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寝落ちで無双〜理不尽にクビにされた社畜が、睡眠スキルで最強の探索者になった件〜  作者:


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第56話 眠れば無双

 次で決める、と言葉にした瞬間、頭の中が静かになった。

 焦りや、精度が落ちたことへの動揺もなく、ただやることが一つに絞られた感覚だけがある。

 独裁者の影が広がりながら迫り、周囲の空気が塗り替えられて灰色の夢の世界がさらに暗くなっていく。

「栞」

「分かってる。全部乗せる」

 以心伝心の接続が今まで感じたことのない密度になり、栞の気配が隣にいるより近く感じられた。


 ◇


 目を閉じてコマンド空間に落ちると、灰色の空間で隣に立っている栞や、金色を帯びているコマンド画面の白枠が鮮明だ。

「作戦を変える」

「聞いてる」と栞が即座に頷く。

「翠嵐で核の位置を確定させる。その瞬間に全バフを集約してくれ。黒淵で一撃で断ち切る」

「一撃に全部乗せるのね」

「核を断ち切るなら深く入れる必要がある。黒淵の紅刃の付与が一番通る」

「分かった。翠嵐が核を捉えた瞬間に全力を切り替える。タイミングは任せて」

「頼む」

 ポン、と今まで聞いてきた中で一番重い電子音が鳴った。


 ◇


 踏み込むと、独裁者の影が広がって腕のような形が複数伸びてきた。

 翠嵐の刃が最小の動きで弧を描く。

 影の一本を斬る。散る。

 もう一本。散る。

 また一本。

 散るたびに、核の位置が絞れていく。

 右の奥。少し上。

 昨日の一瞬で見えた光の残像と、今の散り方が一致した。

 核はそこにある。


 独裁者の影がまた全体を広げようとしたが、栞のデバフが全力で叩き込まれて動きが重くなった。

 その一瞬で踏み込む。

 翠嵐の刃の切っ先が核のある場所へ向かい、核の輪郭がほんの少しだけ浮かんだ。

 その瞬間、栞の全バフが切り替わった。

 身体の奥から熱が満ちる、今まで受けてきた支援の中で最大の出力だ。

 コマンド空間で『今』と栞の声が届く。

 黒淵の紅刃が翠嵐の刃の軌道を引き継ぎ、核へ向かって真っ直ぐ踏み込んだ。

 魔力ごと断ち切る刃が、核に届いた。


 ◇


 音がなかった。

 ただ独裁者の影が止まり、広がろうとしていた輪郭が内側へ向かって縮んで、塗り替えていた空気が元の灰色に戻っていく。

 核を中心に亀裂が走った。

 光ではなく、亀裂の向こうが透けて見える感じがして、影の向こうに何もない空間があるのがわかる。

 独裁者の影が声を出したが、言葉ではなく圧力だった。

 胸の奥に直接届く重い何かは、社畜時代の終電後のオフィスの空気に似ていた。

 出口が見えない感覚、明日も同じことが繰り返される感覚、どれだけ頑張っても報われない感覚。

 それが全部一瞬で押し寄せてきたが、俺は止まらなかった。

 あの頃の俺は二十時間眠って、ここまで来た。

 その事実だけを胸に、黒淵の紅刃が核を断ち切った。


 ◇


 パチリ、と目が開く。

 独裁者の影が霧のように広がっていき、空気に溶けて散ってどこかへ消えていく。

 最後に影の中心から一筋の細く静かな光が出て、空に向かって伸びて消えた。

 沈黙が落ちた。


 ◇


 空が変わった。

 灰色だった空の一部が薄く明るくなり、雲が切れたわけではないが光の透け方が変わったのだ。

 夢の世界の空気が、少しだけ軽くなった気がした。

「……終わったか」

 俺が呟くと、「ええ」と栞の声が隣から届いた。

 振り向くと栞が骨杖を両手で持ったまま立っており、全力のバフを出し切った後だから当然だが、息が少し乱れている。

「怪我は」

「ない。あなたは」

「掠ったところが少し痺れてるけど、動ける」

「……よかった」

 栞が短く息を吐き、俺たちは少しの間、変わっていく空を見上げた。


 ◇


 来た道を引き返すと、黒い土の地面が少しだけ色を取り戻しているように見えた。

 気のせいかもしれないが、踏むたびに夢の気配の質が違い、重さが抜けている。

 カルーンと師匠が待っていた場所まで戻ると、カルーンが一秒だけ何かを確認するように俺たちの顔を見た。

「……終わったか」

「ああ」

 カルーンが目を閉じて長い沈黙があり、それから目を開けて少しだけ明るくなった灰色の空を見上げた。

「……本当に終わったんだな」

 俺に言っているのか自分に言っているのか分からない、独り言みたいな言い方だった。

 師匠が静かに口を開く。

「よくやった」

 短い言葉だったが、この人が言うと重みが違い、どれだけ長くここで持ちこたえていたかがその四文字に全部入っていた。


 ◇


 四人で少しの間その場に立っていたが、することがなかった。

 することがなくなった、というのが正しい。

 栞が空を見上げながら、「雲が薄くなってる」と静かに言う。

「独裁者がいなくなったからだ」

 カルーンが答え、「完全には晴れず時間がかかるが、もう曇り続けることはない」と続ける。

 俺は白が混じり始めている灰色の空を見た。

「師匠の状態は」

 俺が聞くと、師匠が少しだけ口角を上げ、笑顔というには控えめだったが表情が動いた。

「持ちこたえた甲斐があった」

「悪化してると聞いていたが」

「悪化はしていた。だが終わった。あとは回復するだけだ」

 カルーンが横で静かに息を吐いたが、安堵なのか疲労なのか、それとも両方なのか判断できなかった。


「カルーン」

 俺が呼ぶとカルーンが視線を向けたので、「師匠のそばにいてやれ」と告げる。

「……ああ」

 一瞬だけこいつらしくない顔をしてから、いつもの無表情に戻った。

「優馬」

「何だ」

「……礼を言う」

 カルーンが真っ直ぐ俺を見る。

「伝承通りだった。お前が来てくれた」

「たまたまスキルが噛み合っただけだ」

「そうじゃない」

 カルーンが短く言い切った。

「お前が動き続けたから、ここまで来られた。それは事実だ」

 言葉にする必要がない気がして俺は何も言わなかったが、隣で栞が小さく鼻を鳴らした。

「言葉が出ないのね、珍しい」

「……うるさい」

「素直に受け取りなさい」


 ◇


 帰る前に師匠が一度だけ口を開き、俺と栞を見て、それからカルーンを見た。

「一つだけ伝えておこう。この世界は、お前たちが来るたびに少し安定する。独裁者が消えた今、夢の世界は自力で回復していく。ただ、完全に戻るには時間がかかる」

「また来られるか」

 俺が聞くと、師匠が頷いた。

「来られる。以心伝心があれば、栞も一緒に来られる。扉の鍵は、お前が持っていろ」

「分かった」

「急がなくていい。ただ、忘れないでくれ」

 それだけ言って師匠は目を閉じ、話は終わりらしい。


 ◇


 カルーンと向かい合う。

「帰るか」

「ああ」

 少しだけ間を置いて、カルーンが「また来るか」と尋ねてきた。

「来る。次はもう少し景色が変わってるといいな」

「……そうだな」

 カルーンがわずかに目を細め、正確には笑顔というには薄いが少なくとも今まで見たことのない顔をしたのを、俺は初めて見た気がした。

「待ってる」

 一言だけ言って、カルーンは師匠のそばへ戻った。


 ◇


 来た道を戻り、廊下を抜けて扉の前に立つと、扉は開いたままで向こうに青白い光が壁を照らす石畳の廊下が見える。

 栞が俺の隣に並んだ。

「帰れる?」

「たぶん目を覚ませば帰れる。以心伝心を切れば栞も一緒に戻れるはずだ」

「たぶん、ね」

「試してみないと分からない」

「……またそれ」

「言い切れないことは言い切らない」

「知ってるわよ」

 栞が短く息を吐く。

「じゃあ帰りましょう。ラーメンの続きがあるわ」

「昨日食ったろ」

「もう一回食べたいのよ」

 俺は少しだけ口角が上がった。

「分かった。帰るか」

「ええ」

 目を閉じた。


 ◇


 引き寄せられる感覚があり、夢の底から現実の方向へ浮かび上がっていく。

 途中で以心伝心の接続を確認すると栞の気配がまだ繋がっており、一緒に戻れることが分かった。


 パチリ、と目が開く。

 見えたのはタワマンのリビングの天井で、朝の光が窓から差し込んでおり、夜に目を閉じたはずがもう朝になっていた。

 隣を見ると椅子で目を閉じていた栞が同時に目を開け、二人の視線が交差する。

「……戻った」

「ええ」

 栞が骨杖を置いてゆっくりと立ち上がったが、夢の世界での消耗が現実の体に残っているのか少し足元がふらついた。

「大丈夫か」

「平気。ちょっとふらつくだけ」

 俺も立ち上がったが、足元が少し重い。

 テーブル、ソファ、窓の外の池袋の街と、リビングはいつも通りそこにあって何も変わっていない。

 でも、何かが終わったのだと実感した。


 ◇


 スマホを手に取ってステータスボードを開くと、いつも通りの画面の中で一行だけが変わっていた。


『夢の扉まで:完了』


 道標の石の項目が消えており、俺はボードを閉じた。

 栞がキッチンへ向かいながら、「コーヒー、淹れる?」と振り返る。

「頼む」

 コーヒーメーカーが動き始める音がし、俺はソファに腰を下ろして天井を見上げた。

 社畜時代に解雇されて、二十時間眠ってスキルを手に入れて。

 栞と組んでカルーンと会い、欠片を集めてSランクまで上がって夢の世界へ行き、そして終わった。

 終わったのに、特に何も感じない。

 ただ、静かだ。

 これが正解な気がした。


「ねえ」

 栞がカップを持って戻ってきた。

「どんな顔してるの」

「どんな顔してるか、自分では分からない」

「……ぼんやりした顔よ」

「それが普通の顔だ」

 栞が呆れたように笑って、カップを置いた。

「ラーメン、行くわよ」

「昨日も食ったけどな」

「いいでしょ。今日くらい」

「……まあ、今日くらいはいいか」

 窓の外に、池袋の朝が広がっている。

 いつも通りの街だ。

 俺は立ち上がった。

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