初依頼
翌朝。月兎亭の食堂には、まだ朝の柔らかい光が差し込んでいた。
パンの焼ける匂い、スープの湯気、窓から入る潮風。ポルタの朝は、
いつも少しだけ優しい。
メリアは席に座り、パンを口に運ぶ。少しだけ、胸が高鳴っていた。
今日は――初依頼の日だ。
「お、今日はえらい早いやん」
向かいから声が飛んでくる。リナだった。湯気の立つ皿をテーブルに
置きながら、にやっと笑う。
「どないしたん?まだ朝やで?」
メリアは小さくパンをちぎった。
「……うん」
リナは腕を組んで少し首を傾げ、一拍おいてから言った。
「その顔……もしかして、ギルド行くんちゃう?」
メリアは少しだけ目を逸らした。
「……初依頼」
その一言で、リナの顔がぱっと明るくなる。
「おお、ついにやな!ええやんええやん、冒険者っぽいやん!」
椅子を引いて腰掛け、少しだけ真顔になる。
「でも無茶したらあかんで?月兎亭のお客さん減ったら困るしな」
メリアは小さく頷いた。少しだけ誇らしい。
昨日、薬草辞典を前にリシェルが言った言葉が、胸の奥に残っていた。
「森はね、焦らなければ答えてくれるの」
今日は、それを試す日だ。
⸻
朝のポルタはまだ静かだった。市場は準備中で、運河の水面には薄い
朝霧が浮いている。ギルドの扉を押すと、中はすでに人が動いていた。
依頼掲示板の前に立つ。討伐、護衛、採取。並ぶ紙の中から一枚を選んだ。
翠影の森 薬草採取。初心者向け、距離短、危険度低。ちょうどいい。
紙を外して受付へ向かうと、リシェルが顔を上げた。
「おはようございます、メリアさん」
「……これ」
依頼書を差し出す。リシェルは内容を確認して頷いた。
「いいと思う」
少しだけ微笑む。
「焦らないでね」
昨日と同じ言葉。それだけで、少し安心する。
⸻
銀風街道。ポルタを出ると、街の匂いがすぐに薄れていく。石の道、
朝露に濡れた草、遠くに見える森。翠影の森は、名前の通り緑の影が
重なる場所だった。
森に入ると空気が変わる。街より少し湿っていて、葉が光を柔らかく
している。鳥の声、風、遠くで小さく水の音がする。
メリアは立ち止まり、深呼吸した。吸って、止めて、吐く。リシェルの
動作を思い出す。胸の奥の緊張が、少しほどけた。
⸻
森の中をゆっくり歩く。足元、葉、土。見るものが増える。
やがて、目的の薬草を見つけた。しゃがんで葉を持ち上げ、観察する。
葉脈、三対。茎の赤み。土の湿り気と匂い。全部、辞典の説明と一致する。
間違いない。
ゆっくりと、根を傷つけないように採取して袋に入れた。
また歩く。似た植物に止まり、しゃがんで観察する。葉脈、四対。毒草だ。
触らない。また歩く。またしゃがむ。また観察する。
時間がゆっくり流れていく。焦らない。森は答えてくれる。リシェルの
言葉が、何度も浮かんだ。
⸻
気づくと、袋の中には薬草が少しずつ増えていた。量は多くない。でも、
どれも状態がいい。
森の光が少し傾いていた。思ったより時間が経っている。メリアは立ち
上がった。そろそろ帰ろう。
その時だった。森の音が、ふっと変わった。鳥の声が消える。風が止まる。
静かすぎる。
枝が折れる音。荒い呼吸。
次の瞬間、鎧の少年が森の奥から飛び出してきた。顔が青い。メリアを見る。
--赤い髪だった。
「そこの人――逃げて!」
言葉を残して、そのまま駆け抜けていく。メリアは動けない。何が起きて
いるのか、理解が追いつかない。
その時、背後の草むらが揺れた。低い唸り声。空気が変わる。さっきまで
柔らかかった森が、急に張り詰める。
草が揺れ、何かが――跳ねた。
メリアの指先から、葉脈の感触が消える。森の時間が、突然、加速した。
事件が始まった。




