薬草辞典
二階講義室を出ても、メリアの頭の中ではまだ風の軌道が回っていた。
指先に残る熱が、現実と訓練の境界を曖昧にしている。
階段を降りると、ロビーは昼の活気に満ちていた。依頼書を前に相談する
冒険者、報告を終えて笑い合う者、鎧を脱いで安堵する者。講義室とはまるで
違う空気だ。
「……お腹すいた」
思わず零れた言葉に、柔らかな声が重なる。
「メリアさん。お昼ご一緒しませんか?」
振り向くと、リシェルが微笑んでいた。押し付けがましくない、誘うと
いうよりそっと余白を差し出すような優しさだった。
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食堂のテーブルに向かい合う。湯気の立つスープの香りが、緊張をゆっくり
溶かしていく。
「依頼はね、報酬や難易度だけで決めないほうがいいの」
「……はい」
「時間帯も見るの。森は朝と夕方で、まるで顔が違うから」
リシェルは言葉を急がない。相手の理解速度に合わせる話し方だった。
「初心者なら、午前の森がいいわ」
「どうしてですか?」
「光が安定しているの。足元も見やすいし、森の生き物も落ち着いている
時間だから」
少し考え、続ける。
「最初は小さな依頼でいいの」
それは講義の指示とは違った。評価も冷たい指摘もない。ただ、寄り添う
助言だった。
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午後四時、ロビーは昼の喧騒を終え落ち着きを取り戻していた。窓辺の
丸テーブルに夕陽が差し込み、木目が黄金色に浮かび上がる。
「今日は早上がりなの。少し勉強しませんか」
私服に着替えたリシェルは、制服姿よりも柔らかい印象だった。彼女が
取り出したのは、使い込まれた薬草図鑑だった。角は丸くなり、ページの
端には何枚も付箋が挟まっている。
「まず、森の入口付近に多いのはこれ」
開かれたページには、細い葉、浅い鋸葉、茎の赤みが描かれている。
「似ている植物があるから、葉脈の分かれ方を見るの。ここ、主脈からの
分岐が三対」
リシェルの指が図を押さえる。メリアは顔を寄せた。
「毒草のほうは四対なの」
声は穏やかだが、説明は具体的だった。
「群生地では、根元の土も見るの」
「土ですか?」
「湿り気と匂い」
図鑑の余白には書き込みがあった。採取時期、発見場所、注意点。
「……全部覚えているんですか?」
「覚えるというより、何度も見てるだけよ」
リシェルが笑う。だがその目は真剣だった。
「森はね、焦ると何も見えなくなるの」
そう言って、深呼吸をしてみせる。吸って、止めて、吐く。
「まず、呼吸」
メリアも真似する。胸の奥の緊張が少しほどけた。
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ページをめくる音が静かに響く。
「採取は量じゃないの。状態が大切なの。花の開き具合、葉の張り、
虫食いの有無」
リシェルの説明は、知識を詰め込むものではなかった。観察の目を育てる
ものだった。
メリアはノートに書き写す。だが途中で手が止まる。理解が追いついている。
知識が線でつながる感覚。
「……なんだか、見える気がします」
「そう。それでいいの」
リシェルはすぐに肯定した。否定しない、急かさない。その距離感が、
メリアの中に静かな自信を育てていく。
夕陽がページを橙色に染めるころ、図鑑は静かに閉じられた。リシェルは
付箋を整えながら、最後に言った。
「森はね」
ほんの一瞬だけ言葉を切る。
「焦らなければ答えてくれるの。見ようとすれば、ちゃんと見えるから」
その言葉は強くない。けれど、芯があった。
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月兎亭へ戻る道、メリアの頭の中では葉脈や土の匂いが何度も反復されていた。
部屋に戻ってからも、図鑑の挿絵がまぶたの裏に浮かぶ。
魔法と、少し似ている。観察すれば、見えてくる。
眠りに落ちる直前、ひとつの考えが浮かんだ。
――明日、森へ行こう。




