月兎亭の灯り
夕方の街は、静かな光に包まれていた。石畳の道にランプの灯りが落ち、
店の窓からは温かな光、遠くで人の声。昼間の賑やかさとは違う、落ち
着いた街だった。
メリアとリシェルは並んで歩いている。通りの先に、見慣れた看板が
見えてきた。白い月に茶色の兎。月兎亭。
「……ここ」
リシェルも足を止める。
「はい」
宿の灯りが窓からこぼれていた。二人は宿の前で立ち止まる。石畳の通りを、
誰かがゆっくり歩いていく。遠くで扉の閉まる音。
「今日は楽しかったです」
メリアは少し考えてから答える。
「私も」
静かな声だった。少し沈黙が続く。
「いろいろ歩きましたね」
「はい」
メリアが頷く。
「市場」
指を折るように言う。
「ポルティーヤ。舟。港」
リシェルがくすっと笑った。
「全部食べ物と乗り物ですね」
「……街の特徴です」
真面目な顔だった。リシェルは肩をすくめる。
「そうかもしれません」
風が少し吹いた。宿の看板が軽く揺れる。リシェルは少し考えるように黙った。
それから言う。
「また……」
言葉が止まる。メリアは静かに待った。リシェルは少しだけ照れたように笑う。
「時間が合えば……」
小さく続ける。
「また、街を歩きましょう」
「はい。また」
短い返事だった。リシェルの表情が少し柔らかくなる。
それから、少しだけ間があった。リシェルが視線をわずかに逸らす。
「あの……」
「はい」
「ギルドで、その……叫んでしまったので」
耳が少し赤い。
「今さら、さん付けも変だなって思っていて……」
一拍置いて、小さく言った。
「これからも、メリアって呼んでいいですか?」
メリアは少し考えた。
「……どうぞ」
あっさりした返事だった。リシェルは拍子抜けしたように瞬きをして、
それからくすっと笑う。
「ありがとうございます」
「やっぱり、デート……」
「違います!」
今日最後の一発だった。
「では」
メリアが宿の扉に手をかけ、開く。宿の中から暖かな光が流れてくる。
メリアは一歩入って、それから振り返った。
リシェルはまだそこに立っている。街灯の下。
リシェルが軽く手を振った。メリアは小さく頷く。そして扉が閉まった。
月兎亭の灯りが通りを照らす。石畳の道、遠くに運河。静かな夜のポルタ=ルクス。
リシェルは少しだけ宿を見上げた。それから踵を返す。夜の街へ歩き出した。
灯りがひとつ、またひとつと街を照らしていく。
水の都の夜は、静かに始まっていた。




