じゃない」
「……十分じゃないの?」
「テストする予定でしょ?」
メリアは黙った。
「推論結果」
れもんがナビ口調に切り替わる。
「事前の糖質補給を推奨します」
「……後で食べる」
「今がベスト」
「後で」
「今」
「……後で」
れもんは一瞬間を置いた。
「了解」
あっさり引いた。
メリアは少し拍子抜けした顔をする。
「……素直」
「押すところと引くところはある」
れもんは平然と言った。
「じゃあ」
ウィンドウが切り替わる。
「テストしてみる?」
メリアの目が少し輝いた。
「やってみたい」
「了解」
⸻
窓を開けた。
港の風が部屋に入ってくる。潮の匂い。遠くで船の汽笛が鳴った。
メリアは窓の前に立った。
「何をすればいい」
「まず」
れもんがウィンドウを展開する。
「風を止めてみて」
「止める?」
「今、窓から入ってくる気流がある。それを遮断する」
メリアは外の風を感じた。ゆるやかな海風。一定の方向から流れてくる。
「どうやって?」
「ボクが構成を出す。メリアはそれを手順通りにやるだけでいい」
視界の中に術式が展開された。図式化された圧力の流れ。どこで何をすれば
いいか、手順が順番に並んでいる。
「……わかりやすい」
「それがOS補助の意味」
れもんが言う。
「メリアが感覚でやっていたことを、理論で裏打ちする」
メリアは手順に従った。気流を感じる。その圧力の輪郭を掴む。押し
返すのではなく、偏向させる。窓の前だけ、風の流れを曲げる。
ふっ。
風が止まった。正確には、窓の前だけ気流が迂回している。カーテンが
揺れなくなった。
「成功」
れもんが言った。
「消費エネルギー、予測値の六十二パーセント」
「少ない?」
「効率がいい。メリアの感覚補正がボクの計算より精度が高かった」
メリアは少し考えた。
「じゃあ、もっと複雑なのは?」
「やってみる?」
「うん」
れもんは新しいウィンドウを開く。
「水を出して」
「水?」
「空気中の湿度を凝縮させる。コップ一杯分」
メリアは視界の術式を確認した。湿度の数値が表示されている。今の
気温と露点温度の差。必要な圧力変化。
少し複雑だった。
「……やってみる」
手を伸ばす。空気の中の水分を感じる。分散している粒子を集める。
圧縮する。温度を下げる。
手のひらの上に、水が滲んだ。
小さな水滴が集まって、一筋の流れになる。
完全なコップ一杯には届かなかった。半分ほどだ。
「半分だった」
「想定内」
れもんは尻尾を振った。
「初回にしては十分。ボクが計算の半分を肩代わりしてたから、
次は一人でできるようになる」
「次はれもん抜きでできるの?」
「慣れれば」
れもんは少し間を置いた。
「でも」
「なに?」
「今日のテスト、ここまで」
メリアは眉をひそめた。
「まだできる」
「推論結果」
れもんがナビ口調に切り替わった。
「メリアの思考エネルギーゲージ、残量四十三パーセント。
ボクのゲージ、残量十パーセント」
「……そんなに使った?」
「水の凝縮で大量消費した。難しい現象ほどコストが高い」
れもんはメリアを見上げた。
「ボクのゲージが切れると演算補助が止まる。メリアだけで複雑な
術式を組むのは今の段階では危険」
「……なるほど」
「続きは昼食後」
れもんは端的に言った。
「異議は?」
「……ない」
メリアは窓を閉めた。
港の音が少し遠くなる。
「れもん」
「なに?」
「思ったより、ちゃんとしてる」
「ナビだから」
「でも朝食は盗った」
「業務上の必要経費」
「さっきも言った」
「事実だから」
メリアは小さく笑った。
「……そういえば」
「なに」
「ゲージ十パーセントって、大丈夫なの?」
れもんは少し間を置いた。
「問題ない」
「本当に?」
「……早めに昼食が望ましい」
「正直に言って」
「望ましい」
メリアは立ち上がった。
「食堂に行く」
「推論結果」
れもんがナビ口調で言う。
「糖分不足。早急な補給を推奨します」
「さっきから糖分糖分って」
「事実」
「……わかった、行く」
れもんは膝から降りた。とてとてと扉の方へ歩く。振り返る。
「メリア」
「なに?」
「ボクの分も頼む」
「……自分で食べるくせに」
「一応」
尻尾が揺れていた。




