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暴走のあとで、おなかが鳴る

 「そこの人、早く逃げて!」


 声が、風を裂いた。


 赤髪の少年が薬草群生地へ飛び込んできた。肩当てが裂け、左腕に血が

滲んでいる。呼吸は荒いが、目はまだ死んでいない。背後を振り返りながら、

一直線に駆け抜ける。


 メリアは振り向いたまま動けなかった。さっきまで数えていた葉脈の

感触が、指先からするりと抜け落ちる。足に力が入らない。腰が抜ける

ように地面へ落ち、乾いた土と枯葉が舞う。


 遅れて、唸り声。


 薬草群生地の縁の草が左右に割れ、緑色の影が跳ね出た。はぐれゴブリン。

赤黒い目がぎらつき、口端から唾が飛ぶ。小柄だが筋肉は硬く、手には血の

ついた刃物。距離は、近い。


 逃げた少年は振り返りかけるが、足を止められない。二匹は仕留めた。

だが、腕の痛みが思考を鈍らせる。残り一匹。焦りが空気に混じる。


 ゴブリンは標的を変えた。尻もちをついたままの少女へ。


 メリアの視界いっぱいに、牙と赤い目が迫る。息が詰まる。喉が鳴るが声に

ならない。湿った土と血の鉄臭さが濃くなる。足が、動かない。


(死ぬ)


 それだけが、頭の中を占めた。論理でも判断でもない。ただの確信。転生して

まだ数日、ようやく森に来られた日に、こんな場所で。


 ――深呼吸。


 リシェルの声が、どこか遠くで響いた。吸って、止めて、吐く。けれど吸い

込んだ空気は、肺に届く前に震えた。


 ゴブリンが跳ぶ。


 その瞬間、右目の奥で何かが弾けた。熱ではない、痛みでもない。濃密な

何かが眼窩の奥から溢れ出し、視界の端が赤く滲む。


「……っ」


 意識より先に、両手が前へ突き出された。


 風が、逆巻いた。


 最初の一閃は細い。針のように鋭い刃が空間を裂いて飛び、ゴブリンの肩を

かすめて血が弧を描く。続けて二本、三本。だが軌道は一定ではない。曲がり、

ねじれ、途中で散るものもある。刃ごとに密度が違い、空気の層が歪んで砂が

舞い上がる。


 ゴブリンが地面に着地し、再び踏み込む。咆哮。


 その声を掻き消すように、風が爆ぜた。薬草群生地の上空に、無数の緑の線が

走る。糸のようなもの、太く重い塊、刃というより圧力に近い風塊。それらが

不規則に生まれ、消え、また生まれる。制御されていない。ただ、溢れている。


 ゴブリンの足元を刃が薙ぐ。脛に裂傷、体勢が崩れる。それでも前に出る。

牙を剥き、腕を振り上げる。


 メリアの視界は赤く脈打つ。さらに濃い一撃が放たれた。太く重い風の塊が

胸部を打ち、鈍い音が響く。ゴブリンの体が後ろへ弾かれ、地面を転がる。


 だが、まだ動く。血を撒き散らしながら、這う。


 その姿が視界に入った瞬間、風刃の数が増えた。十、二十、数えられない。

密度はばらばらで、鋭いものは肉を切り裂き、鈍いものは打ち据える。風が

絡みつき、肉片が舞う。


 時間は長くない。数分にも満たない。


 ゴブリンの動きが鈍り、腕が地面に落ちる。首元に走った一条が深く食い込み、

血が噴き出す。最後に喉がひくりと震え、静止した。


 風が、止んだ。


 薬草群生地に残るのは、裂かれた草と横たわる死体。形はある。何であったかは

分かる。だが明らかに、過剰だったと理解できるだけの損壊だった。


 メリアの両手が震えながら下がる。右目の熱が、すっと引いた。


 静かだった。耳が鳴っている。自分が何をしたのか、少しずつ輪郭が戻ってくる。

風が出た。止まらなかった。あれは、自分がやったのか。


 視線が、横たわるものへ向いた。すぐに逸らした。


 代わりに、底なしの空虚が胃の奥からせり上がる。手足の感覚が遠い。まぶたが

重い。身体が、何かを使い果たした後の感触だった。


 ぐぅ~。


 情けない音が鳴った。


「あ……」


 視界が揺れる。立ち上がろうとして膝が折れ、地面に手をついたまま横へ崩れる。

朝から歩き続け、緊張と恐怖で消耗し、さらに暴走的に魔力を吐き出した反動。

身体が燃料を求めていた。


 赤髪の少年が戻ってくる。息を整えながら、倒れたゴブリンの左耳を切り取る。

討伐証明。手際はまだぎこちないが、迷いはない。それから少女へ駆け寄った。


「大丈夫か?」


 メリアはうっすら目を開け、少年を見上げる。瞳はもう赤くない。ただ焦点が

合っていない。門の前で見た赤い髪だ、と……どこか遠い意識の端で思った。


「……おなか、すいた」


 緊張感にそぐわない言葉がぽつりと落ちた。少年は一瞬呆れたように瞬きをし、

それから苦笑する。


「……は?」


「おぶって」


 駄々をこねるような声。命の危機が去った安心が、体から力を抜いていく。


 少年はため息をひとつついて、少女の腕を肩に回させた。軽い。思ったよりも、

ずっと。


 背中に温もりが乗る。森はもう、薄暗い。夕陽は沈みかけ、木々の間から

残光が差し込むだけ。少年は足を踏み出す。落葉を踏む音が、静かに続く。


 背中の重みが、少しずつ緩む。呼吸が整い、やがて寝息に変わる。


「……寝るなよ」


 小さく呟くが、返事はない。


 薬草群生地には、裂かれた草と動かない影だけが残った。森は何事もなかったかの

ように、静かに暮れていく。

挿絵(By みてみん)

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